躊躇いがちに政務室の扉をノックすると暫くして聞き慣れた声が中から聞こえてきた。
 ああ、やはりここにいらっしゃったんだ。ため息ながらに扉を開くと予想通り、勤務時と変わらず机に向かうジャーファルさんの姿を捉える。

「おや、ナマエ」
『お疲れ様です』

 目を瞬かせるジャーファルさんに笑顔を返すけれど、彼の机上に視線を移すと思わず眉が寄った。なんだか書類の量がさっきよりも増えている気がする。仕事人間のジャーファルさんのことだ、きっと急を要さない仕事にまで手をつけているのだろう。しかし、たった一人でこの量は流石に無理と言うか無謀と言うか…。

「ナマエ?」
『…っ、はい』
「どうかしましたか?まだ昼休み中でしょう?」
『あ…』

 部屋の中に入るわけでもなくただ扉から顔を覗かせる私を不思議に思ったのか、ジャーファルさんは唇に笑みを乗せて首を傾げた。
 そうだ、私がここに来たのにはちゃんとした目的がある。いざ本人を目の前にすると挫けそうになってしまうけど、今日こそは…、そう自分に言い聞かせて口を開いた。

『あの、ジャーファルさんにお願いが…』






『これなんですが…』

 震える手付きでコーヒーと切り分けたシフォンケーキをジャーファルさんの前に置いた。

 ――新しいお菓子を作ってみたので味を見てくれませんか。

 それが先ほど私がジャーファルさんにお願いした内容である。
 しかしお菓子とコーヒーは後付けのようなもので、一番の目的は彼を政務室から連れ出すことだった。仕事につきっきりで休息を取ろうとしないジャーファルさんを何とかしなければと以前からずっと考えていたのだ。

「ではいただきます」
『はい』

 けれどやっぱり自分が作ったものを食べてもらうのは緊張する。大人の男性にも好んで食べてもらえるよう甘さを控えめにしたけれどジャーファルさんの口に合うだろうか…。ゆっくりとケーキを咀嚼するジャーファルさんを傍らで見守る。

『どうでしょう…』
「ええ、とても美味しいですよ。コーヒーによく合いますし、甘さも控えめで私の好きな味です」
『…っ、そうですか…』

 その言葉にようやく胸のつかえが取れた気がした。よかったと息をついて私もコーヒーカップに口を付ける。
 お菓子もコーヒーも解放感ある空間も全てジャーファルさんのために用意したのに、いつの間にか私までもが安息を感じていた。青空の下、シンドリアの森の匂いを風とともに感じながらのんびりお菓子とコーヒーを口にする。何より隣には想いを寄せる人がいる。心臓の動きがいつもより早いけれど、やっぱり好きな人の隣は心地がいい。

「……ありがとうナマエ」
『え?』

 唐突な言葉に驚き隣を向けば、優しく微笑むジャーファルさんと目が合う。

「美味しいお菓子とコーヒーのこともですが、あなたが外に連れ出してくれたおかげで気分が軽くなりました。たまにはこうしてのんびり羽を伸ばすのもいいですね」

 その時のジャーファルさんの横顔はとても穏やかで、安堵からフ…と息が漏れた。

『そうですよ、仕事も大切ですがこれからは適度に体を休めてくださいね。ジャーファルさんが倒れてしまったら、私…いえ皆が悲しみます。だから、もっと頼ってください。あなたを傍でお支えすることが私の役目でもあるのですから』
「ナマエ…」
『じゃなきゃ、このままではジャーファルさんが過労死してしまいます』
「過労死ですか…ふふ…」
『わ、笑い事じゃないです!本気で心配してるんですからね!』
「すみません。いやね…、」

 ジャーファルさんは口元を袖口で覆いつつ静かに笑う。

「つい、嬉しくなってしまいまして…」 
『え?』
「あなたのような良い部下を持って私は幸せです」
『………』

 耐えろ私!ニヤニヤするな私!
 ジャーファルさんに見えないところで緩んだ頬を思いきり抓る。彼が何か言う度に一喜一憂していたらほんとに体がもたない。

「それにしても随分と料理の腕を上げましたね。最初はあれほど失敗していたのに…」
『うっ…そのことは出来れば忘れていただきたいです…』

 そういえばお菓子作りを始めた当初、ジャーファルさんにはたくさんの失敗を見せてしまった。調理中にうっかり火で前髪を焦がしたり、鍋に大量の砂糖を入れてしまったり…あの時のことを全て見られていたと思うと恥ずかしくなる。

「どれどれ、もう怪我などはしていませんか?」
『…っ!』

 コーヒーカップに添えていた右手が不意に取られた。ジャーファルさんの親指が私の手の甲を優しく滑る。途端触れた所から甘い痺れが走り、心臓がうるさく音を立て始めた。多分私の顔は真っ赤に染まってる。こんな顔は見せられないとひたすら俯き黙り込んでいると、やがてジャーファルさんの手がゆっくりと離れていった。恐る恐る目線を上げると、ジャーファルさんは私から顔を背けてコーヒーカップに口を付けている。その表情はクーフィーヤに隠れて伺えない。

『(どうしよう…)』

 もしや気付かれたのだろうか。
 ジャーファルさんを想う私の気持ちを…。

『…っ(ダメだ…)』

 考えるのも恐ろしくて口を固く閉ざす。ジャーファルさんもまた口を開くことはなく、お互い沈黙を保ってコーヒーを口にした。
 けれど、結局沈黙に耐えられなくなってしまったのは私の方。思い切って「あの…」と声を上げるとジャーファルさんの顔が僅かにこちらに向く。その時やっと表情が伺えた。

『ジャーファルさん…?』

 彼の顔色がいつもと違うことにはすぐに気付いた。頬がほんのりと赤い。肌が白い分そのことが顕著に分かる。どうしてジャーファルさんがそのような顔をするんだろう。理由が分からず、ただジャーファルさんを見つめる。
 しかしその時、不意に背後から「あーっ!」と大きな声が上がった。振り返った先ではヒナホホさんのお子さんたちが、目を輝かせてこちらをじーっと見つめている。

「ナマエとジャーファルさんがいいモン食ってるー!」
「いいなーいいなー」
「へへっいただきー!」
「あっ、兄ぃズルい!」

 それはまるで嵐のようだった。残っていたシフォンケーキは跡形もなく消え、いつの間にか子どもたちの手中に移動している。
 ケーキを奪い合いながらも仲良く駆けていく、その後ろ姿を私は呆然と見つめる。ふと、隣を向くとジャーファルさんも同じような顔をしていて――。
 お互い呆けた表情で顔を見合わせた私たちはその可笑しさについ笑ってしまった。


2014.03.02/小さな倖せを半分こ
ぴとん様に捧げます。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -