凡てが釦の掛け違いから始まった出来事だったのだ。

「そ、それは本当なのか!あ、あのときの涼子の相手が牧朗君だったというのか!」

隣の父は土気色の顔色で、唇はわなわなと震え、愕然とした。

「き、菊乃――」

母の名を呼んだ。

「お、お前そのことを、し、知っておったのか?」
「最初は――知りませんでした」
「さ、最初とは――何じゃ」
「ええ、九月頃でしたか――若夫婦の仲がどうもおかしいと富子さんに聞いたものですから。様子を見に参ったのです。そうしたら途中、研究部屋の戸が開いていて……。ひょいと覗くと中に牧朗さんはおらず、机の上に古い手紙がのっていました。ぬ、盗み見るつもりはなかったのです。でも……」

中禅寺は母に先を進めるよう誘導した。

「何が書いてあったのです?」
「妊娠の疑いを告げる手紙でした。日付は昭和十五年の大晦日。そう、涼子の字でした。忘れもしません。あのときの妊娠を告げる手紙だった。私は、混乱しました。十年も苦労してやっと梗子を娶った牧朗さんが、妻の姉である涼子と通じていたなんて――それに牧朗さんがあのときの男だとしたら、最初に求婚に来たとき既に牧朗さんと涼子は関係があったことになってしまう。あれこれ考えた末、私は涼子と牧朗さんが共謀して、この久遠寺の家に仇をなそうとしているのではないか――と思い至ったのです」
「仇?」
「二人の間に出来た子供の――仇でございます。そう考えると、私は……怖くて怖くて、とても凝乎じっとしてはいられませんでした。それに、その恐ろしい考えが事実だとすると、梗子があまりにも不憫ではありませんか。あの子は何も関係ないのです!恨まれるのなら私です。私はこっそり梗子を呼んで、牧朗さんと涼子が密かに会ったりはしていないかときました。勿論、過去のことはいいませんでしたが……梗子は何も知らないようでした」
「そうか。それで梗子は二人の仲を疑ったんだな。事務長、あんたの心配は大きな悲劇の引鉄ひきがねになっちまったようだな」

木場はそういった。母は一種凄惨な顔付きをした。
父は見て見ぬ振りをし続け、自分の与り知らぬ所で起きた出来事を聞いて惚けてしまった。机の上の茶碗を見つ乍ら、「何で儂にいわなんだ。何でひと言……儂にいわなんだ……」と呟いた。

「あなたは……!赤ちゃんが消えたことも含めて、煩わしいことは一切耳に入れるな、と仰ったじゃないの。だから私は――形振なりふり構わずに、それこそ必死で――!」
「解っとる。解っとるが――」
「事務長。あんた矢っ張り事件の揉み消しに関与していたんだな」

木場の一喝で私を挟んで行われた夫婦の諍いは幕となり、間の悪い沈黙が訪れた。
沈黙を破ったのは中禅寺の沈んだ声だった。

「涼子さんのことを聞かせてください。僕にはまだ判らないことがある」
「陰陽師の先生は、凡てお見通しという訳ではないのですか」
「勿論です。僕はばらばらと散逸した事実を繋ぎ直しているだけです。歯抜けのままでは完全なかたちは見えない」

隣の母は幽かに笑った。そして、優しそうな表情を浮かべて語り始める。そんな母の顔を見るのは久しぶりであった。

「最初の子を不幸な形で亡くして、そのうえ私は他人ひとの子を攫うような大事を引き起こしてしまった。立ち直るのは大変でございました。それでも主人の助けなどもございましたから二年後には次の子を身籠りました。また、無頭児ですか、その、同じような子が出来るのではないかと考えると、気が狂う程不安で――妊娠している間の十箇月が何年にも感じられたものです。しかし、なんとか無事に涼子が生まれました」

でも――涼子は身体が弱く、病気ばかりしていた。

「年子で生まれた梗子、その二年後に生まれた名前は健康そのものでした。涼子は発育も遅く、三人を並べてみてもどちらが姉か判らない程でした。そのうえ――育つに連れ、涼子には忌まわしい久遠寺の女としての兆候が現れるようになったのでございます」

忌まわしい久遠寺の女。
母曰く、ある日突然ウロが来るそうだ。
つまり、ものごとが全く解らなくなって、我を失ってしまう――らしい。
母や祖母には、あまりそのような兆候は起こらなかったが大祖母は能くそうなったらしい。

