太陽みたいな人


 爽やかな青空に張りつく薄雲。乾いた陽射しを浴びる街路樹は、全身に秋模様を纏う。朝晩の寒暖差に、身を震わせる季節でもある。腐れ縁の幼馴染から、恋人になって早数ヶ月。相変わらず、くだらない口喧嘩ばかりだが――杉元君と白石さんに見守られながらも――私達の交際は順調に続いていた。
 時刻は二十三時頃。遅番のバイトを終え、くたくたな私を出迎えてくれたのは愛しい恋人だ。女の夜道は危険だと言われ、音君は私の最寄駅へ迎えに来るようになった。
「音君、お待たせ!」
「帰るぞ」
 手を差し伸べられた私は、彼の大きな掌を握る。やっと緊張せず、手を繋げるようになった。女と違う、ごつごつした男の掌。初めて手を繋いだ時は心臓がうるさいほど高鳴ったが、最近は指を絡めるのも慣れてきた。竹刀でこさえた豆だらけの掌は、すっかり私の皮膚に馴染んでいる。
「音君は温かいね」
「わいが冷たいんだ」
 ぶっきらぼうな口振りだけど、握り返される力は優しい。本当に、素直じゃないんだから。にやにやすると音君の機嫌を損ねてしまうので、私は緩みそうになる口元に力を入れた。
「ねえ。来週、行きたい場所は決まった?」
「決めたぞ。ここに行きたい」
「印象派の特別展?」
 音君のスマホ画面に映し出されたのは、国立美術館のホームページである。一度は教科書で見たことある作品から、初めて目にする作品までピックアップされていた。本邦初公開と銘打った特別企画展らしい。
「日本で初公開の作品も目白押しだ。せっかくじゃっで、観に行きたい」
 私は食欲の秋であるが、音君は芸術の秋を取るようだ。楽しげに語る音君に、思わず感心してしまう。
「へえ。音君が絵画に興味あるなんて意外」
「ほんのこて失礼だな」
「良いよ。行こう! 楽しみにしちょっね」
 近頃は就活も始まり、慌ただしい毎日を送っている。大学に行けば音君に会えるし、バイト帰は迎えに来てくれる。おまけに、トークアプリで連絡も取れる。全く会えないわけではないが、一緒に出かける頻度は減っていた。来週は久しぶりのデートである。
 大学。バイト。就活。三つ巴の生活は忙しなく、あっという間にデートの日はやって来た。気持ち良い秋晴れの空に映える、鮮やかな山吹色に染まったイチョウの葉。肌寒さを覚える乾いた風は、銀杏の独特な匂いを運ぶ。
 待ち合わせ場所の美術館前には、既に十数人の待機列が形成されている。道端に見慣れた恋人の姿を見つけた。白のタートルネックと細身の黒パンツスタイルの音君は、珍しくも眼鏡をかけている。恋人という贔屓目なしでも、様になっていると思う。案の定、彼は人々の視線を奪っていた。華やかな顔立ちなので、熱視線を送ってしまうのも頷ける。当の本人は全く意に介さず、どこ吹く風状態だ。
 かっこ良い恋人の姿を眺めていると、私の姿に気づいてくれた。
「何だ? おいに見惚れちょったのか?」
 腕を組み、ふふんと得意げな口振りだ。認めてしまうのは、どうしても悔しい。調子に乗るところが玉に瑕だと思う反面、可愛らしい部分でもある。本人には内緒だけど。
「音君。列に並ぼう」
「おい、無視するな」
「早く、早く!」
 音君の手を取り、最後尾に並ぶ。
 印象派の代表的な画家はモネ、ゴッホ、ルノワール辺りだろうか。私は芸術関連に疎いし、普段から美術展にも足を運ばない。誰がどの作品を描いたのか、イコールで結びつかないのだ。知識皆無でも、楽しめるだろうか。
「作品の鑑賞ポイントはある?」
「そうだなあ……。印象派は、画家の目や耳、肌で感じた景色をキャンバスに描ている。同じ作品を鑑賞しても、おいとわいでは見え方も感じ方もちご。もままに、好っなように観れば良か」
「そげなものなの?」
