「心配しなくても牧朗氏はきっちり死んでいますよ」
「死んでいる――」

涼子が抑揚もなく呟いてゆっくりと中禅寺の方へ視線を向ける。

「そうです。そして確乎しっかり内藤さん、あんたに取り憑いている」
「あ、あんた霊魂なんてないとい、いったじゃないか。巫山戯るのもいい加減に」

内藤は蒼冷めていた。すっかり自分というものを見失ってしまっている。

「僕が信じていないといっただけですよ。あんたのように信じてる人にとっては、霊魂はちゃんと作用するんです」
「な、何を信じているというんだ!」

“憑物”と同じ作用だ。
それを信じている者にとっては有効な呪いである。内藤の視線は牧朗の姿を捉えようと部屋の隅々へと忙しなく飛び移る。完全に情緒不安定に陥った内藤を尻目に中禅寺は急に私に振って来たので、傍観者から表舞台に引っ張られた。

「――なまえさん、君も牧朗氏の死体を目撃していますよね」
「な、何を言っているんだ京極堂。彼女は藤牧の死体なんか見ちゃいないよ。だから榎さんに藤牧が生きているのか死んでいるのか証拠が欲しいと依頼したんじゃあないか」

関口が割って入って来たが、私は目を伏せて静かに答えた。

「――はい。榎木津さんの話だとどうやら私は牧朗さんの死体を見ているようです。でも私には見えませんし、目撃した記憶はありません」

関口は何か問いたげな眼差しを私に向けた。

「いい加減になさい!陰陽師だというから黙って聞いていれば、最前から霊魂がないとかあるとか――ちいとも要領を得ません」

母が堪りかねた様子で口を開いた。父と内藤は中禅寺の巧みな話術に堕ちて黙ってしまっている。

「あなたのお話しを伺う限り、あなたがこの家で、いいえ、隣の部屋で何をしようとしているのか、私には爽然さっぱり解りません。それに、牧朗さんの死体を見たとか見えないとか……一体どういう意味なのです?」

母は私へすっと視線を向けたけれど、私はその視線を黙って受け止めただけだった。母は毅然と振舞おうとしているが、それは振りだけで本当は怯えているのを必死で隠そうとしているように、私には見えた。

「僕は何もしませんよ。奥様のように困った術など使いません」
「私がどんな術を使ったとおっしゃるのですか!」
「お恍惚けになっても無駄ですよ。あなたの打ったは、ものの見事に打ち返されているじゃあないですか」

中禅寺はそういってからおもむろに懐から何やら人型に型どった紙を取り出して、母の目の前に翳した。人型の紙を見た母は真っ青になり、恐れ戦慄いた。

「生兵法は怪我の元というじゃあありませんか。久遠寺流が単なる憑物筋ではなく、元を辿れば歴ときた陰陽道の一流派であったことは想像に難くありませんがね、しかしこういったことは軽弾みになさらない方が身のためですよ。人を呪わば穴二つ掘れ、というじゃありませんか。あなたの打った見当外れなまじものは、古の言い伝えと同じく、いとも簡単に呪詛返しにあって――この家に禍を為したに過ぎません」
「あなたは式が、式が打ち返されたというのですか――だ、誰にです?誰がいったい」
「式というのはいったい何のことだ?」

父が独言のように訊くと、涼子が答えた。

「式神とは陰陽師などが使役する鬼神のことです」

“式”とは“用いる”の意味であり、使役することをあらわす。

「ほう。霊魂を信用せんくせに、鬼神妖怪の類は信用するのかね?」

父の言葉を受けた中禅寺は片眉を吊り上げて、「お嬢さんの説明は些か文学的に過ぎますね」といった。

「式神というのは式に人格を与えたときの呼び方です。式というのは、葬式だの卒業式だのの式――いや数式の式と同じです」
「解らんね。数式というのは一足す一は二という数式かね?」
「そうです。その場合、一という数字は即ち存在自体です。例えばここに林檎がひとつあるとしましょう。もうひとつ持って来るとどうなります?」
「一足す一はいつだって二なんだ。それ以外の答はありゃあせん」
「明快ですな。まさにその通りです。法則というものは、勝手に変えられるものではない。一足す一は必ず二です。しかし一方ではそれは凡ての林檎を“林檎”という集合で括り、それぞれの個体差を無視して記号化してしまったときのみ有効な筈です。幾ら頑張っても自然界には“二つの林檎”というものは存在しない。ひとつの林檎と、もうひとつの林檎があるだけで個個の林檎は別のものです。つまりここでいう林檎の記号化が、実に呪術に他ならない。そして“足す”という概念が“式”であり、“足すこと”が即ち、“式を打つ”という行為なのです」

