君の背中に恋してる

身を切るような風が少し和らいだ頃、卒業を間近に控えた澄姫は弟の滝夜叉丸と共に飼育小屋の前にいた。
彼女が大切に育てている山犬、栗と桃のもっこもこの冬毛を梳いてやりながら他愛ない話に花を咲かせていると、ふと滝夜叉丸が栗の頭を撫でながら思い出したように彼女に問い掛ける。

「そういえば姉上、姉上は栗をいつごろ拾われたのですか?」

栗を飼い始めたのは桃よりも少し前ですよね?と首を傾げた弟を見て、彼女はふっと笑った。

「そういえば、あの時滝はまだ入学したてだったものね。うふふ、聞きたい?」

何を思い出したのか、上機嫌に笑う姉に素直に頷いた滝夜叉丸は栗を撫でながら彼女の言葉を待つ。

「…この子を飼い始めたのはね、ある大事件がきっかけだったのよ」

そう前置きをして、澄姫はゆっくりと語り始めた。




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澄姫が忍術学園に入学したのははじめ、行儀見習いのためだった。
幼い頃からとても整った顔立ちをしていた彼女は容姿に反してお転婆で、小さな頃から後ろをついて回っていた可愛い弟がいじめられれば相手がたとえ年上の男の子でも棒切れを振り回して大立ち回り。
十になる前に殺到し始めた求婚は、自分より弱い人との結婚なんて真っ平ごめんだとばかりに張り倒し、追い返す始末。
見かねた両親がちょっとは礼儀作法と言うものを学んできなさいと相談もなしに入学手続きを済ませ、行かないで姉上と大泣きする弟を置いてここにやってきた。
物心ついたときから何をやらせても完璧だった澄姫は最初乗り気ではなかったけれど、初めて見る武器や火器、火薬の取り扱いに動物を操る方法、戦い方、鍛え方を学ぶうちに、いつしか“忍”というものに強い興味を示すようになった。
勿論女である以上戦忍よりもくのいちを目指すべきであるという事は早々に理解できたので、くのいちになるために必要ならばと礼儀作法もしっかりと学んだ。
“女だって強く生きなければいけない。美しく、強かに、鮮やかに咲き誇れ”
そう言ったのは彼女が1年生の頃、六年生だった先輩。
その先輩の言葉を聞いて、澄姫は強く美しいくのいちになることを決意した、筈だった。

転機が訪れたのは、2年生に上がった頃。入学して一年がたち、学園にも随分慣れた彼女は忍たまとの競合地帯という場所に初めて足を踏み入れた。
色々な学年の生徒が罠の練習などをすると聞いて自分の実力を試したくなった澄姫はそこへ足を運び、そして、出会ってしまった。
競合地帯の隅、小さな的に向かって一心不乱に縄を括りつけた小さな刃を投げる、綺麗な栗色の髪の、少年。
まだ覚束ない手付きで扱うそれは的を逸れてあちらこちらに当たり、果ては引き寄せた少年自身にも傷を付けていく。
痛々しい赤が滲み、よくよく見れば手当てされた痕だらけの顔を歪め、それでも手を休める事のない彼から澄姫はどうしてか目が逸らせなくなって、日が沈むまで彼の練習をずっとずっと眺めていた。
翌日も、その翌日も、晴れの日も、雨の日も、風の日も、彼はずっとそこで練習をしていた。それをそっと眺めるのがいつしか澄姫の日課となり、楽しみとなった。
彼とちゃんと話をする機会が訪れたのは3年生に上がった頃。時折くのいち教室の授業で同学年の忍たまにちょっかいをかけていて、ちょくちょく話をするようになっていたけれど、相変わらず栗毛の彼とは親しくなる機会もなく、まだ名前も知らなかった。

