極めて特殊な想像妊娠までする程の強い後悔に潜むものが、今回の事件の発端であることは明白だった。

「牧朗失踪――いや殺害の日か?」
「それ以前だ」
「しかし――妊娠し続けることを願っていたなんて――解らねえな。出産を前提としない妊娠を願うなんてことがあるか?」
「あるさ」

中禅寺は廃人同然となっている内藤を見た。内藤は身じろぎ一つしない。

「彼女は自分の犯したあることを認めたくなかったのだ」
「それは、亭主を殺してしまった――ということか?」
「正確にいうと少し違うが、結果的にはそうなる。しかし彼女は罪から逃れたいと思った訳ではない。それは寧ろ愛情の発露だった。屈折した愛情表現の、なんとも悽惨な是正方法だったのだ」
「梗子さんは――牧朗さんを愛していたのですね――兄さん」

敦子が痛ましそうな表情でいった。

「俗ないい方でいえば――そうだ。いや、そう思い込むために、証拠が必要だったのだ。妊娠という事実がね。彼女にとって妊娠は単に、性交の結果に過ぎなかった。妊娠することこそ、夫との性交渉――愛情交歓が行われたこと――の証拠なのだから」
「淫らな――」
「淫らなもんか。性行為こそ最終的な愛情の表現であると考えればこそ、真剣に愛している証明としてそれを求めたのだ。淫猥な快楽を欲していた訳ではない。
僕が極めて特殊な想像妊娠といった訳はそこにある。彼女は妊娠を強く望んだのではなく、過去の、夫との性交渉の事実をこそ強く望んだのだ。
つまり、愛情交歓の証拠が欲しかったのだ。実際にはそれはなかった訳だが、妊娠することで遡って過去を改編しようとした訳だ。
それはつまり原因を取り除くことにもなる。夫との愛情交歓がもしあったなら、こんなことは起きなかったからだ。そしてそんな彼女にとっては出産こそが凡ての終わりに繋がる」
「そこが解らねえ」

木場は首を捻った。

「夫である牧朗にとって、性行為は子孫を残すためのものでしかなかったのさ。遺伝子を次代に繋ぐことこそ生物としての唯一無二の使命であり、子をすことこそ究極の愛情表現である、そう彼は考えていた。そんな彼にとっては、出産はある意味で結論であり、それ以降の性行為を否定する正当な理由にもなり得る」

梗子と牧朗の決して交わることはない二つの平行線。

「梗子さんは絶対生まれない子供を宿し続けることで、遡って過去のあり得なかった幸せを獲得した訳なの?そしてそれは同時に現在の、あってはならない状況を拒絶することにもなった訳ね」
「そう、物凄い現実拒否だよ。だが――その凡てを一瞬で粉砕してしまう力を持つのが、牧朗の死骸だった。牧朗の死骸があるという現実は、過去現在未来の凡てに於いて彼女に徹底的な絶望を齎す。だからこそ、梗子にはそれが見えてはならなかったのだ。想像妊娠と死体の消失はセットだったんだ。脳にとっては、妊娠の兆候を示すことと同じくらい、いやそれ以上に死骸を無視し続けることが最重要課題だったのだ」
「それで梗子姉様は牧朗さんの死体を見ることが出来なかったんですね」

私は抑揚なく呟いた。
中禅寺は重苦しい雰囲気で頷く。それでも尚、木場はううん、と唸った。
この屈強な体躯を持つ刑事にはあまりにも現実離れした出来事ばかりで中禅寺の解説に付いていくことに必死である。