中禅寺の説明は解り易く、混乱していた様子の父も、些か理解したようだ。

「つまり式を打つといっても別に超自然的な不思議な力を働かせる訳ではないのです。自然の運行や法則にはさからえない。ただそこに人為的な意志の力が介在するか否かの差で、結果は至極当たり前のものです。しかし式を知らずに答のみを見ると仕組みが解らないから不思議に見える。未開人にはラジオが魔法にしか思えないのと似ています。中国で蝶が羽ばたいたその影響で欧羅巴の天候が変わるといったようなことも実際にはある訳で、つまりは紙切れ一枚だって使い方さえ間違えなければ人の一生を狂わせることぐらい可能なのです――」

中禅寺は母を見据えたまま続けた。
対する母は中禅寺を見ているようで実は何も見ていない。

「だが、式を間違うと正しい答は決して求められないのです。一に対して三という解答が欲しいなら、二を足すか、三を掛けるか、五を足して二で割るかしなければならない。ご老体が仰った通り一足す一はいつだって二なのです」
「私は、式を打ち間違えたのですか」
「見当違いも甚だしいといわせて貰いましょう。兎に角狙いの牧朗氏はもうこの世にはいない。あなたの打つ式は悉く戻ってきて――」

中禅寺はすうっと顔を涼子と私の方に向けた。

「――お嬢さん達を不幸にしています」

母の身体から力が抜け、ぐったりとした様子が見てとれた。

「何百年にも亘ってこの家を代々呪って来たのは、実にあなた達自身だということに奥様はもっと早く気が付くべきでした」

中禅寺が話し終えると、部屋は静まり返った。 雨が窓に叩きつけられる音しかしない。
誰も口を利ける者などいなかった。私を含めた全員が、鴉に呑み込まれてしまっているのだから。

「さあ、一通り挨拶も済んだようだ。関口君、さっさと済ませてしまおう」

中禅寺はそういって関口を招き寄せた。
黒衣の鴉は隣室の扉を開けようとする涼子を手で制して、関口に扉を開けるよう促す。関口はぎこちなくドアノブに手を掛けて、重厚感のある扉を押し開けた。
関口が部屋の入り口で立ち止まってしまったので私は部屋の中を覗いた。

梗子のベッドの右側にはベッドと並列して折り畳みの椅子が六脚並んでおり、パイプに白い布を渡らせた衝立三枚が梗子の大きくなったお腹を覆い隠すかのように設置されていた。衝立の奥に窶れた顔があった。中禅寺は入り口で惚けている関口を無視して梗子の枕許へ近寄ると、囁くように何か話しているようだ。
残念ながら、何を話しているのかはここからでは聞こえなかった。
中禅寺は梗子に何やら語り掛けた後、鋭利な刃物を連想させる程鋭い眼光で関口と私を見た。

「関口君となまえさん。どうもつまらない結界が張ってあるから、少し手前を掛けねばならない。君達はこれから起きることを確乎しっかりその目で見て、覚えておかなくてはならないよ。君達の言葉に証拠としての価値があるかどうかは判らないが、後で証言しなければならなくなるだろうし、もう一人のなまえさんも漸く甦るだろう。さあ、関口君、君の席はここだ」

中禅寺が関口の座席を指定する。言われるがままに一番扉側の椅子に座った関口を視界の片隅で捉えた私は、先程中禅寺が話した言葉に気持ちが動揺する。心臓の鼓動が不安定に鼓動し、冷や汗が背中を流れた。
私は私のままなのに、まるで今の私が不完全・・・な状態である言い方だ。
関口が椅子に座ると、私達は中禅寺に部屋の中へ招き入れられた。
空気は冷たく、そして澱んでいた。

