ガサガサと、激しく揺れる草の葉。並行して強くなる四魂の気配。私は不意の襲撃にも耐えられるよう矢倉の中にある矢に手を伸ばした。
そして、緊張により体を強張らせたまま待機すること暫く。
四魂の気配を持つその者は平然とした表情で草叢の中から姿を現したのだった。
「睡骨、様?…っ睡骨様!」
『…っ、千代!』
その者の顔を一目見るや否や、千代は男の元へ駆け出す。一方睡骨と呼ばれた男は千代を見て目を丸めつつも次には安堵した表情を浮かべ、彼女の体を大事そうに受け止めた。
「千代!良かった、怪我はないね?」
「うん、大丈夫。あの巫女様が助けてくれたの」
「あぁ、それはそれは…何とお礼を申せばよいのか。本当にありがとうございます、巫女様」
男は柔和な笑みを私へ向ける。しかし私は未だ体を硬直させたまま、まともな反応すら返せない。理由は彼の首元に輝く四魂のかけらにあった。
一時は蛇骨の仲間ではと警戒を高ぶらせたが、違和感を覚えずにはいられない。何しろその男の四魂のかけらは一点の穢れもない清純な光を放っていたから。
「あの、よければ私達の村にいらっしゃいませんか?」
『…え?』
「是非お礼をさせてください。と言っても大層なおもてなしはできませんが」
「そうだよ。行こう、葵様!」
『ぁ…』
不意に千代に手を引かれ、男の隣に並ぶ形となってしまう。
だが、よくよく見ても男の顔は菩薩と思えるほどに穏やか。奈落の手先とは思えぬほどの善良な顔立ちで、隣を歩く私はただ混乱するばかりだった。
*
それから私は男、睡骨に連れられ小さな村へやってきた。
彼は身寄りのない子供達の世話を受け持ちながら医者をしているらしい。実際家に通されると、赤子から千代と同じくらいの年の子まで多くの子供達の姿が見られた。
「粗茶ですが」
『ありがとうございます』
睡骨から茶の入った湯呑を受け取り覗きこめば、そこに映るは人間の私。瞳は焦げ茶、頬の模様もない。何だか夢のようだ。
だが、今はふわふわと浮かれている場合ではない。茶を一口飲むと、鋭い視線を睡骨へ向ける。対し彼は相変わらず穏やかな表情で、昼寝中の子供達を見据えた。
「この子が無事に戻って来てくれて本当に良かった。赤子も薬草のおかげで健やかです。千代にも、そして貴女にも感謝しなければなりませんね」
『……』
「葵様?どうかされました?」
『…いえ』
彼を信用したわけではない。四魂のかけらを仕込んでいる時点で良識ある者でないのだ。
―だけど。
「それにしてもよく寝ている」
『子供達を大切に思われているのですね』
「ええ、この子達は私の宝です」
本当にこの男が奈落の…?
そう思わずにいられなかった。
「もうじき日暮れのようですね」
その言葉に部屋の格子へ目をやれば、そこから見える空は確かに夕焼け色に染まっている。その色は業火を連想させる程に赤い。十五年前のあの日とよく似た、景色――。
『…っ!』
それは突然のこと。背中に刺すような痛みが走る。
あまりの激痛に身を屈めて耐えていると、目を丸くした睡骨がすぐさま駆け寄ってきた。
「葵様!」
『…っ、すみません、大事ありませんから』
「嘘だ、今の貴女はとても平気そうには見えない。診させてください」
敵かもしれない男に背中を向けるなんてとんでもない。
しかし、どうかどうかと懇願する睡骨の目に偽りの色は一切見られず。推されるまま、遂に私は一つ頷いてしまったのだ。
夕焼け色に染まる小さな部屋の中、二人の影が板張りの床に伸びる。
衣を脱ぎ素肌をさらせば、背後から彼の息を呑む音がした。理由は何となく察しがつく。十五年前のあの日、背中に受けた大きな傷がそのまま残っているのだろう。
「まだ痛みますか?」
『いいえ、今はもう』
「…こんな傷まで負って、時折怖くなったりはしませんか?」
巫女をやめたいと思ったことはないのですか?
背後から聞こえた声色には哀切が含まれており、振り返れば哀しげな表情を浮かべる睡骨と目があった。
自分のことでもないのに何故そんな顔をする。
他人のために何故そんなにも悲しめる。
「すみません、愚問でした」
『…思いますよ』
「え…」
『巫女をやめたいと今も思います』
「葵様…」
『でも今の私には何もないから。巫女として生きる選択肢しか残されてないんです』
気付けば、心に秘めていた本音が口から零れ出ていた。
何故会ったばかりの男にこのような話をしているのだろうか…。多分それはこの男の心に一点の穢れもないから。
この男と話をしている時、不思議なことに心が洗われる。久々にこんなにも穏やかな気持ちになれたことに喜びすら感じた。
だが、その反面恐ろしくもあったのだ。睡骨の側にいるとそれだけで自分の全てが曝け出されてしまう、そんな気がして…。
小さな村の善良な医者、睡骨。
この男の清純さが今の自分には恐ろしかった。