「だがそれは第三者に発見されればお仕舞いの筈だった――いや、実際は発見されたんだが露見されなかった」
「なまえさんに発見されたのね」

そう。私は一月九日に実家へ新年の挨拶をしに帰ったのだ。
そしてその日に書庫室で脇腹に果物ナイフが突き刺さった牧朗だったものを見たのだ。

「当時仮になまえさんが藤牧先輩の死体を見ていたとして……どうして警察に知らせなかった?しかも、一年半経って榎さんに藤牧先輩のことについて依頼するなんて――」

関口は私へ疑問をぶつけるように言い放とうとした時、彼の口の動きが止まった。

「真逆、なまえさん、君――」

私は何も言わなかった。私が言わなくても、この部屋にいる者達は関口が次にいうだろう単語が判っている。

「関口君。彼女の話はまだ早い。物事には順序というものがあるんだよ。……なまえさんから露見されることもなく、梗子さんがあの部屋に陣取り、幸か不幸か結果的にそれは誰にも通報されなかった。それが、彼女の長すぎる妊娠の理由だ。だが――僕の仕掛けで彼女の脳は彼女を騙し切れなくなった。現実と直面した途端、急激に体は元に戻り限界に達していた腹部は――」
「あああっ!」

内藤が限界だとばかりに叫んだ。

「そんなにしてまで認めたくない現実とは何なんだ?いったい何があったんだ?そんなに愛していた亭主にあの女はいったい何をしたというんだ?」

木場は再び内藤を見る。

「内藤さん、あなた……梗子姉様と――」

私は怒りとも哀しみとも違う何だか形容し難い感情を抱いている。

「最初に、誘って来たのは梗子の方だった。今思えば気違い染みた話だ」

矢張り不貞関係を持っていたのだ。
内藤は先程までの情緒不安定さが消え、意外にも落ち着いた口調だった。



俺がこの久遠寺に来たのは、戦争が始まって一年目頃だったから――もう十年ぐらいになるだろう。
俺は生まれてすぐ母親を亡くして、父親はいつ死んだのかも知らない。
物心付いたときには情事の匂いが染み付いた女郎部屋の二階で生活していた。俺を育ててくれた養い親は夫婦で女郎部屋の女衒ぜげんみたいな仕事をしており、野卑で――下品で、貧乏だった。夫婦は真っ当な種類の人間ではなかったと思う。

しかし、毎月金を持ってきてくれる奇特な人のお陰で、学校だけはちゃんと行かされた。
俺の養育費はどこかから出ていたのだ。
だから、夫婦は俺のことを金の卵を生むがちょうだといっていたのを覚えている。
そう。奇特な人とは久遠寺菊乃、その人だった。

「お母様が?何故そんなことを?」

自分達姉妹が生まれる前から、久遠寺家は俺と関わりがあったことを知った名前は、思わず声を上げる。俺は驚いている名前へ、取り敢えず話を聴けという視線だけを投げてから続きを話す。

「あの頃の奥様は綺麗だったぜ。いつもきちんとしていて――月に一度物陰からちらりと見るだけだったがね。この人が本当の母親ならどんなに幸せだろう――そう考えた。そしてあるとき思った。本当にそうなんじゃないのかってね」

そして、俺は幼い頃に夢想した考えに改めて自嘲する。

「でも違った。どうやら俺の本当の母親はこの病院で俺を産んで、何かの事故で死んだらしい。その所為で親父も首縊った。病院はその償いをしているのだと――養い親はいった」

何に対する償いをしているのだ?別に病院が償うべき筋合いの話じゃないことは、少し考えてみれば解るだろう。
後は考えられるとしたら――あまり公に出来ないような医療事故だった可能性くらいだ。
どんな事故かは未だに知らないけれど、養い親は敏感に金の匂いを嗅ぎ付けて、気が遠くなる程遠縁の俺を引き取ったという。俺は大きく息を吸った。

「しかし戦争がおっ始まると、何があったのか女衒夫婦は学生の俺を残してさっさととんずらしちまった。十九だった。半ば捨て鉢になっていた俺のところに、奥様がやって来て、そんとき初めて口を利いた。驚いたことに奥様は面倒を見るといってくれた。
条件は二つ。主筋の遠縁という身分詐称を貫き通すこと。そして、いずれ医者となり婿養子に入ることだった。二つ返事さ。そして俺はこの薬臭い病院で暮らすことになった」
「婿養子になることが条件だったのか?」

