目を覚まして、
息をして、
生きて、
暗闇の中、聞こえた声はどこか懐かしい。恐らく人の声を耳にすること自体、久しいからそう感じるのだろうが…。
そういえば私が最後に聞いたのは狒々の男、奈落の声だった。
結局私は死んだのだろうか。
最愛の人に背中を斬られ、逃げている最中に奈落に襲われ。そして奴が放った瘴気に包まれて、意識を失った。それからの記憶がないところを考えると、やはり自分の命は尽きてしまったのだろう…なんて勝手に解釈してしまう。
しかし今度は別の疑問が次々と生まれた。…じゃあこの声は何だ。一体誰が、何処から語りかけている。どうして目を覚ませなどと言う。尽きることのない疑問は私を苦しめる。
《大丈夫?目を覚まして!》
また、だ。また聞こえた。何度も煩い奴だ。でも、この声を聞いていると何故だか心が暖かくなる。そして同時に目を焼くような眩しさも感じていた。どれ、少しだけ目を開けてみようか。
泡になれなかった人魚姫
『はぁ…』
思わず感嘆の息が漏れる。久々に開けた瞳が映したのは綺麗な青空だった。
長いこと暗闇の中に身を置いていたからなのか、涙が出そうになる。
だが、次の瞬間。目に飛び込んできた光景には涙も引っ込んでしまった。というのも見知らぬ少女の顔がいきなり視界を埋め尽くしたからだ。
「よかった、無事ね?」
『…っ!?』
「怖がらないで。奈落もいないし、安心していいのよ」
『お前、は…』
「私はかごめ。あ…こっちは犬夜叉で、その隣にいるのが…」
無意識に紡ぎ出した言葉に対し、かごめという女は丁寧にもその場にいた者全員の名を教えてくれた。しかし今の私にはその者達の顔、名前を認識できるほどの思考力は未だ備わってはいない。ただ、今知りたいのは一つ。
『私は、生きているのか?』
*
暫くしてその者達、犬夜叉一行は全てを教えてくれた。
どうやら私は滝壺の中で十五年もの間、封印されていたらしい。封印を解いたのはかごめという女。つい先程、私は大量の水を操って奈落を撃退したということだ。
『私が、奈落を?』
「覚えていらっしゃらないので?」
『あぁ。何も覚えていないんだ』
覚えているのは暗闇と女の声。そして紫色の一筋の光。恐らく封印を解く直接的な原因となったものではなかろうか。そして、今現在。その光は私の目に見えている。
『主、かごめと言ったか。懐に何を隠しもっているのだ』
「えっ…もしかして見えるの?」
『見える、とは?』
「これは四魂の玉の欠片よ」
『四魂…、っ!?』
かごめが懐から出したのは小瓶、中には淡く光る石の結晶が数片。
「わしが望むのはただ一つ。四魂の玉を手に入れ、黒く汚すこと」
十五年前、最期に聞いた言葉が脳内に木霊した。
これが万物に力を与えるという四魂の玉。この玉のせいで母上は、二人の大事な友は、そして私の十五年は…。
私にとってかけがえのない大切なものがこんな石と等価、またはそれ以上であったと考えると虫唾が走る。今すぐ叩き割ってしまいたいが、グッと堪えた。
「ねぇ、少しでもいいの。よかったら話してくれない?貴女のことを」
『…そう、だな』
そろそろ聞かれるだろうとは思っていた。
勿論この者達を完全に信用したわけではない。だが、彼らは私の知りたかったことを教えてくれた。ならば私もある程度、身の上を話さねばなるまい。
『私は葵。半妖だ』
龍の妖怪である父。歩き巫女の母。その間に生まれたのがこの私。私が生まれた後父は死に、以来母と二人で暮らしていた。
『だが、私が五つの時母は殺された。奈落によって』
「殺されたって…そんな、どうして!?」
「何てったって奈落がお前のお袋を殺さないといけねぇんだよ」
『貴様ら巫女は存在自体が邪魔なのだ、奴はそう言っていた。恐らく霊力を持つ者を次々と殺していたのだろう』
そのせいで母の死後も常に奴の影に脅えて生きてきた。やっとのことで見付けた居場所も、僅かな邪気を感じればその地を去る他なくて。
苦い思い出に一時顔を歪めはしたが、最後には犬夜叉達の顔を順に見据えて言う。
『主らは利用されたのだ。奴は封印された私に手出しできなかったに違いない。そこで主らを呼び寄せ、私の封印を解かせた』
そう、全ては私を殺すために。
「成程。かごめ様なら封印を解けると思い、私達をここへ導いたと」
「あたし達はまんまと乗せられたってわけか。つくづく腹の立つ奴だね」
「ケッ、今度こそ奈落の計画をぶち壊してやろうと思ったのによ」
皆は悔しいと言わんばかりの顔をしていた。だがその中に一人だけ、寧ろ晴々とした表情を浮かべる者が――。
「でも私、貴女を封印から解いたこと後悔してないわよ」
『…え』
「過去を掘り起こすつもりはないわ。でも辛いことあったのよね?私には貴女が悲しんでいるように見えた」
今した身の上話はごく一部。忌まわしい過去や封印前に起こったあの事まで話す義理はない。しかし、何故だかかごめには全てを見透かされている気がした。
「無事に目覚めてよかった。生きててなんぼだもの」
曇りない笑顔で言うかごめ。対し私はというと謝礼どころか何の言葉も返せず、ただ虚しい吐息を漏らすことしかできなかった。
昔、母上が言っていた。
「生きるは大勇。死ぬるは小勇」――生きることこそ真の勇気であり、死ぬことは血迷ったつまらない勇気でしかないのだと。
母上の言うことならばそうなのだろう。子供の頃は何の迷いもなく信じた。
だが、母を失ってからというものの気付けばその教えに盾突くようになっていた。
もうこれ以上の苦しみを味わいたくない。真実の勇気よりも血迷ったつまらない勇気が欲しい。
かごめには悪いが、封印から解かれた今でも思うのだ。
封印から目覚めず、泡となって消えていければどんなに楽だっただろうかと――。