何とかしてお近付きになれないものかと思考を巡らせながら競合地帯に向かい廊下を歩いていた澄姫が曲がり角に差し掛かったとき、何かに勢いよくぶつかられて尻餅をつく。
文句を言ってやろうと思い顔を上げると、そこには大層慌てた様子の立花仙蔵がおり、すまんと片手間で謝ってすぐさまどこかへ走り去ろうとした。
その謝罪が気に入らなかった彼女はすぐさま立ち上がって仙蔵のまだ萌黄色だった装束の後ろ襟を掴み、ぎゅっと眉を吊り上げ怒鳴ったのだ。

「ちょっと、女の子にぶつかっておいてそれだけ!?」

「すまん、平!!今はそれどころじゃないんだ!!」

だが、酷く慌てた仙蔵は珍しく目に涙を浮かべており、どこかへ走り去ろうと彼女の手を引き剥がす。どうも尋常ではない慌て方に違和感を感じた澄姫は、怒りを収めて彼に問い掛けた。

「えらくあわてているのね?何かあったの?」

こてん、と首を傾げて聞けば、彼はとうとう猫のように吊り上った瞳から一粒涙を零し、崖から落ちたんだ、と震える声で呟いた。

「崖から落ちた!?大丈夫なの!?」

「ちがう!!私じゃない!!長次が、長次が落ちたんだ!!」

「ちょうじ?ちょうじってだあれ?お友達?どこの崖?」

「学園の裏の裏々山の南面のススキ野原の近くの崖っ、長次はろ組の、小平太と仲がいい、これくらいの真っ直ぐな、栗色の髪の…」

とうとう涙混じりになってしまった仙蔵のぐっちゃぐちゃな説明を聞いて、澄姫の脳裏に一人の少年が浮かぶ。

「あっ、平!!」

わき目もふらず走り出した彼女の名を呼ぶ仙蔵。しかしそれに答えることなく、澄姫はススキ野原を目指して全力で走った。

どれくらい掛かったのかは良くわからない。けれど、仙蔵の言ったススキ野原に辿り着くと、真っ赤な顔で縄を引っ張っている七松小平太を見つけたので、澄姫は迷わずそこに駆けつけ、縄に手を掛けた。
びゅう、と強い風が吹きぬける底の見えない崖に縄一本でぶら下がっているのはいつも見ていた彼。その手はもう震えており、かなり長い間この状態などだという事を暗に告げていた。そして…

「うぎぎぎ、ぐぐ…せんちゃぁ〜ん…」

泣き言を漏らし始めた小平太も、もう限界なのだろう。友達の命が掛かっているゆえ根性で縄を引っ張り続けているが、顔は真っ赤で腕も足もがくがく。このままでは、と最悪な事態が頭を過ぎり、それでも何も出来ない自分が不甲斐無くて、澄姫はギリリと歯を食いしばって、唸りながら必死に縄を引いた。
同時に最後の力を振り絞ったのか小平太も強く縄を引き、ずるり、と重みが背中に掛かって希望を見出したその瞬間。澄姫の掴んでいる場所の少し前、丁度地面に擦れている部分が、みちみちと嫌な音を立ててほつれ始めたのを見た。

「ま、七松、まって、ひいちゃダメ!!」

目を見開いて背後に呼びかけるも、必死の小平太にその声が届くことはなく、えいやあ、と大きな掛け声と共に引かれた縄は、ぶちりと音を立てて切れた。

「だめっ、だめぇぇえぇえ!!!」

重力に従って少年と共に崖に消え行く縄に飛びかかり、すんでのところで掴み、その重さに肩が軋む。目を見開いた栗色の髪の少年はその綺麗な瞳に澄姫を映し、小さな小さな声で、はなせ、と呟いた。

「バカ、言わないでよ!!これ、はなしたら、あなた、死んじゃうんだからぁ!!」

口にしたその言葉に涙が滲み、ボロボロと零れた彼女の涙は彼の顔にぽつりぽつりと落ちていく。どれだけ肩が痛んでも、縄に擦れた掌が傷付いても、彼の命を守るためならばと歯を食いしばったその時、突然物凄い力で体を引かれ、同時に重みがなくなって、目の前にどさりと落ちてきた、傷だらけの顔。