それまで黙って話を聴いていた木場が質問する。

「ふふ、院長は俺の素性を知らないんだ。いや、薄薄感付いていたのかな。兎に角俺は、嬉しかった。女郎部屋の、情事の匂いの染みついた薄汚い畳とおさらば出来れば、医者にでも何にでもなろうと思った。だが、俺がその気になったのにはもうひとつ理由がある。解るだろう――娘さ。ふふふ」

俺は唇を捩曲げるようにして嘲り笑う。美しい娘がいればそれで俺は満足だったのだ。

「梗子に惚れちまったんだな」
「違うよ。大違いだ。俺は、涼子に惚れちまったのさ!」

俺は木場の口調を真似て戯けるようにそういった。

「俺はひと目で虜になった。しかし涼子は冷たかった。俺の前では今までに一度だって笑ってくれたことはない。それに奥様も涼子には何故か余所余所よそよそしかった。涼子は子供が造れない体だから、生涯涼子に婿は取らないといった。
俺の相手は梗子だったんだ。それに、もう一人名前という娘がいるが遠縁の親戚宅にいるらしい。訊くと、はっきりと理由は教えてくれなかったが正月だけ帰って来るとだけ教えてくれた。まあ、腫物を扱うみたいで違和感を感じたぜ」
「梗子のことはどう思ってたんだ?」
「別に嫌いじゃなかったさ。しかし、あの何不自由なく育った天真爛漫なお嬢様は、どうも俺の肌には合わなかったし――」

俺は視線を名前の方へ向けて、胸の内を明かすことを続ける。彼女は俺の話を聴くことに精一杯の様子だった。無理もないだろう。

「名前の物腰柔らかさもピンと来なかった。それに家に帰って来るのは年に一回、正月だけだったから能く判らなかったしな。どこか陰がある、物静かな――そう、見ようによっては母親にも似た――涼子の方に惹かれた。本当に慕っている女の妹と結婚して一緒に暮らすなど拷問じゃないか。俺は躊躇した」

しかし出征して戻って来ると事情が変わっていた。
藤野牧朗の登場により、物語は動き出す。
奴の登場で、世間では俺が鳶に油揚げと俺が悔しがっているように思われているが、実は違う。

「俺は内心嬉しかったのさ。これで涼子と結婚出来るかもしれない」
「牧朗の婿入りに関して、事務長はどう考えていたんだ?婆さんは貴様を婿養子にしたかったんだろう?」
「院長との間でかなり揉めたらしいが、結局は金さ。戦争の痛手は大きかった。奥様は俺に頭を下げて、一生面倒は見る、嫁も捜すからこらえてくれ、といった。俺は――そんなことはいいから涼子と結婚させてくれ、といった、しかしそういった途端、奥様は真っ赤になって駄目だ、といった。他のことなら何でも望みを聴くが、それだけは駄目だ、絶対に駄目だというんだ。俺は再び絶望した」
「何でだ?」

木場の問いに俺は投げやり気味に、知らないよと答える。
そんな理由、はなから知っていたらこんなことになっていない。

「俺は成す術もなく茫洋ぼうようと日日を過ごした。試験にも落第した。そのうち梗子は牧朗と結婚したが、俺は二人に何の興味もなかった。だが――俺の部屋には夫婦の声が能く聞こえたんだ。夏だったし、窓は開いていたからね。
あれは結婚して一箇月くらい経った頃だったかな。聞く気もなかったが――聞こえたんだよ」

思えば、あの異常な会話が契機きっかけだった。
口論というのじゃない。勿論喧嘩とも違う。
最初はすぐ終わった。一方的に梗子が責め立てていた。その癖いつも契機きっかけは牧朗で、あいつが何かいう度に梗子は逆上した。会話の喰い違いは日度を増し、日を追う毎に梗子はエスカレエトしていった。
木場が先を話すよう促して来るから、俺はその会話の内容を覚えている範囲で答える。

――あの銀杏イチョウの木の下で逢った夜のことを覚えてないのかい?
――この建物の裏の小部屋のことも。

――知らないったら!何が言いたいの!?

