夕暮れの帰り道
いつの間に吐く息は白くなくなったんだろう。
上着無しでも寒いと思わなくなったのは昨日から?それとももっと前から?
目に沁みるほどの光を放っていた夕陽はいつからかあんなにも霞んだ空気に包まれている。
「もう、春だなぁ」
独り、呟く。
ぼんやりと滲んだように色を広げる夕焼けも悪くはないけど、冬の冷たい空気で透き通る色を重ねた空の方が好きだ。
遠くの空を眺める俺の髪の毛を、春らしい突風が自由気ままにかき乱していく。
「おい」
風に吹かれるまま撫でつけられていた髪が今度は人の手によって引き留められた。
ゆっくりと、とはいえ一応家を目指して歩いていた俺はぐりんと頭だけを置き去りにする。
傾いた体を大きな手のひらが支えてほぼ真上を向いたところで見慣れたヒゲが視界に入った。
「久しぶり」
声の掛かった時点で……更に言うならアスマが里に戻った時には気付いていたけれど、そこは敢えて知らん顔してみるのも久しぶりの再会の楽しみ方だ。
「ヒゲ伸びたね」
「今朝整えたばっかりだぞ?」
「でも絶対伸びた。オレが言うんだから間違いない」
髪の毛を掴んでいた手で自らの顎を撫で、眉間に皺を刻む。
ほら見ろと笑った俺の身体の傾きを地面から垂直な所まで戻されたから、そこから更に前屈み…というよりも背中を丸めるのは自分でやった。
いつもの猫背に背骨が落ち着く。
「お疲れさまでございました」
「今日は帰らないから」
「わかった。じゃ、待ってる」
「気を付けて帰れよ」
ちぐはぐな会話でコミュニケーションを終えて、T字路に差し掛かった時点でアスマは右に、俺は左に曲がった。
長い間留守にして、戻ってきた後に言われる「帰らない」。
最初の頃こそ心配したけどこの帰ってきたのに帰らない一晩が溜め込んだイロイロを消化するのに必要らしい時間だという事を知ってからは何も言わない事に決めている。
イロイロを俺に吐き出してしまうのは、アスマにとっては非常に不本意な事らしく、そのせいでドンヨリと落ち込むアスマを見るのは俺にとっても不本意なコトだから。
だから離れていった足音が距離を広げずついてきて、更には速度を上げて距離が縮まった時には驚いた。
気味の悪ささえ感じて家路を急いでしまう。
「待てよ、待てってば。こら、カカシ、おい」
速歩きと小走りの間の速さで家を目指す俺を必死に追い掛けてくるアスマの声を聞きながら、ふと頭に浮かんだのはどこかの国の童謡。
帰れと言われて帰ろうとしているのに言った張本人が追いかけてくる。
今の俺たちはあの歌そのものだ。
そう思ったら笑いがこみ上げてきて、速歩きに勤しんでいた脚に力が入らなくなってきて。
パタリと足を止めた俺の背中に突っ込んできたアスマは俺を突き飛ばしてやっと止まった。
「急に止まるなよ」
「それはワガママだと思う」
「ゆっくり止まれ。簡単だろ?」
「いやいや、自分勝手だ」
横に振った首に回された腕。
おや、こんな往来で?なんて惚けたコトを考えた俺に「落とし物だ」と囁いて、首もとで小さな金属音を立てる。
視線を落とせば細いボールチェーンで下げられた認識票が風にはためく服に合わせて揺れていた。
「イヤリングじゃないのか」
「イヤリング?」
「や、こっちの話」
「お前な、コレは落としたら気付くだろ」
「ごめんごめん」
襟刳りから服の中にしまい込み、それじゃあねと背中を向ける。
今度は肩を掴まれた。
「ああ、そっか。お礼のダンスがまだだったね」
「ダンス?」
「あれ、歌だっけ?」
「何の話だ?」
「…こっちの話。で?」
そっちの話は何なのと促せば、やっぱり一緒に帰ろうかと言う。
驚いた俺に曖昧な笑みで答えてアスマは横を通り抜けていった。
一緒に帰ろうと言いながら置いていくとはどういう事だ。
「いいの?」
「今夜は飲み明かすぞ」
「オレは寝るよ?」
「…そこは付き合ってくれるのが優しさだろ」
「だって明日も任務だし」
「まぁそう言うなよ」
「アスマこそワガママ言わないの」
冷たいヤツだなお前って。
拗ねたように言いながらポケットを3つ探って、煙草が見つからない事に溜め息を吐く。
4つ目のポケットを上から叩いて一瞬表情を輝かせ、手を突っ込んで掴んだものが煙草の箱では無かった事にあからさまに肩を落とす。
「やる」
「何これ」
訊きながら差し出した手にのせられたのは青々と茂る草木が描かれたキャラメルの箱だった。
「春っぽいね」
「ぽいじゃなくて春なんだ。だってほら、見てみろ。夕焼けがもうあんなに……夕日はどこ行った?」
「とっくに沈んだよ」
西に微かな明るさを残しただけであとは濃紺に染まった空を見上げてアスマが動きを止める。
半開きの口から吐かれる息はやっぱり白くはならなくて、あんなにと指さされる予定だった夕焼けを見た時と同じくらい春の訪れを感じた。
「本当に、帰ってきてイイの?」
玄関の前でもう一度確認のために訊いた俺を見て黙ってしまったアスマを後目に扉を開ける。
一歩目を踏み出し、振り返る。
玄関の境界線の向こう側で口元に笑みを浮かべたアスマが俺の手を指差して呟いた。
「それ、つくし味」
そんな味があるものかと疑いつつも箱を見ようと視線を外した途端、よろける程の強い力で抱き締められた。
境目を踏み越えて縋りつくような抱擁を寄越す大きな体を支える。
「こんなモノでも春を感じなければいけないのかな」
無遠慮に体重を掛けてくるアスマの向こう側、自分の手の中に見えたのは確かに“季節限定 つくし味”の文字。
少し伸びたヒゲはチクチクと首に刺さり、抱き寄せてみた腰はベストのせいで抱き心地があまりよくない。
「お嬢さんとくまさんはこういう関係なのか」
「……だから、何の話だ」
「オレたちの話」
「今夜、付き合えよ」
「はいはい」
お互いにとって本意ではない夜になるだろう事を承知の上で頷くと、安心したように力の抜けた体から零れた笑いが耳に届いた。
「おかえり、アスマ」
「ただいま」
11/04/17