「そげなものだ。絵画は画家と鑑賞者を、繋ぐものだな」
 ようは肩肘を張らず、感じたままに作品を鑑賞して良いらしい。音君から鑑賞の手解きを受けていると、係員からチケットの確認で声をかけられた。列の最後尾だったのに、いつの間にか先頭まで進んでいる。話していると、あっという間だ。慌ててチケットを見せ、入場する。
「音声ガイドはいるか?」
「せっかくじゃって、聴いてみようかな」
 二人分の音声ガイドの追加料金を支払い、いざ展示室へ。最初に私達を出迎えてくれたのは、水辺の風景画だ。入口付近は比較的混雑しており、観客は譲り合いながら作品を鑑賞している。
 今回の展示コンセプトは、自然との営み。雄大な自然との共生を主軸に、十九世紀の人々の暮らしを垣間見る構成となっている。
「見えるか? こっち来い」
「うん。あいがと」
 音君に手を引かれ、ちょうど空いた場所から作品を眺める。
 湖の対岸には一軒の家。ふんわりした樹木の真下に、頭巾を被る女性がいた。よく見ると、果物らしき物を手にしている。そして女性の背後には、湖が広がっていた。小船に乗った男は釣竿を操っている。二人は夫婦で、互いに合図を送り合っているように見えた。
 全く釣れないな。
 果物が手に入ったわ。
 そんな会話が聞こえそうだ。もしかしたら夫婦ではなくて、偶然その場に居合わせた赤の他人同士かもしれない。絵の具で塗り込まれた、何気ない日常の一コマ。映像でもないのに、一つひとつの動作が目に浮かぶ。あれやこれやと、想像を掻き立てられるのだ。
 隣に立つ音君は、真剣な眼差しで作品を鑑賞中だ。遠くから観た後は、近寄って観る。視覚から得られる情報に、何を読み取り感じているのだろう。芸術空間に馴染む恋人の姿は初めて見る。私の胸は小さくときめいた。音君は私の視線に気づいて、耳元のイヤホンを人差し指で示す。ふふ、と口元に弧を描きながら。
 しまった、見られた。今日は絵画を鑑賞しに来たのだ。本来の目的に戻るため、私は展示作品の近くに振られた番号を音声ガイド端末へ入力する。イヤホンから淀みなく流れるナレーションに耳を傾け、四角い額縁に収められた十九世紀を鑑賞することにした。

 自然豊かな水辺の風景画から一変、人工的な都市を題材にした情景画へ切り替わった。展示の折り返し地点である。広い展示室の真ん中には、四角い大きなソファが設置されていた。数人が談笑中なので、休憩スペースらしい。ソファに座りながら、作品を眺めることも出来る。私達も休憩がてら、ソファへ腰を下ろした。
「どうだ? 芸術の秋も良かものじゃろ」
「うん。音声ガイドのおかげで、知識なくても楽しめるね。音君は、よく美術展に行っの?」
「おやっどの教育方針だ。物事ものごっの本質を見極め、審美眼を身につけろと言われてな。子供の頃から兄さあと、骨董品や絵画展に連れっ行かれた」
「それは初耳。私とチャンバラばっかいしちょったじゃね」
 私と取っ組み合いの喧嘩ばかりしていた頃から、人知れず努力をしていたとは。私の言葉に、音君は呆れ気味に言う。
「わいはおいを、何じゃっち思ているんだ」
 私達のくだらない会話を横に、多くの人達は絵画の世界を鑑賞中だ。絵画に近づいて鑑賞する人。遠くから全体を眺める人。鑑賞の仕方は、人それぞれだ。そう言えば、音君も同じように鑑賞していた。
「音君も絵に近寄ってたけど、何を観ていたの?」
「筆捌きの跡や、絵の具が染みたキャンバス布の質感とか……後は、絵の具の盛り上がり具合を観ちょった。肉筆の痕跡を観る度、画家達の息遣いや生々しさを感じる。肉眼で観るから、感じ取るっのだ。カメラのレンズ越しでは、出来んじゃろ。彼らの生きちょった証を、見つけるのも好っなのだ」