――恋文のことはどうだい?覚えているだろう?僕が君へ出した恋文だよ。
ちゃんと君からも返事を貰ったんだけど……。

――どうかしているわ!!

最初は梗子が昔のことを覚えてない、とかいう話だった。牧朗は思い出させようと色んなことをいった。
あいつはいつも怯気怯気びくびくしていて、他人の俺が聞いたって何だか肚の立つようなもののいい方をした。機嫌取ったり謝ったりすればする程鼻に付く人間というのは一定数存在するが、牧朗はそういう人間だった。

梗子の乱暴はその日から始まったようだ。
あれは――八月になったばかりだったと思う。
それからは毎晩、十二時過ぎから明け方近くまで、まるでサカリのついた猫の喧嘩みたいな大騒ぎだった。母屋まで聴こえてしまうのではと思ったこともあった。

「十二時過ぎ?そんな遅くから始まるのか?」
「後で知ったんだが、奴は毎日十二時まで例の研究室に籠って何か研究していたんだ。判で捺したみたいにきちんとね。梗子はそれも気に入らなかったようだがね。奴が寝室に戻るや否やの喧嘩という訳だ」

憶えていないことを延々と話され、確認されるのは苦痛を通り越して狂気の沙汰だろう。妻の目には夫が、夫の目には妻が、互いに狂人として映っていたのかもしれない。
両者のひずみが大きくなって――あんなことが。

八月の終わり頃。俺の部屋にふらっと梗子がやって来た。猫撫で声は、挑発的な雰囲気だった。
唇に濃い紅を引いた梗子は何だか淫らに見えて、俺は知らず知らずの内に生唾を飲み込んだ。

――ねぇ、内藤。聞こえてるんでしょう?窓がこんなに近いんだもの。

――お嬢さん、幾ら何でもあれじゃあ酷過ぎる。そのうち母屋にも知れますよ。

――酷いのは主人の方よ、あの人は狂っているんだわ!

涼子とそっくりな可憐な顔の造りの女が、瞬時に鬼のような形相に変わる。突然激昂した梗子を俺は何とか宥めた。

「梗子というのは随分と癇癪持ちの女だったようだな」
「そんなことないさ。勝ち気ではあったがね。普通は前向きだとか積極的だとかいう褒め言葉で表されるような娘だったよ。健全なんだな。その健全なお嬢様がね、女郎部屋で育ったこの俺に、いったい何をいったと思う?」

――私ね、処女なのよ。

そこに恥じらいの欠片など一つもなかった。
瞳に涙を溜めた女の顔に、寂しさと人恋しさが滲んでいるのを、俺は見なかったことにした。

「寧ろ、淫靡いんびな気分になって、随分と高揚したものさ」
「下衆な野郎だ」

探偵が吐き捨てるようにいったが、俺は無視した。

――結婚してから牧朗さんは一度も私を抱いてくれたことがないの。愛してくれないのよ。
なのに牧朗さんは、私との間に十年前に子供が出来たっていうのよ。
そして訊いてくるの。あの子はどうした、堕したのか、死んだのかって。
手すらまともに握ったこともないのに、子供なんて出来る訳ないじゃない……。

「手も握らない亭主が処女妻に十年前子供を堕ろさせたって?その話を聞いたとき俺も牧朗はヘンだと思った。その日以降、梗子は妙に馴れ馴れしくなった。特に牧朗の前では、あからさまにべたべたと親しげに寄って来た」
「亭主はどうした?」
「あの意気地なし、見て見ぬ振りしてたよ。奴がそうすればそうする程梗子は大胆になった。無視出来ない状態になるとへらへら笑ってこそこそ姿を消した。どうも苛めたくなる奴っているだろ?牧朗がそうだ。あいつは梗子が元元持っていた加虐体質を呼び覚ましたのさ。自業自得だ」
「院長や事務長には知れなかったのか?」
「その辺は巧いもんさ。親の前では梗子は貞淑な妻を演じた。不思議と牧朗は口を閉ざしていたしね。プライドが高かったんだよ。あの女は」

