桜色の約束 | ナノ


奈落の手先、最猛勝から伝えられた指令は「この場から退け」という簡潔なものだった。
勿論納得した訳じゃない。でも、今回の雇い主は大名とは違う。交わした契約の見返りは金じゃない、“命”だ。下手に逆らえないと思った。仕方なく俺は葵に背を向けて走り出す。


『蛇骨!』


背後から葵の声が追いかけてきた。だけど俺は振り返らない。振り返ったら最後、昔に戻ってしまいそうな気がした。
だから走り続ける。気を紛らわしたい、その一心だった。






「はぁ…」


長らく走り続けたのち、漸く足を止めて側の木に寄りかかる。
息苦しい。それに、痛い。
見れば左肩からは赤黒い血が衣から染み出している。これは葵と会う前、どっかの足軽たちに鉄砲で撃たれたモンだ。四魂のかけらを取られない限り死ぬことはないが、痛みは感じるらしい。

だけど苦しい・痛いという感覚も生きているからこそだと思えば、自然と口元も緩む。そして悟った。生きていれば何でもできると。仲間と騒げるし、……偶然かは知らないけれど、こうして葵に会うこともできた。


先程の葵の顔が脳裏に浮かぶ。
あいつ、昔と何にも変わっちゃいない。相変わらず無愛想な面しやがって。
クスリ、無意識に乾いた笑い声が息と共に漏れた。刹那、そんな自分に呆れもする。


「(…何笑ってんだか)」


木に背を預け、そのままストンと地面に座り込む。空を仰げば悠々と泳ぐ雲。その白が眩しくて目を閉じた。





『蛇骨、ここにいたか。蛮骨と喧嘩したんだって?』
「連れ戻しに来たって無駄だぜ。蛮骨の兄貴が謝るまで俺ァ戻らねー」
『…連れ戻すだなんて一言も言ってないじゃないか。隣座るぞ。私も今日は蛮骨の所には帰らない』
「…はぁ!?」
『たまには二人で蛮骨を困らせてやろうじゃないか』





いつの頃だったか。俺と大兄貴は些細なことで喧嘩した。
その場の勢いで飛び出し、帰るに帰れなくなってしまったこの俺を迎えに来てくれた葵。その時のことだ。滅多に笑わなかった葵が俺に優しい笑顔を向けてくれたのは。その笑顔、一度足りとも忘れたことはない。十五年も経つのに、脳裏に焼き付いて離れないんだ。


俺は葵が好きだ。ガキん頃からずっと、あいつが好きだった。


「…葵」


静寂の中で名を呼ぶ。応えてくれるわけないのに呼んでしまう。
どうしようもねぇな、と思わず笑った。

その時だった。ガサリ、頭上で葉が揺れた。
瞬時緩んでいた顔の筋肉を引き締めて、顔を上げればそこには琥珀の姿。木の上から冷たい視線を俺に投げ掛けている。


「犬夜叉と戦ってきたのでしょう。お顔が晴れませんが、貴方の好みではありませんでしたか?」


白々しい、全部見てやがったくせに。皮肉のつもりか。
奴の能面みたいな顔を鋭く睨み付ける。


「何で退かせた。あと少しで葵を殺れたってのに」
「貴方に葵を殺せと命令した覚えはありませんが」
「だって…!」
「身勝手な行動は控えてください。葵を殺すのは貴方じゃない」
「は?」


最後の一言が何となく癪に障った。葵の相手があらかじめ決まってるとでも言いたげな口調だ。


「他に誰がいるって…――」


そこまで言いかけて口をつぐむ。
この時、俺の頭の中には葵の後ろ姿が浮かんでいた。そしてその隣には葵の手を握り、連れ添うようにして歩く男の姿。
その男は、俺じゃない。

黙り込んだ俺に対し、琥珀は相変わらずの無表情で機械的に言葉を紡ぐ。


「この先で霧骨様が毒を調合しています。貴方も己のすべきことをしてください」


それだけ言い放つと木をつたって跳び、森の深部へと向かう。その後ろ姿が見えなくなると俺は再び空に目を戻した。


「(俺じゃねぇ、か…)」


昔からそう、葵の命は大兄貴のもの。どれだけ欲しても、大兄貴がいる限り手に入れることはできなかった。
結局生き返ってからも、葵をものにできるのは俺じゃないのか。そう思った途端、自分の中に冷たい感情が流れ込んでくるのが分かった。


…ああ、そうだ。
これが嫉妬ってやつなのか。


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