(side Aribaba) 空が茜色に染まった頃、俺はアラジンとモルジアナを連れてアリアさんの部屋を訪れていた。どことなく哀愁を感じさせるその空間に足を踏み入れれば途端、彼女の香りが鼻を掠める。俺はこの優しい香りが好きだった。落ち着く。そんな単純な理由で。どうしてこんなにもホッとするのか、その理由だけはずっと分からないままだったけれど、今になって漸く分かった気がする。 暖かい日差しのような香りが鼻を掠めた時、いつだってそこには彼女の笑顔があったんだ。 「こんばんは。遊びに来ましたよ、アリアさん」 アリアさんが意識を失ってからもう三日、彼女は一向に目を覚まさない。最初こそ「毎日お見舞いに行こう」と気丈に話していたアラジンやモルジアナも最近は酷く落ち込んだ様子で口数も前より減った気がする。そういう俺も自分でも気付かないうちにため息をつく回数が増えたらしい。今日の剣術の鍛錬中、師匠に檄を飛ばされてやっと自覚した。 彼女が深い眠りに落ちてもここの毎日は変わらない。国全体が活気に満ち溢れ、人々の間には笑顔が絶えることがない。太陽みたいに明るくて幸せな国、シンドリア。この地に両足をつけて降り立ったその日から新鮮な出来事の連続で、俺の目には毎日がキラキラと輝いて見えた。それなのに今では胸にぽっかり大きな穴が空いてしまった気がする。気付かなかった。彼女の存在が、まさかここまで大きくなっていたなんて。 「今日は何の話をしましょうか」 当然と言えば当然だが、反応を示さない彼女に胸がチクリと痛む。本当にアリアさんはいつか目を覚ましてくれるんだろうか。ふと生じた不安に瞼を伏せる。 「私は、」 静寂を破ったのはモルジアナだった。拳を固く握ったモルジアナは俯きながらもぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。 「私は今日マスルールさんに叱られてしまいました。ちっとも練習に身が入っていない、そのようなことではいつも笑顔で応援してくれていたアリアさんが悲しむだろうと。……確かに、その通りだと思いました。暗い気持ちでいるあまり私はいつの間にか自分の道を見失っていたみたいです。私は、強くなりたい。こんな私を日の下に連れ出してくれた全ての人たちのために。あなたはそんな私の気持ちを理解して、いつも影ながら応援してくれていたのに…」 「モルジアナ…」 「…だから、今はあなたとお話ができないのは寂しいですが私なりに頑張ろうと思います。あなたが目を覚ました時、私はもっと強くなっていたい。そうしたら、きっと…アリアさん、いつものように笑ってくれますよね?」 「…っ」 しっかりとアリアさんを見つめて話すモルジアナを隣から見ていて、ふと頭の中に少し前の出来事がよぎった。 『アリババくんはいつも頑張ってるね』 「え?」 『仕事の合間にね、いつも見てたんだ、君の頑張ってる姿。これからもずっと見てるね』 頭を撫でられて気恥ずかしく思いながらも、太陽みたいな眩しい笑顔で紡がれたその言葉が心の底から嬉しかったことを思い出す。自分の努力を側で見ててくれる人がいる、そう思うだけで不思議とこれからも頑張れる気がした。 「…そうだよな」 「アリババさん?」 「俺たちが立ち止まったところで誰一人喜ばねえ。少し考えれば分かることだったのにどうして気付かなかったんだろうな」 今自分たちに何が出来るか、答えは一つしかない。ただ信じて前に進むだけ。たどり着いたその先で彼女の笑顔が迎えてくれると信じて…。モルジアナと顔を見合わせ、久々にお互い頬を緩ませた。 それからは茜色に染まる部屋の中、ただ他愛ない話をして過ごした。