秋になると俺は夫婦の寝室に呼ばれるまでになった。牧朗が研究室にいる間中、俺達はあの部屋で酒を飲んだ。
毎日十二時五分過ぎ丁度に、牧朗が戻るのと入れ違いに俺は部屋を出る。牧朗と擦れ違う度に、俺は良く解らない優越感を覚えた。

俺も梗子も牧朗も異常だった。牧朗と梗子は夫婦として破綻している。まあ、綻びを広げたのは他でもないこの俺であるが。

「或る日いつものように部屋を訪れると――」

――姉のせいよ、牧朗さんが私を抱いてくれないのは。姉が牧朗さんを陰で操っているの!
姉は虫も殺せないような顔をしている癖に、本当は恐ろしい女なのよ!
魔女だわ、男を狂わす魔性の女よ!牧朗さんはあの女に魂を抜かれているんだわ!

「あの気丈な梗子が泣いていた。そんな発想がどこから出て来たのか解らないが、梗子も毎晩の深酒が祟ってアルコール中毒寸前だったから、幻覚でも見たのかもしれないな。梗子はかなり酩酊していた。そして姉のことを悪し様に罵った。梗子が涼子の憎まれ口をいうことなど過去に一度もなかったから、少し面食らった。
俺は密かに想いを寄せている涼子の悪口を聞いて何故かぞくぞくと昂ぶった。この家の連中は涼子に就いても謂わば腫物に触るような扱いばかりしていたからな」
「あんたは見事に屈折しているよ」

探偵は不快さを隠すこともなく再び俺を詰るが、何とでも言えば良い。

――ねぇ。抱いて。お願い。

涙で潤んだ瞳は扇情的で。色白で柔らかそうな頬は幾分赤みを帯びて。
黒い髪は柔らかそうに見えた。華奢な身体を強く抱き締めて、滑らかそうな肌に舌を這わせたい衝動に駆られる。
女は、どうやれば男をその気・・・にさせるのか本能で知っているのだ。
可憐な容貌の梗子は色香を纏い、すっかり女の貌をして俺を注視めていた。襟ぐりから見えてしまう胸元に自然と目がいってしまうのは、男の性というものだ。

瑞々しく、弾力を持った二つの膨らみは男の無骨な掌に吸い付くのだろう。本能が煽られたような気がしたのを覚えている。
同時に身体の中心部が、ズンと重くなり、そして熱を帯びた。

気付いたら、俺は女をベッドに押し倒して――
女の耳に、首筋に、瞼や頬に唇を寄せていた。

「それであんたは抱いたのか?」

探偵は睨み付けていた。俺は至極当然の答えを返した。

「据え膳食わぬは何とやらというだろ?」
「内藤さん――!」

名前が悲鳴染みた声を発したと同時に、聞くに耐えないといった様子で探偵が激昂した。

「馬鹿野郎。梗子さんがどんな思いで抱いてくれといったのか解らなかったのか!あんたに接近したのだって藤牧の気をきたかったからとしか思えない。生憎藤牧は嫉妬心が欠落していたから深みに嵌って後戻り出来なくなっただけじゃないか。あんたが歯止めにならないでどうするんだ?あんたそんなことも解らずに、抱いてくれといわれてハイハイと抱いたのか?あんたにプライドはないのか?所詮は藤牧の代用品だった訳じゃないか!」
「そんなことは今更探偵風情にいわれなくたって解ってたさ!俺はそんなの一向に構わなかったんだ!!」