それは神憑りなのだ。
そのウロが来ている間に、大祖母は人でないモノの声を聞き、誰も知らない筈のことを述べたと母は説明した。

「その話を聞いておりましたから――私は涼子を可哀想に思う反面、恐ろしくも思っておりました。それでなくても病がちで、学校にも思うように通えない、外でも遊べない、友達もいない……そんな哀れな子だったのです」

姉妹きょうだいの仲は良かったのですか――と中禅寺が訊いた。

「私も梗子姉様も、涼子姉様のことは子供の頃から心配していました。学校での出来事や友達との話を、部屋で一人きりのお姉様に話すことが日課になっていましたし、私達が楽しそうに話しているのを優しい目をして聞いてくれました。それに、涼子姉様は私に色々な本を読み聞かせてくれました。でも、内心は穏やかではなかったのかもしれません。きっと、羨ましくて仕方がなかったんだと――今にして思います」
「梗子も名前も活発な子でしたが……涼子は妙に老成した、達観しているようなところがあって。二人とも体の弱い姉を能く思い遣っておりましたから、仲が悪いということはなかったと思います。多少ぎこちない家族ではありましたが――あんなこと――涼子の妊娠騒ぎがあるまでは、取り敢えず私は幸せだと思っておりました」
「あんた……娘が男と逢ってるのに気が付かなかったのか?」

木場が、何か遣り切れないという顔をした。

「涼子は外に出るのもままならなぬような娘でございましたし、月のしるしもまだなかった。それは、梗子の方が早かったくらいですから普段の生活とて、全くそれまでと変わりなく――気が付きませんでした」
「院長、あんたはどうなんだ、娘の……その」
「判らんかった。牧朗君が梗子を嫁にくれといって来たことで、初めて娘達がもう年頃なんだと気付いたくらいだ」
「藤牧牧朗が姉と妹を間違えていたとしてだな、あんたは奴が求婚に来たとき怪しいとは思わなかったのか?」

木場の問いを父は否定した。

「思わんかった。涼子の妊娠の発覚が先だったら、或いは彼を疑ったかもしれんが、妊娠してるのが解ったのは牧朗君が来てから一箇月も後のことだった。そのとき涼子は、もう妊娠六箇月だった」
「あの頃の涼子姉様は殆ど部屋から出て来なくて、床に臥せっていたから具合が悪いのかと思ってたので私もあの光景を見るまでは―――解らなかったのです」

出産と殺害現場を目にするまでは……。

「先入観……というのですか、思い込みというのは恐ろしいもので、お腹がかなり大きくなっているのに、妊娠だなんて思わなかった。本人にもそんな自覚はなかったようです。しかしそうだと判ってからは……涼子は人が変わってしまいました」

――堕ろしなさい!父親が誰かも解らない子供なんて産んではなりません!

――いやよ!この子はあの人の子供よ、絶対に産むわ!

――涼子、父親は一体どこの誰なの!?

――私に触らないで!この子を殺すつもりだろ!

「すると涼子は、手が付けられない程凶暴になって、獣が憑いたように――私は何度も涼子に打たれ、蹴られて――満身創痍でございました。突然降って湧いた家庭の凶事に私はどうして良いのか解らなくなって……でも、梗子と名前にだけは知られてはいけないと思いました。ですから取り敢えず二人を行儀見習と称して半年の間知人宅に預けることにして、涼子の説得に当たりました」
「しかし……妙だな。あんた今涼子が妊娠している自覚がなかったといったが、涼子が牧朗に手紙で妊娠を告げたのは、前の年の大晦日だ。当然自覚はあったということになるじゃねえか」
「そうなのです。手紙を見て私が涼子に不信を抱いたのも、そう思ったからです。あの子は私達を欺いていたことになる。いずれにしても私にとってあの時期は地獄でした。いっそ黙って産ませてやろうか、とも思いましたが――」
「無頭児――ですね」

中禅寺の言葉は父が受けた。

「そう。涼子が無頭児を産む可能性は十分あった。しかしそれ以上に、あれは元元虚弱体質だったから、出産すること自体が命懸けになる。医者の立場からも薦められる状況じゃなかった。だが、如何いかんせんもう七箇月を迎えようという時期だ。堕胎するなど一層に危険だ。どうにも出来ん」

