桜色の約束 | ナノ


犬夜叉一行と別れ、一人旅路についた私が最初に赴いたのは槻谷という場所だった。
槻谷とは丑寅の方角に存在する清らかな霊谷。断壁が高々と連なり、その間から日光が水面に降り注ぐ光景は言葉では言い表し難い。

『相も変わらずここは美しい場所だ』

眩しい日の光に目を細め、静かに呟いた。
私がここに来るのは初めてではない。ここは私の母である朧の顔を最後に見た場所、母の死に場所。
母は幼い私を逃がし、ここで奈落と戦って果てたのだ。妖怪と交わり、私を産んだことで霊力を完全に失ったのに。今思うと何て無茶なことをしたのだとつくづく思う。
母が亡くなった後は村人によりこの槻谷に霊骨が納められ、塚が建てられた。以来、母朧はこの地の守り神として村人に崇められる存在となっている。


母の塚の前で両手を合わせ暫く黙祷をした後、霊前に納められている弓を見据えた。
ここに出向いたのはこの弓が目的だ。
槻弓(つくゆみ)――母の武器であり、私の武器でもある。母の死後、この槻弓を受け継いで妖怪退治に用いていたのだ。だが、十五年前、封印される直前に私は槻弓を母の霊前に返還した。何故なら巫女を辞めると決意したから。戦うことを辞め、ただの女としてある男と生きようと。
あの時は再びこれを取りに来るなんて微塵も考えなかったのに。槻弓を手にし、虚しく笑う。


「これはわしの推測じゃが…――」

突如傍らで冥加が声を上げた。私の肩の上で母の塚を見据えると、言葉の続きを紡ぎ出す。

「葵様を奈落から守り、滝壺の中に封印なさったのは朧様ではなかろうか」
『…何故そう思う』
「朧様は葵様が腹の中にいる頃から、葵様の身を案じておった。没後もきっと葵様を守り続けていたと思うんじゃ」
『……』

どうして私は奈落の瘴気から逃れることができたのか、どのようにしてあの場に封印されたのか。自分なりに思考を巡らせていたものの、冥加の考えが最もしっくりとくる。
確かに母は常に私の身を案じていてくれていたから、有り得なくはない。
だが、いくら推測をたてたところで死人に口なし。真実を得る方法はないのだから蛇足でしかない。

『行こう、長居は無用だ』

槻弓を握りしめると出口へと歩み出そうとした、その時だった。何かがキラリと光り、私の視線を誘い寄せる。

『何だ、あれは』

よくよく見ると塚の背後に隠れるようにして小さな祠が存在していた。より近付いて確認してみれば、中には手鏡と数珠が奉られている。手鏡は私も知っている。母が父から贈られたものだ。いつも肌身離さず持っていたのを記憶している。しかしその後ろに掛けられているものが何故か気になった。

『この数珠は…』
「あ、それは…」
『確か母上がいつも首にかけていたな』
「…さぁ槻弓も手に入れたことですし、戻りましょうぞ」

冷や汗を垂らし私の袖を引っ張る、その様子はどう見ても可笑しい。

『お前、何か私に隠してないか?』
「な…何のことですかな?」
『この数珠を見た瞬間、顔色が変わっただろう。何かあるのか?』
「や、別に」

未だにごまかそうとする冥加を見て、溜息をついた。あまり手荒な真似はしたくなかったのだが…。仕方ない。
肩の上の冥加を手早く摘むと、そのまま親指と人差し指でふっくらした体を圧迫した。冥加の体は徐々にひらべったくなる。

「ぐぇっ!葵様っ、お止めくだされ!」
『本当のことを言うか?』
「い…言います!」

指先に込めた力を弱めると、するりと器用に抜けだす冥加。そして、私の手の甲の上に腰を落ち着けると、恐ろしげなものを見るような目つきで数珠を眺めた。

「これは玉響の念珠といいましてな。妖力を封じ込める数珠なのですじゃ」
『妖力を封じ込める?』
「左様。朧様はこれで妖怪の力を奪い取り、槻弓で退治なさっていたのですじゃ」
『……』

私は何かに惹きつけられるように見入った。そしてそれを袂の中に入れる。

「持っていかれるのか?」
『何か役に立つやもしれんからな』

この時、ほんの興味本位でしかなかった。ただ、冥加が先程よりも焦った様子で私を見ていたことなど気付く由もなかったのだ。


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