「中在家長次!!七松小平太!!お前ら何をやっとんじゃバッカタレが!!」

そして耳を劈いた、盛大な怒鳴り声。
ああ良かった、ハチマキのらっきょ先生が助けてくれたんだと理解した澄姫は安堵感からか、それとも栗色の髪の彼の顔が近過ぎたからか、理由は定かではないけれど、そのまま気を失った。



大木雅之助先生に呼ばれたのか、駆けつけた山本シナ先生の手によって医務室に運ばれた澄姫はその後暫くして目を覚ましたと同時に、わっしわっしと頭を撫でられた。

「やあ、長次を助けてくれてありがとうな!!」

がっはっは、と快活に笑う大木先生に戸惑ったもののどういたしまして、と答えた彼女は彼の大きな背中の後ろに隠れている栗毛に気が付き、ポッと頬を赤らめる。よく見ればあちこちに傷があるものの、大きな怪我もないようだ。

「ほれ、隠れとらんで礼を言わんか!!」

そう促され影から引きずり出された長次は、もじもじと恥ずかしそうに床を見つめながらも小さな声でありがとうと呟いた。それに同じくどういたしましてと返した澄姫は、気になっていたことを彼に問い掛ける。

「…どうして、崖になんて落ちたの?」

至極全うな疑問に、大木先生は大爆笑。山本シナ先生も小さく笑っている。それが恥ずかしかったのか、彼は傷の手当が目立つ頬を赤く染めて、更に背後からもこもこした何かをひょいと抱き上げた。

「………このこが…鳥におそわれてて…助けたら、落ちた…」

言葉と共に見せられた黒いもこもこが、きゅぅんと甘えた声を上げる。

「わぁぁ!!かわいいっ!!」

長次の腕に抱かれて甘えた声を上げている黒い毛の山犬の赤ちゃんを見た澄姫は目の色を変えて布団を撥ね退ける。はしたないわよ、と窘める山本シナ先生の言葉を聞き流し夢中で仔犬を撫でる彼女に、長次はきょとんと目を瞬かせた。

「………犬…好きなの…?」

「動物はそうじて好きだけど、犬はいっとう好き!!ねえ、私生物委員会なの、この子、生物委員会のしいく小屋でめんどう見てもいいかしら?」

キラキラと輝く瞳でそういわれた長次は一瞬だけ瞳を伏せた後、こくりと頷いた。
直後やったぁと喜ぶ澄姫を見た彼は、仔犬を抱き締めて微笑む彼女に釣られてそっと笑う。

「ねえ、名前は?」

「………まだ、決めて…ない…」

気が早いなあと呆れた長次は仔犬の鼻先に指を差し出しながら緩く首を振った。それに対して、彼女もまた緩く首を振り、頬を林檎のように赤くして咳払いをひとつ。そして改めて、もう一度口を開いた。

「…ちがうの、あのね………知りたいのはね、あなたのお名前なの」

可愛らしい上目遣いで問われた長次も、まだ丸みを帯びている頬を林檎のように染めた。




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「…ということがあったのよ」

「…………ナルホド…」

「滝が2年生になった頃に桃を飼い始めたのは覚えているかしら?」

「………オボエテオリマス…」

「あら、さすがね。優秀なこの私、平澄姫の弟だけあるわ」

そう言って高笑いし始めた美しい姉を見た滝夜叉丸は、苦笑を漏らして栗の背中を撫でた。
はからずしも魔女と生き字引のキューピッドになった栗は、ビー玉のようにくりくりした瞳で『えらいでしょう』とでも言いたげに彼を見つめている。

「…さすがですね、姉上」

「当然でしょう?」

至極ご満悦にふんぞり返った澄姫はまだ気付かない。
呆れた弟の様子にも、誇らしげな愛犬の様子にも、途中から完全に長次との馴れ初め話になっていたことにも。

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たいっへんお待たせいたしました桓懿様!!
2人の馴れ初めはこんな感じです。一目惚れ片思い澄姫と吊橋効果長次wそんなちびっ子2人を見て大木先生とシナ先生はニヤニヤしてますw
桓懿様、キリリクありがとうございました&262000HITおめでとうございました!!



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