※単行本15巻の内容を含みます。
ザアザアと止めどなく降り注ぐ冷たい雨は体温を徐々に奪う。視線を落とせば赤黒い血液がポツリポツリと水溜りの中に吸い込まれていった。
ザガンを手にいれても、全身魔装を完成させても、幾多の眷属を従えても。使命を果たすために必要なだけの強い力が備わっていない。それを母親との戦いに敗れて嫌というほど思い知らされた。もっと、もっと力を得なければ。
「ナマエといったわね、あなたの可愛い彼女。あの子も白瑛と一緒に殺してしまおうかしら」
これ以上大切な人を失いたくない。失うわけにはいかない。強く固めた決意に胸に拳を握りしめる。その時だ。
『白龍皇子…』
鬱陶しい程耳に纏わりつく雨音を裂いて届いたのは悲しい声。暫く俯けていた顔を上げれば、すぐに捉えることができた。土砂降りの雨の中を傘も差さずに、ボロボロの俺を今にも泣き出しそうな顔で見つめるナマエの姿を。
『皇子、早く手当てしなくては…』
もう全て理解しているのだろう。その上で怪我のことには一切触れずに接してくれるのはナマエの優しさ。けれど、俺は彼女のそんな優しさを拒む。
「もう、俺に構わないでくれ」
『……』
「結局誰も分かってくれないんだ。俺がどんな思いで…」
父上や兄上たちの無念を晴らすためこの生涯を捧げてきたか。それを迷宮を共に攻略した友、そして唯一の肉親である姉上でさえ理解してくれない。みんなみんな、まるで悍ましいものを見るような目付きで俺を見る。俺を否定し拒絶する。
「おまえだってそうだろ?」
『皇子…』
「俺の身は案じるな。より多くの眷属を作り、そいつらに守らせる」
俺はもう一人でいい。
最後の言葉は自らに言い聞かせんがため。ナマエの耳にも届かない程の小声で紡ぎ、やがて雨音に飲み込まれ儚く消えていった。
「もう戻れ、風邪をひく」
『……嫌です』
「え…?」
『一人になどさせません!たった一人で重い荷を背負って生きるあなたを支えるために私は今まで武芸に励んできたの!』
突如肩を掴まれたかと思えば、普段からのナマエからは想像できないほどの気迫でそう言われてしまった。最初こそ驚きで何も言葉を返せずにいたものの、彼女の言葉は脳裏にある情景を浮かばせる。
『皇子、私やりました!初めて師に努力を認められたんです!』
「それはいいが、おまえまた傷が増えてないか?」
『いいんです。私、嫁に行くつもりないので傷だらけになったって』
「なっ…!おまえな…」
『待っててください、すぐに追いつきますから。そしたら私を皇子の第一の従者にしてくださいね!』
いつの日か、彼女はそう言っていた。擦り傷だらけの顔を綻ばせて。
『お願いだから行かないでください。私を置いて、これ以上遠くに行ってしまわないで…』
「ナマエ…」
名前を呼べば、せきを切ったように大粒の涙を流し始めるナマエ。肩を掴んでいる腕に目を向ければそこにはまた新しい傷が増えている。その傷だらけの小さな体を抱きしめながら、いつの間にか自分の頬にも涙が伝っていた。
「昔からおまえを泣かせるのは俺の得意分野だったな」
好きな子には笑っていてほしい。そんな思いとは裏腹にナマエを泣かせるばかりだった不器用な自分。泣き止まないナマエにどうしてよいか分からなくなり、終いには自分まで泣き出してしまう始末。揃って大泣きする俺たちをどうにかして笑わせようと兄上たちや姉上、青舜がいつも必死になっていたことを記憶している。
こうしているとあの頃とは大して変わっていないようにも思える。けれどやっぱり違うのだ。どれだけ涙を流そうと、この涙をせき止めてくれる存在はもういない。
ただ痛みを分かってくれる、ともに涙を流してくれる存在はいる。今、目の前に…。
「ナマエ、おまえだけはずっと俺のそばにいてくれるか?」
『元よりそのつもりです。どこまでもお供いたします』
「…ならば俺は、命を賭けておまえを守り抜く」
瞬時に見開かれる彼女の瞳。しかしやがてナマエは涙が伝う頬を拭いながら、おかしな人と笑った。
『あなたをお守りするのは従者である私の役目であるというのに』
「確かにおまえは俺の従者だが、大切な人でもある。好きな人を守りたいと思うのは悪いことじゃないだろう?」
『フフ…本当に皇子はご立派になられましたね』
「俺は真面目に言っているんだ」
『……分かってます。あなたは冗談が言えない人だから』
射抜くような熱い視線を与えれば、愛らしく頬を赤く染める。そんな彼女を見て、俺は心に誓う。
Kalanchoe
『「あなたを守る」』
―――
白龍を救いたい!
白龍に幸せになってもらいたい!
そう思わずにはいられない15巻でした。
2013/02/21 蓮