激昂する探偵に気圧けおされるように木場は俺と探偵を見比べる。俺は探偵を睨み返した。



私は内藤の話を聞いているのが少しずつ苦痛になっていた。内藤が語れば語る程、私の知らない梗子が顔を覗かせる。

困惑した。
いや、そもそも私は実家に帰ることなど殆どなくて、彼女と会う時は決まって外だったから実の所姉夫婦がどんな様子だったのか知らない。夫は研究に熱心で少し寂しい思いをしているということは梗子からよく聞かされた記憶があるが、夫婦の話についてはそれだけで、後はいつもの天真爛漫さで私の仕事について訊いてくるのが大半だったから。

梗子の本当の気持ちを知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
明るくて天真爛漫な姉があろう事か、他の男と密通していたなんて。

「俺だって――梗子を涼子の代用として抱いただけなんだからな!」

私の中で何かが弾けて、気付いたら内藤に向けて手を振り上げていた。今までこんなに激しい怒りと哀しみがごちゃ混ぜな気分になったことはないし――目の前でにやにやとしたこの男だけはどうしても許せなかった。

有りっ丈の力を込めて手を振り上げたが、私の腕は大きくて無骨な手に阻まれた。
その手が木場のものだと判るまで一呼吸分掛かった。

「――離して、下さい!木場さん!この男は、梗子姉様がどんな気持ちだったのか解った上であんな酷いことを……侮辱したのよ!!」

私は涙が混じった押し潰されたような声を出して身動いだが、びくともしなかった。

「お前さんの気持ちも良く解るが、ここでこの男を殴ったらそれまでだぞ」

厳しい声音だった。
まるで不快感を――怒りを我慢しているようだった。

私は木場を見る。彼は私へ視線を向けることなく、内藤を睨み付けていた。私が腕の力を脱力させると、木場のごつごつした手は離れた。

「ふふふ、軽蔑しろよ。梗子なんて涼子の身代わりに過ぎなかったんだ。姉妹は能く似ていたしな。次の日から俺は涼子を抱くような気分で梗子を抱いた。一度男を知った梗子は積極的に求めて来たぜ。スリリングだった。何しろ窓を隔ててすぐ向かいには亭主がいるんだからな」

私はもう聞きたくなかったが、内藤は構わず梗子との爛れた関係について語り続ける。

「一月程経つと梗子は妙なことをいい出した。明かりを点けて、カーテンを開けてくれ、というんだ。俺はいう通りにして、そして驚いた。カーテンを開けると寝室は牧朗の研究室から丸見えなんだな。そのうえ研究室にはカーテンがない。
奴は机に向かっている限り、俺達の行為を目前にしなければならないんだぜ。遣り過ぎだ――とは思ったが、別にどうでも良いとも思った。俺は謂われるままに痴態を演じた。観客一人のショータイムだ。そして梗子は異様に昂ぶった」

――これから毎晩見せ付けてやるのよ!
牧朗さんに!

梗子が牧朗にしたという、許されない仕打ちとはこのことだったのだ。
異常だ。私も榎木津も言葉を失ってしまう。
木場が胸糞悪そうに声を出した。

「貴ッ様――それで、それでも牧朗は何も言わなかったのか?」
「ああ。奴はおかしい。そりゃあ俺も、梗子もおかしかったかもしれないがね。ショーはあの夜までずうっと、殆ど毎晩行われた。でも、流石の俺も自分がどんどん底なし沼に沈んで行くような不快感を持ったね。それに正直いって、あの頃の梗子は少し怖かった。牧朗はそれでもまだ昼間は普通に接しようと努力していたぜ。こいつのお陰で――と思うと唾を吐き掛けたくなった」
「牧朗は――何故そこまで卑屈に振る舞ったんだろう。そもそも十年の歳月をかけ、巨額の持参金と医師の免状まで手にして、やっとの思いで結婚したんじゃないか。それなのにどうして女房に指一本――」
「彼には梗子さんと契るに契れぬ理由わけがあったんだよ」


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