中禅寺の指示で、梗子の枕許から涼子、私、母、内藤、父の順で座る。
全員着席させると中禅寺はゆっくりと慎重な動作で扉を閉めたると、足音を立てずに移動して涼子と梗子の間に静かに立った。
そして、それはいきなり訪れた。

中禅寺は鋭い声音真言を唱え始めたので、私達は一様にびくりとした。中禅寺の両手は何やら印を結んでいる。両の中指がピンと立った。

謹請甲弓山鬼大神きんしょうこうきゅうざんぎだいじんこの座に降臨影向こうりんようごうし、邪気悪鬼を縛り給え」

中禅寺の声が大きくなり、指の動きが縦に五度、横に四度宙を切る。

「当家久遠寺某に沮滞そたいするものをこの処へ納め給え、臨、兵、闘、者、皆、陳、裂、在、前!」

私達は中禅寺のパフォーマンスをただ観ていることしか出来ない。

「もえん不動明王火炎不動明王波切り不動明王大山不動明王吟伽羅不動明王吉祥妙不動明王天竺不動明王天竺逆山不動逆しに行うぞ逆しに行い下せば――」

呪文の調子が変わると、隣に座っている母の様子が一変した。

「や、やめてください。それは――」

がたがたと震え始め、手を額に当てる。母の声は、私が聞いたこともない程の悲鳴染みた声だった。
中禅寺は、呪文を止めて青ざめた母を見据えた。

「聞き覚えがありますか?」
「え、それは――」
「似ているのですね。不動王生霊返し。これがお嫌なら、そう、弓の弦でも鳴らしましょうか?」

隣で母が息を呑んだ空気が伝わった。

「陰陽道には弓を使う呪法があります。弦を鳴らすのを鳴弦めいげん、そして蕪矢かぶらやを飛ばすのを蟇目ひきめといいます。蟇は――蟇蛙の蟇です」

蛙の赤ん坊。
私は不気味な符合に息が詰まった。母は嗚咽を漏らしているが、中禅寺は無視するかのように呪文を再開した。

「向こうは血花に咲かすぞ微塵と破れや――」
「ああ!許して、私を許して、私は母がしたのと同じことをしただけなの!」

母が悲鳴を上げたその時、私の脳裏では映像がじんわりと染み出した。

母と同じこと。それは――。

「黙れ!」

隣に座っていた涼子が突然立ち上がった。その声で私の意識は一瞬で戻った。
今の声は、聞き慣れた涼子の柔らかく、可憐なそれとはあまりにもかけ離れていた。立ち上がった涼子へ私や関口、父、内藤が目を向けた。

姉の顔は、違っていた。
大きく目を見開いているというのに、そこには瞳がなかった。

「あたしの――」

涼子は中禅寺の呪文に合わせるように、取り憑かれたかのように上体をゆらゆらと揺らしている。

「涼子姉様……?」

私は目の前で起きていることについていけずに、自分でも信じられない程か細い声音で姉の名を呼んだが、それは涼子の耳に入ることもなく虚しく部屋の空気に消えていった。

こんな姉を見たのは初めてだ。私も関口も戦慄した。涼子は聞いたことない声で叫んだ。

「あたしの子供を返せ。貴様が――」
「うわああっ」

次に叫んだのは内藤だった。

「俺は知らない!俺は見てただけだ。俺は何もしていないじゃないか!誘って来たのは向こうの方だ、う、恨むなら俺じゃなくて」
煩瑣うるさい!嘘をいうな!貴様も同じだ」

涼子だった女が金切り声を上げた。

「お前達は寄って集ってあたしの大事なものを台なしにしたんじゃないかっ!」

女は叫びながら頭を大きく振り回して、辺り一面に有りっ丈の呪詛の言葉を吐き散らす。束ねていた長い髪が解け、女の額にはどくどくと脈打つ血管が薄く浮き出る。

「――涼子姉様!確乎しっかりしてください!」

私はいつもの姉に戻って欲しい一心で、この世のものとは思えない女の上体にしがみついたが、ほっそりとした見た目からは想像がつかない程強い力で振り切られてしまい私は冷たい床に尻餅をついた。

「お前だ!お前が殺したんだ!」

振り切った私を飛び越えた涼子は凄まじい悪相で内藤に襲い掛かろうとしたが、母が止めるべく間に入って全身を使ってしがみつく。内藤は恐怖の絶頂に達して、椅子から転げ落ちるように床に座り込んだ。

「涼子、涼子許して、許しておくれ」
「離せ!人殺し!」

涼子だった女は母を突き飛ばし、梗子の方へ方向転換した。だが、姉の急変に梗子は全く反応しない。
窶れて落ち窪んで色彩を欠いた瞳は別次元を注視めている。

「お前もだ!」

梗子へ襲い掛かろうとする涼子の頸を中禅寺が後ろから掴むと、

「あんたに会いたいんじゃない。引っ込みなさい」

中禅寺はそういってから涼子の耳元に口を当てて何かを囁いた。涼子の動きが止まり、ゆっくりとこちらを向いた彼女は。

うっすらと笑みをたたえていた。

その笑みを見た瞬間、私は目を大きく見開いた。心臓が一際大きく唸り、鼓動が早くなる。身体が硬直して身動き一つ出来ず肺に空気がなくなったみたいに苦しい。ただ一点、涼子の顔に張り付いた作り物のような笑みだけを見続ける。

その顔は、あのときの……

「なまえさんは十年前の奥様の言葉に今でも苦しんでいます。彼女の身体は限界を迎えている。奥様、もう赦して差し上げても良いでしょう。お互い、十分に苦しんだ筈だ」

中禅寺の声がどこか遠くで語り掛けるように私の頭に響いた。

鴉は私に何をしようとしている?
母は嗚咽を漏らしつつ、涙でグチャグチャな顔をして私へと縋った。母に掴まれた腕が酷く痛い。でも、私は老母の手を払うことが出来なかった。

「ごめんなさい、名前。もう良いの、貴方が涼子を助けようとしたのは知っているわ。それを母さんが許さなかった。本当にごめんなさい」
「もう――いいの……?」

私がゆっくりと母の方へ目を向けると、老母は大きく何度も頷いた。

「もういいのよ……!貴方はもう苦しむ必要なんてないのよ、私を許してぇ――」

刹那、私の全身が弛緩する。
母の顏も、虚ろな梗子も、戸惑う父と、関口も何もかもが。薬品臭い室内も全て消え去った。鴉が着ている黒い着流しと同じ漆黒が、私の視界を支配した。

灯りが付いていない闇一色の病院の廊下をわたしは跫を立てないよう歩く。処置室から木霊する涼子の絶叫。血塗れの母が床に転がっている赤ん坊を石で打っている。
憤怒の母の顔は鬼のように醜くて。
産み落とされた赤ん坊は、一言も産声を上げることもなく――口から一呼吸することも許されずに。
誕生を望まれなかった哀れな残骸は、冷たい処置室の床に虚しく横たわる。

「あ……あああ」

涼子の冷たい両眼が見返して来る。果物ナイフが刺さった義兄は、大きな胎児のように丸まって身じろぎ一つしない。腕に走った僅かな痛みの後、血管を通して全身を巡る得体の知れない幸福感に、私は争うことが出来ずに流された。
永遠と落ち続けるのか昇り続けるのか判らない心地好い浮遊感は、私に何を齎すのか。
何も映さない無機質な牧朗の瞳。

母と涼子の姿が重なる。

『今見たことは忘れなさい』

頭に鈍い痛みが駆け抜けて、私は頭を抱え込んだ。

「わ、わたし……わたしは」

哀しくも悍ましい記憶を内包したもう一人のわたしが彼岸から近付いて来る。此岸に佇んでいる私へと。
彼岸から渡って来たわたしは少しあどけない少女のような出で立ちをしていた。長い睫毛に縁取られた瞳には虚無感を宿し、それが一層物悲しさを感じさせた。
私は、わたしから逃げることが出来ずにいる。
そして、彼女は寂しそうに微笑んでから私を優しく抱き締めた。

【やっと、会えた】

りん、と涼しげな音がした。
私が記憶の迷路から現実の世界へ引き戻されたそのとき。人の声ではなかった。
けたたましい鳥のような、寒気を帯びた叫喚が冷たい処置室に響き渡る。
梗子が鳥の声を発し乍ら、力強く身体を起こす。