 絵の具で描かれた作品だけでなく、かつて生きていた画家達の息吹きをも感じ取ろうとしている。なるほどなぁ、と素直に思った。
「あの作品のレプリカが、おやっどん書斎にあるんだ」
 音君は立ち上がり、とある作品へ歩を進めた。私も彼に倣って、後を追う。
 うごめくような筆捌きは、今にも天と地が混じってしまいそうだ。画家の目を通じて描かれるという印象派の作品の中で、かの有名な画家の作風は異才を放っている。
「印象派の画家は、あまり夜景を描かん。太陽ん光を描っことに、大きな関心があった」
「言われてみれば……そうかも」
 印象派の絵画は、どれも明るくて生命の息吹を感じさせる作品が多い。朝焼け。木漏れ日。外光。あまねく光ばかりだ。
 画家達はこぞって、移ろいゆく太陽の光を存分に表現している。月や星の青白い光や、ガス燈などの人工的な明かりに、彼らは魅力を感じなかったか。はたまた興味を持たなかったのか。
「子供の頃、おいは夜が……暗闇が怖かった。本能的なものじゃろな。ぞわぞわ寒気がして、夜は兄さあの布団に潜り込んでいた。暗闇を題材にした写真や、絵も怖くて仕方なかったのに、あの作品には恐怖を感じなかった。夜を描ているのに、まるで昼間を思わせる明るさだったから」
 紺碧の夜空に浮かぶ星と月は眩しく、色鮮やかに輝いていた。光の渦は川の激流のように夜空をぐるりと流れ、左端には真っ黒で細長い木が揺らめく。それはまるで、黒い炎を彷彿させる。
「彼は糸杉に魅せられたのか、作品には杉の木が頻繁に描かれる。圧倒的な存在感だろう?」
 筆捌きは繊細でありながらも大胆だ。画家の性格や、こだわりを感じることも出来る。思うままに、好きなように鑑賞すれば良い。音君の言っていた意味も、今なら少し分かる気がした。
「美術展って楽しいね。これからは、他の展示にも行ってみたいな」
「おいはわいとチャンバラしたり、取っ組み合いしちょっ時も楽しかったぞ」
「もう! 今それゆ? せっかく芸術の秋を感じたのに」
 私が苦笑いを零すと、音君は頭を撫でてくれた。その後は、残り半分の絵画を鑑賞した。太陽が織りなす、幻想的な光景。自然と調和する人間の姿。今にもキャンバスから、人々の楽しげな声が聞こえそうだった。
 ミュージアムショップで買い物を終える頃、陽は西へ傾き始め、足元の影は更に長く延びていた。山吹色のイチョウは、燃えるような橙色に染まっている。
「今日はあいがと。楽しかったよ」
「良かった。帰るか。マンションまで送る」
 黄金色に照らされた音君は眩しくて、私は思わず目を細める。瞼の裏で、夕焼けに溶け込む音君の情景を描く。
「どげんした? おいの顔に何かついてるか?」
「ううん、ないでんなか。帰ろう」
「ふふ。変な奴だなあ」
 夕焼けと音君の情景は、瞼の裏で光の残滓となった。この情景は、私だけの秘密にしたい。

 電車に揺られ最寄駅に着くと、東の空から青白い月が夜と一緒に昇っていた。昼から夜へ移り変わる時刻を、逢魔時おうまがときというらしい。周囲は、ぽつぽつ灯る街灯のおかげで明るい。目の前に見慣れたマンションが見えて来た。このまま別れるのも名残惜しく、私は思い切って自宅へ誘ってみることにした。
「音君。せっかくじゃっで、寄って行く?」
「良いのか?」
「うん。大したものなかどん、そいでも良かなら」
「お、お邪魔しもす……」
 音君を部屋に上げ、私はキッチンでお湯を沸かす。マグカップにティーバッグを入れ、熱々のお湯を注いだ。ほかほかと湯気が昇るそれを音君へ渡し、私も彼の隣に落ち着いた。今日は一日歩いたので、やっと一息つけた心地だ。紅茶の温かさが身に沁みる。知らない内に、身体は冷えていたのだろう。