私は両親の話を黙って聞いた。長年の蟠りの原因と道筋を知らなければならない。

「涼子の凶暴性は日に日に増して、ついにはあの、小児科病棟の用具置き場――書庫の脇の小部屋ですが、あそこに立て籠もってしまったのです」
「立て籠った?どうやって入ったんだ?」
「当時は出入りが出来ました。ただ、外の錠前を掛けて、鍵を持ったまま中の扉から入り、内側から鍵を下ろしてしまうともう外からはどうしようもないのです」
「鍵は慥か小児科の医師の……菅野さんでしたか。その方が保管されていたとお伺いしましたが――涼子さんはどうやってそれを手に入れたのです?」
「あれはそのときおらなんだ。その少ォし前から姿を消して――失踪じゃな。だから小児科が営業出来なくなってね。そんときはもう閉めておったのだよ。だから鍵は母屋にあったのかな」
「え……?お父様、菅野さんは空襲で亡くなったのではないのですか?涼子姉様はそう言ってたから、てっきり……」

私の声は知らぬ間に震えていた。涼子が嘘を言ったのか。

「おい、一寸待て。関口、お前さん慥か鍵を持ってた菅野医師が空襲で死んで、それからあそこは開かないんだ、そういってなかったか?」

木場も私と同じように困惑した。父は、否定した。

「菅野が空襲で死んだ?そんな話は聞かんな。あれは何の前触れもなく姿を消して、それっきりだ。慥か――そうそう、牧朗君が求婚に来たすぐ後だったかな。そのときかかっていた患者を取り敢えずこなして、その後は人手不足で診察が不如意になってな。涼子のすったもんだもあったものだから、あの建物は春頃に閉めたんだ」
「それで、立て籠もった涼子さんはどうしたのです?」

中禅寺が話の軌道を修正した。

――涼子お願い、あなたは子供を産むべきじゃないのよ!あなたの命にも関わることなのよ!

――涼子!お願い……出て来てちょうだい……。

――子供を育てることはあなたが思っているよりも大変なのよ!

――涼子!……涼子――

「あそこは扉を閉めてしまうと声も能く聞こえません。中からは産ませてくれなければここを出ない――と泣き叫ぶ声が僅かに聞こえましたが……三日間、私は扉の前で泣いて頼みました。そして四日目に、産ませてやることを大声で涼子に告げたのです」

――……もう解ったわ。涼子――産みなさい。久遠寺を呪いを受け止める覚悟がおありなら。

「出て来た涼子は丁度、今の梗子のように窶れていましたが、子供のようにはしゃいで――それまでの獣のような凶暴性は嘘のようでした」

――産まれて来るのは男の子かしら、女の子かしら?名前も考えないといけないわ!ふふふ、楽しみ!

「涼子はそれからあの小児科病棟で出産を待つ生活を始めました。人目を憚った訳ですが、ともかく涼子は安定を取り戻しました。ただ、私は無頭児のことがありますから大層複雑な心境ではございました。私には夫がいましたが、涼子には支えになるような人――父親になるべき人はいなかったのですから」

外は昨日から引き続き雨が降っていて止む気配はない。室内は静寂が訪れ雨音だけが響いていたが、それは一瞬だった。

「そして丁度、今のような夏が始まる頃でした。涼子は……あの部屋――今の書庫で――無頭児を産んだのです」

母は涙で震える声も気にせず、

「私は……私の母がしたように……同じ石でその子を打って――殺しました。そして、それを……この子は見てしまったのです」

緩々とした動きで私の方へ顔を向けた母の顔は、涙で濡れていた。

母の告白で、部屋にいる全員の視線が私へと注がれているのを感じた。それは哀みの意味なのか、驚愕の意味なのか判別出来なかった。中禅寺は、ゆっくりと私へと語りかけた。

「なまえさん、漸く君の番だ。長い間君に憑いて離れないモノを落とすときが来たんだ。君があの夜に何を見て、どう感じたのか――辛いだろうが偽りなく正直に話すんだ」

中禅寺の言葉に、私は長年の痼りが嘘のように――吹っ切れたかのように――私が知っていること凡てを語り始めた。

「当時、涼子姉様は心身共に不安定で部屋から一歩も出ませんでした。父も母も疲れ切っているようで家全体が暗く澱んでいました。行儀見習として半年間知人の家に梗子姉様と一緒に預けられることになっても、実家で一人残された姉様のことを、梗子姉様と一緒に心配してました。私はまさか姉様が妊娠しているなんて夢夢思ってもいなくて、どうしても心配だったから――一度だけ内緒で知人宅を抜け出して実家に戻ったのです」

廊下から漏れる電光の明かりと、涼子の絶叫が木霊する。

「蛙の顔をした赤ちゃんに関しては、姉様が産んだ赤ちゃんを、母が石で打ち殺しているのを見てしまったのです。私は堪らず、部屋に飛び入りました」

――お母様!何て酷いことを……!