その反動で衝立が倒れる。
梗子の胸がはだけ、膨れ上がった腹部が露わになった。得体の知れない何かを宿している腹部に張り巡る血管が大きく脈打った後、

腹が裂けた。
赤黒い血や体液が私の目の前に広がり、天井まで勢い良く吹き上がって飛び散った。シーツを濡らし、十文字の蛍光灯に、衝立の純白に、私達の顔や身体の至るところに生暖かい液体が降り注いで、ぬらぬらと濡らした。関口がバランスを崩して床に倒れ込む。倒れた衝立が床でバウンドしている。

全てがスローモーションで――時間がゆっくりと流れているように感じた。そして、衝立の向かい側に――巨大な胎児が転がっていた。

つい先程蘇った記憶と寸分も違わず、同じ出で立ちで胎児のように背中を丸めた牧朗が静かに転がっていた。

私は唯惚けているばかりで何が起きたのか理解出来なかった。いや、梗子の腹部が裂け、血と体液が混ざったものが飛沫を上げ、牧朗の死体が転がっていたことが理解出来ない訳ではない。
何故梗子の腹が急に裂けたのか、牧朗の死骸が見えるようになったのか判らなかった。

牧朗の死骸はぬらぬらとしていて瑞々しく一年半前の死体だとは思えない。まるで、今さっき梗子の腹から産まれたてのようだ。
産声すら上げることもなく、それはそこにいた。
そして、一言も言葉を発することもなく関口はふらりと失神した。



暗闇の中を逃げ惑う。走って走って、脚が縺れそうになっても脚を止めることはしない。止めてしまったら最後。

「あそびましょう」と、誰かが私に囁いた。
それは私の耳にとても馴染んで心地良かったが、同時に狂気すら感じた。私は見てはいけないものを見てしまったから逃げている。

暫く走っていると足に柔らかい土を踏んだ感触がした。草原の中に出たらしい。私は顔に張り付いた汗を手の甲で拭った。自分がどこで何をしているのか判った。

これは、失われた私の記憶だ。
十年前のあの夜の空気はじっとりと水分を含んでいて蒸し暑かった。何度も何度も私は綯い交ぜになった記憶を再生しているのだ。

――お願い、やめてえええええ!

絶叫。石を振り下ろす度に響く鈍い音。
爆ぜる赤い飛沫。牧朗だった物体。
注射器から薬が身体に侵入する感覚。永遠に続く浮遊感。
異形の赤ん坊も、石で打ち殺す母も、何もしない父も、笑みを浮かべる涼子も、死んだ牧朗を待つ梗子も、逃げ惑う私も。

狂っている。私の家族は狂ってしまった。
大好きだったものが砂の塔のように脆く跡形もなく崩れ去る。
嫌だ。
もう何も知りたくない。

――助けることが出来なかった。
私の胸に後悔が広がって行く。

――誰にも言ってはいけません。今見たことは忘れなさい。

気が付いた時、別室で椅子に座らされ一人きりだった。永遠に続くかと思われた記憶の迷路から私は抜け出したようだ。
この部屋で長い時間、今まで直視出来なかった記憶の中を彷徨っていた。もう一人のわたしとは悍ましくも哀しい記憶を押し付けられた私だった。
不思議と頭の中は混沌としておらず、むしろ雲一つなくすっきりしていた。
中禅寺の言う通り、今までの私は不完全体だったのだ。
先程の強烈な出来事が鮮明に頭に蘇った。

涼子も梗子もどうなったのか、ここに居るだけでは判らない。それに今まで閉ざしていた記憶の中身を中禅寺に話さなくてはならない。私は立ち上がって足早に扉の方へ向かい、そのまま部屋の扉を開けると一人の警官が不意を突かれたような表情で私を見る。

「私の家族は今どうしているんですか?あの後梗子姉様はどうなったんですか?涼子姉様は?どうしても話さなくてはならないことがあります。中禅寺さんは……中禅寺さんはどちらにいますか?」
「私は木場刑事から貴方を見張って置くよう命令を受けています。だから――」

警官は困惑した様子を隠さなかったが、私は警官が言葉を言い終わる前に己の言葉を被せた。

「なら、その木場さんの所へ連れて行って下さい!私が見たことをお話ししなければならないんです……」

警官はますます困ったような目付きをして暫し考えてから、「……一緒に来てください。木場刑事の所へ案内します」と、いった。


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