ボロボロに擦り切れた黒のローブ。生傷の目立つ手足。煤だらけの頬。今となっては気にも留まらない。だって、それは紛れもない血と汗と涙に塗れた努力の証だから。
「この一ヶ月間を耐え抜いたのはここにいる6名だけだ!その努力と辛抱強さ、褒め称えてやろう!」
マイヤーズ先生はわたしたちの顔を一人ずつ確認し、力強く頷いた。
怒涛の一ヶ月はあっという間に過ぎ去っていった。厳しい身体強化の授業の末に残ったのはわたしを含めて6人。元々30はいただろう生徒の数がここまで減ってしまった原因はやはりマイヤーズ先生の過酷な指導にあるのだろう。わざわざこんな辺境の地に足を運んで学院に入ったのに、魔法を学ばせてもらえない。毎日死ぬ寸前まで走らされ、食べたくもないご飯を無理して食べる。汗と涙と嘔吐物に塗れた日々。わたしとて何度挫けそうになったことか。でもその度にわたしを強く励ましてくれたのは――、
「それでは今より魔法の授業に入る!ついて来い!」
「「「「「おー!!」」」」」
五つの拳が一斉に上がる。意気揚々とマイヤーズ先生について行く皆を一歩後ろから眺め、唇は自然と曲線を描いた。
「青蘭さん?どうしたんだい?」
『…ううん、今行く』
――彼らがいなければ、きっとわたしは今ここにいなかったに違いない。倒れそうになった時いつも後ろで支えてくれた才凛。ヘトヘトで立ち止まってしまった時いつも「もう少しだよ、一緒に頑張ろう」と声を掛けてくれたネロ。授業の辛さに涙を流した時いつも笑顔と元気を分けてくれたアラジン。自分だって辛いくせに、なんてお人好しなんだろうって思ってた。だけどそんな彼らにわたしは勇気付けられたんだ。無事にイクティヤールを終えたらどうにか彼らに感謝の言葉を伝えたい。
「今日の魔法の授業楽しかったねえ」
「ほんと!沢山魔法のことが知れてゾクゾクしちゃった!」
「厳しい身体強化の授業に耐えた甲斐があったよね」
初めての魔法授業を終えて学院内を闊歩する。傍らにはアラジンや才凛、ネロの姿もあった。身体強化の授業の時から何かと彼らとは一緒にいることが多い。
「ねえネロ、よかったらこれから一緒に勉強しない?」
「え?」
「そうだね!一ヶ月後の試験に向けてみんなで勉強しよう……っとと!?」
あろうことか才凛とネロの間に割って入ろうとするアラジン。慌ててその首根っこを掴んで阻止した。全く、これだから男子は。
『あー、お腹空いた。アラジン、食堂付き合って』
「え、え?青蘭さん?」
『ほら行くよ』
アラジンを引きずりながら首を後ろに傾けると両手を合わせて苦笑いをする才凛と目が合う。口パクで「頑張って」と伝えてやると途端顔を真っ赤にしてコクコク頷いた。しかし、どうもぎこちない二人。不安に思いもしたが、わたしが出て行ってどうにかなるわけでもあるまい。結局わたしが選択したのはアラジンを連れてさっさとこの場から退散することだった。
『さぁて、わたしたちも勉強するわよ』
食堂の席に着くと早速魔導書を開く。進級試験イクティヤールまであと一ヶ月、あまりのんびりとしていられない。
「ご飯は食べないのかい?さっきお腹が空いたって言ってたじゃないか」
『あれは、才凛とネロを二人きりにさせるための口実』
「どうして二人きりにさせるんだい?」
『……』
心底不思議そうに首を傾げるアラジンに言葉が出なかった。まさかここまで鈍感とは。
魔導士のわたしたちには当然ルフが見えている。才凛のルフはネロの隣にいるだけで嬉しそうに高揚するのだ。
『あのね、才凛はネロのことが好きなんだよ。だからあの子のためにもなるべく二人きりにさせてあげなきゃ』
とは言ってもネロも鈍感だし、才凛は才凛でいつまで経っても消極的。このままで二人の距離が今以上に近づくわけもない。やれやれ、先が思いやられる。
「青蘭さんってさ」
『んー?』
「前に比べてよく笑うようになったよね」
『…へ?』
唐突なことに拍子抜けた声が出た。何がそんなに嬉しいのか、向かいのアラジンはフフフと声を出してニコニコ笑っている。しかし、それ以上に理解が出来なかったのはその言葉ひとつでわたしの頬が熱を持ったことだ。
『…わ、悪かったわね』
「ううん、僕はその方が好きだよ」
へー、そうですか。それはよかった。他人事のような返事をぶっきらぼうに投げつけ、赤く染まりつつある顔を隠すように参考書を立てて手に持った。
刹那だ。
『ぐえ!』
ズシンと頭を襲った衝撃、そしてかなりの重量感。当然わたしの頭は与えられた衝撃に逆らえられずカクンと下がる。
「よおアラジン」
「スフィントスくん…」
『…やっぱりアンタか』
寧ろ人の頭上で肘をつく不届き者なんてコイツしかいないだろう。
「お、誰かと思えば馬鹿女じゃねえか。俺の肘下に潜り込んで何してんだ?」
あ、ちょうど目の前に先の鋭いフォークが。そうだな、例えば腹立たしい男の顔を穴ぼこにしてやるには充分…。食い入るようにフォークを見つめる、が、わたしの手が伸びるよりも早くアラジンが手に取って隠してしまった。
「え、えっとスフィントスくんはイクティヤールの勉強は進んでるかい?」
「ハッ!そりゃあ俺様は前々から魔法の授業を受けてるんでな、まぁ落第は流石にねえだろうけどよ」
『……』
「ま、せいぜい頑張れよ!」
ニタァと笑ってわたしの頭をポンポン叩き爽やかに去って行く、ヤツの、その憎らしい背中をわたしはただずっと無言で見つめていた。
『………アラジン、お願いがあるんだけど』
「フォークは渡さないよ」
その時のわたしの顔はおとぎ話に出てくる怪物よりも数段に恐ろしかったと、のちにアラジンは震えながら語った。
14'0107 その背中に告げる