気のせいかもしれないけれど、眠る彼女の口元が少し、ほんの少しだけ緩んだように見えて、そのことが何だか無性に嬉しくてくだらないことまで夢中で言葉に乗せた。 ある時、はるか遠くでドォンと地鳴りのような音が聞こえてきた。その瞬間にベッドサイドの卓上に置かれた花瓶がぐらりと傾いたが、咄嗟にモルジアナが驚きの反射神経で手を伸ばしたことで地に落ちることはなかった。 「凄い音ですね。皆さん大丈夫かしら…」 「心配いらねえよ。何てったってあのシンドバッドさんたちがいるんだしよ」 シンドリア東海岸沖に南海生物が現れた。王宮で働く人たちが意気揚々と話していたのを耳にしたのはつい先程のことだ。なに、今頃目立ちたがりの師匠が格好つけて戦っているに違いない。そうだよな、アラジン。シンドリアに来て初めて狩りを目にした時、師匠とヤムライハさんが競うようにして戦っていた事を思い出してしまい、笑みを漏らしながらアラジンへと視線を向ける。けれどその時、アラジンの様子がどこかおかしいことに気付いた。アリアさんの手を握るアラジンは一言も喋らず、ただ眠る彼女を見つめる。その横顔に何故だか胸が騒いだ。 「…ねえ、アリババくんモルさん。もしもアリアおねえさんが目覚めたとして、君たちはずっとこのままでいいと思うかい?」 「え…?」 「僕は今の優しいおねえさんが大好きだよ。ずっと笑って側にいてほしい。でも時々思うんだ、今のままで本当にいいのかなって…。このままじゃ彼女はきっと本当の意味での幸せにはなれない」 「アラジン?」 どういうことだよ、アラジン。そう言おうと口を開いた、その時だった。ズドンと響く激しい音。同時に部屋は大きく縦に揺れ、机の上に積み重なっていた本はバサバサと音を立て雪崩落ちる。 「なっ…何だ!?」 尋常じゃない音と揺れに身を竦める。程なくして扉の向こうから慌ただしい声が聞こえてきた。恐らくは女官の人たちのものだろう。扉の向こうで交わされる言葉に耳を澄ます。 「大変よ!南海生物が北海岸沖にも出現したらしいわ!」 「北海岸って、この王宮の真裏じゃない!どうするのよ!王と八人将は今東海岸沖で狩りをしているのでしょう!?」 「落ち着きなさい!王宮にはまだ兵士たちも残っているわ。私たちは私たちに出来ることを考えるの!」 「南海生物がすぐ近くに…?」 ザワザワと胸が騒ぐ。シンドバッドさんたちが東海岸にいる今、ここはほぼ無防備の状態だ。どうする、戦うか。腰に差したアモンの剣にゆっくりと手を伸ばす。その瞬間――、 「アリアのことを頼みます」 不意に頭に浮かんだ言葉に指先が震えた。それはつい先程、狩りに向かうジャーファルさんと偶然顔を合わせた時に言われた言葉。その時のジャーファルさんは一見いつものように優しい笑顔を浮かべていたけれど気付かないわけがなかった。俺たちをまっすぐ見据えるその瞳の奥に不安の色が隠れていたことに…。 「くそ…!」 彼女を一人置いてはいけない。かと言ってこのままでは王宮にいる全ての人が危険に晒される。どうすればいい。決断が急がれる中で焦りばかりが募っていく。 「アリアおねえさん…!?」 不意に隣から聞こえてきたアラジンの声にびくりと肩を震わす。まさか…。心臓の鼓動が早まるのを感じながらアラジンの視線の先をゆっくりと辿る。 「…っ」 そこにあったのは確かに先程とは違う光景だった。あれほど喋り掛けても手を握っても全くもって反応を示すことのなかった彼女の瞼が細かに震えていたのだ。 ――そして…、 僕の知っているあなたのままで もう一度笑顔を見せて (報告致します!北海岸に南海生物を確認!現在宮殿内に向かって進行中!) (チッ…次から次へと厄介だな。ヤムライハ、ピスティ、お前たちは早急に王宮へ向かえ!) ((はい!)) |