――名前、あなた何でここにいるのです!?

――この子は、一体……?お姉様の……?

――あなたには関係ありません。すぐに帰りなさい!

「母は、顔も着物も血塗れで、床には顔面が潰されてぐちゃぐちゃの生まれたての赤ん坊が無感動に転がっていました。母の詰問を無視して私は分娩台に横たわっている涼子姉様へと近付来ました。姉は、私すら見ていなかった……なす術もなく、我が子を母に目の前で殺されて泣き叫んでいました」

――この悪魔!!人殺しめ!!私の子供を返せ!!

――お姉様!暴れないで、確乎しっかりして!今、助けるから……!

――私の子が何か悪いことをしたのか!?返せ、返せ、私の子供を返せ!!

――そんなこと私が許しません!

――お母様!何でこんな惨いことを!?何故姉様がこんなことになっているの?どうして赤ん坊を殺してたの!?

――貴方は知る必要はありません。今すぐ梗子の元に帰りなさい!今見た事は誰にも言ってはなりません!忘れるのです!!

「母は私を怒鳴り付けました。忘れなければ、母に石で滅多打ちにされてあの赤ん坊と同じ目に遭うと思いました。怖くなって、そのまま知人宅へ逃げ帰りました」

走って走って、息が切れるのも、足が縺れるのも構わず、私は母から逃げて大好きな姉のことを見捨てたのだ。

何故お母様はあんな惨いことを?どうして私は今逃げているの?私は何から逃げているの?お姉様を助けるんじゃなかったの?

私は……お姉様を助けてあげられなかった。
こんなことになるなんて……!

「後悔と恐怖と狂気に雁字搦めになった私は、あの出来事は最初からなかったことにしようと――しました。そうすれば、さっき目撃した惨たらしい場面も、泣き叫ぶ姉も、何もせず固まっていた父も、赤ん坊を殺した母も、血塗れの赤ん坊も、何も出来ずに逃げた私も……悪い夢になる。全ては私の脳が創り出したまやかしとなる。私の脳は全て知っていたけれど、意識として上らせないよう自分で無意識に拒絶をしたのです。知人宅に戻った時はあの晩に遭遇した場面はすっかり覚えていませんでした」

私が話し終えると、場は静かだった。外からざあざあと激しく打ち付ける雨音しか聞こえない。
やっと木場が疑問を言葉にするのに、少し時間が掛かった。

「その夜のことを忘れたのなら何でお前さんは行儀見習後、実家に帰ることはしなかったんだ?忘れていたんだろ?」
「私はその当時精神的に不安定でした。一時期は人前に出る事も怖くて、梗子姉様には凄く心配させてしまいました。そんな頃、約束の半年が終わって両親が迎えに来ましたが私は頑なに帰宅を拒否しました。きっと、実家に帰ったらあの晩のことを思い出してしまうと無意識に恐怖を感じていたのかもしれません。両親は帰宅を拒絶している私を無理に連れ帰ることはしませんでした。梗子姉様は実家に帰り、暫くの間知人宅で過ごしてから父の遠縁の親戚宅に引き取られる形になったのです」
「……私達もどういう顔をしてこの子に会えば良いか解りませんでした。名前からしたら私達は涼子を苦しめ、涼子の赤ん坊を打ち殺した人物なのです。会いたかったけど、正直いうと会うのは怖かったのです。この子が帰宅を拒む理由は、あの晩が原因なのは明白でした。それに対して私達も負い目を感じていましたから――だから、強制的に家に連れ戻して傷を深めるよりも別の場所で少し時間を置いた方がお互いに良いと思い、主人の遠縁の親戚の方に頼みに行きました。勿論、付き合いの浅い私達に彼等も最初は困惑してましたが養育費は私達で負担することを条件に、話はまとまったのです」
「奥様からしたら、この出来事は外部は勿論、梗子さんなまえさんにも隠さなくてはならなかった。周囲の人間からの誹謗中傷、好奇の目から涼子さんを守るために。しかし、あなたがあなたの母を真似て行った行為は少なくとも、久遠寺の呪いとして涼子さんへ受け継がれた。そして、それが彼女となまえさんに大きな傷を与えてしまったことも確かなのです。あの夜の出来事が原因でなまえさんとの間に溝が出来てしまった。お互い歩み寄るまでに時間が掛かり過ぎたのです……」

そして、母の言葉を受け継ぐような形で中禅寺が残念そうに語った。


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