 テレビもつけず、手持ち無沙汰だ。お互い無言のまま、温かい紅茶を啜る音だけ。容易に肩も触れてしまう距離。服越しから音君の温もりを感じ取る。そうっと隣を見れば、頬を赤らめる音君と目が合う。いつから見られていたのだろう。
 凛とした声で、名前を呼ばれる。音君の力強く、きりっとした声が好きだ。敏感に何かを察知した心臓は早鐘を打つ。どきどきして、音君から目が離せない。切長の目尻に収まる瞳に、顔を赤らめる私が映っていた。
「キスしても……良かか?」
「う、うん……」
 手を繋ぐ以上のことは、まだしたことない。我ながら、清いお付き合いだ。今時の中高生の方が進んでいると思う。全く興味ないとか、したくないわけじゃない。音君となら――それ以上もしたいと思っている。だけど私達は恋人期間よりも、幼馴染の期間が圧倒的だ。今更、どう距離を縮めれば良いか分からない。幼馴染みであることが、足枷となっているのだ。
 じっと音君を見つめ、大人しく待ってみる。まだキス一つもしてないのに、こんな緊張するとは。これから先、私の心臓は保つだろうか。
「頼むから、目閉じてくれ」
 決まり悪そうに目線を逸らされる。
「わっ、分かった……」
 きゅっと両目を瞑って、その時を待つ。視界は真っ暗だけど、戸惑う雰囲気は伝わってくる。五分ほど経っただろうか。もしかしたら、ほんの数秒かもしれない。もはや体感は、当てにならないと思う。様子を窺うように、尋いてみる。
「……あの、音君。まだ……?」
「せからしか! 大人しくしちょってくれ」
「何、そん言い方――、」
 相変わらずな物言いに、むっとする。もう少し他の言い方があるでしょ。抗議する言葉は、柔らかく湿った感触と共に飲み込まれてしまった。欲の匂いすら感じさせない、冗談みたいなキス。瞬きの内に終わってしまい、いつ唇を合わせたのかも分からなかった。
 指先で口元をなぞり、体温と感触を確かめる。僅かに感じる温もり。
「あ、えっと……、」
 私達、初めてキスをしたんだ。身体の中心から、じわじわ熱くなり――ようやく自覚した。音君は照れ臭さに眉根を寄せながら、呆ける私を眺めている。居た堪れなくなったのか、弾かれたように立ち上がった。
「かっ、帰る……!」
「おっ、音君!? 待って!」
 私の制止を無視して、彼は玄関へ逃げて行く。逃げないでよ。切ない気持ちは上回り、理屈が空回りする。私は慌てて、セーターの端を掴んだ。音君はぴたりと立ち止まった。
「音君……。も、もう一回……して、欲しか」
 蚊の鳴くような声だった。自分から強請るのは、とても恥ずかしい。そうでもしないと、私の気持ちは彼に届かないから。初めてキスして、嬉しかったということを。
「反則じゃらせんか。そげなこと言われて、せん男がいるか」
 ぎゅうっと抱き締められ、ちょっと苦しい。長い睫毛がこそばゆく、ゼロ距離で唇を合わせる。優しく穏やかで、色欲と無縁の――子供が戯れるような拙いもの。触れ合う唇が熱いのは、お互いに緊張しているからだ。初めてのキスは苺の味と聞いたことあるけれど、緊張のせいでよく分からなかった。でも幼馴染みから、恋人の階段を一段上がった気がする。
「今度の土曜日……、おいの家に泊まりに来い。映画とか……観ないか?」
「うん……! 泊まりに行く」
「じゃあ、また連絡する」
 音君は緊張の面持ちから、ほっと顔を綻ばせる。去り際、私の頭をひと撫でして。
 パタンと玄関の扉が閉まり、足元から力が抜けてしまう。ずるずるとみっともなく、冷たいフローリングに尻餅をついた。今更だけど、とても恥ずかしくて堪らない。頬に手を当てると熱く、冷たい掌が気持ち良く感じる。私は今、恋する乙女みたいな気分だった。
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