ギシ、ギシ…。薄暗い部屋の中に響くのは古い木が軋む音と波の音。
 私は船内の一室で眠れぬ夜を過ごしていた。深夜にバルバッドを出港したこの船はシンドリアという国へ向かって順調に進んでいる。

「アリア、俺の国へ来ないか?」
「俺の国が君を食客として迎え入れよう」


 あの方の言葉に甘えてこうして一緒に船へ乗ってしまったけれど、本当にこれでよかったのだろうか。少しばかり後悔していた。相変わらず何も思い出せはしない。元居た場所は何処なのか、バルバッドで何をしていたのか、そして本当の名前でさえも。自分が何者か分からない、それが堪らなく怖いのだ。こんな状態でシンドリアに行ってまともに生きていけるだろうか、先行きが不安で仕方ない。口を開けば出てくるのは溜息ばかり。そして今、再び溜息が生み出されようとしていた。

 だが、それは扉の方から聞こえたノックの音に掻き消される。ゆっくりと開かれた扉から姿を現したのは赤髪の少女。彼女は椅子に座る私を見ると少し意表を突かれたように目を丸める。

「起きてらしたんですか」
『ええ、何だか眠れなくて』
「ちょうどよかった。今から私と一緒に甲板に来てくれませんか」
『へっ?』
「あなたにお見せしたいものがあります」




 私の手をグイグイ引いて進む少女に戸惑いつつも、甲板へと繋がる扉前までやって来た。見せたいものとは何だろう。尋ねても明確な答えは返ってはこないが、彼女が見せたいと言うものはこの扉の向こうにあるのだろう。私は大人しくその時を待つ。
 間もなくして彼女は扉を開けた。

『…っ』

 息を呑む。扉を開けて一番に目に飛び込んできたのは大きな太陽。キラキラと輝く海から顔を出した朝日だった。

「おねえさんにも見てほしかったんだ」

 甲板には二人の少年の姿があった。綺麗だねと微笑む三つ編みの少年に私は頷いて笑みを浮かべた。確かにこんなに綺麗な光景は初めて見たような気がする。そもそも太陽自体何年も見ていなかったような、そんな気さえした。

「おねえさん、君は自分自身を何だと考える?」
『え…?』
「僕ね、少し前まで自分が何者なのか分からなかったんだ。でも旅をして出会った人に僕は教えられた。名前や故郷、生い立ち――人を定義付けるものってそれが全てじゃないんだよ」

 驚きを隠せなかった。まだ幼いこの子も今の私と同じ、自分が何者なのか分からなかったのだという。けれど彼は悲しい素振りを見せない。寧ろ傍にいた少年少女の手を引いて笑っている。

「例えば僕はアリババくんとモルさんの友達であるアラジンだよ!そして君はアラジンの友達であるアリア。ね?」
『……ともだち…』
「アラジンだけずりーぞ!俺も入れてくれよ」
「私も」
『あなたたち…』
「こら、俺のことも忘れるんじゃないぞ」
『…っ!』

 突然聞こえたその声に振り返れば、いつからいらっしゃったのだろうか、シンドバッド様が従者お二人を傍に従えてそこにいた。

「俺も君のことをちゃんと知っている。君はシンドバッドの家族であるアリアだ」
『…か…ぞく?』
「俺は君を迎える提案をした。そして君はそれを承諾し、この船に乗った。その時点で既に君は俺の大切な家族の一員となったんだ」

 アラジンくんたちの友達。
 シンドバッド様の家族。
 築き上げられていく私の定義。

「自分が何者なのか分からない、君はそう言って嘆くけれどおかしいよね。僕たちは出会ってまだ間もないのに、こんなにおねえさんのことを知っているよ?」

 ぷつり、アラジンくんのその言葉で張り詰めていた最後の糸は呆気なく切れた。目からぽろりぽろりと止めどなく涙が零れ落ちる。
 どうしてこの人たちはこんなにも優しくしてくれるのだろうか。けれど、そんな彼らがいなければきっと私の心を覆う深い靄はいつまでも晴れなかっただろう。

『……ありがとう』

 何も知らない私に友達を、家族を授けてくれて。溢れる気持ちを不器用ながらも言葉に乗せる私に、彼らはこれ以上ない優しい微笑みをくれた。


愛すべき楽園へ
きっとそこは素敵な場所

(ところでシンドバッドおじさん、いつからそこにいたんだい?)
(ずっといたさ!まったく酷いじゃないか、俺を除け者にして!)
(発言が大人気ないですよ、シン。もうすぐ三十のおじさんのくせに…)
(言ったな!傷ついた、王様傷ついた!もう仕事なんかするもんか!)
(……ほう?)
(…マスルール、頼む俺を助け…)
(嫌です)
title by カカリア


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