「チッ、本格的に降ってきやがった」
強くなった雨足に、沖田は短く舌打ちをして盛大に眉をしかめた。
(…クソ、あのマヨラーめ)
見回りを言い付けたいけ好かない上司の顔を思い出し、悪態をつく。冷蔵庫にストックしてあるマヨネーズに下剤を仕込んでやろうと意地の悪い笑みを浮かべて、屯所へ向かう足を早めた。
「…ん?」
ふと視界の先に映った人影。
雨のせいで悪くなった視界に苛々しながら目をこらす。
シルエットから女性だとわかった。
このひどい雨の中、傘もささずにぼんやりと歩いているらしい。
急いでいる風でもなく、ふらふらと覚束ない足取りが危なっかしい。
(ありゃァ…)
なんとなく桃色の着物を着たその人物に見覚えがあるような気がして、駆け寄った。
「…姐さん?姐さんじゃねェですかィ?」
腕を掴んで、呼び止める。
呼び止めたその人は、やっぱり思った通りの人で。
どのくらい雨の中にいたのか、妙の身に纏う着物も髪もずぶ濡れだった。
「姐さん、何してんですかィ。こんなとこで」
「……」
何も答えない妙に沖田は怪訝そうに眉を寄せ、妙の顔を覗き込む。
その表情を見て、はっとした。
(…泣いてる?)
雨に濡れているせいではっきりとわからないが、それでも沖田を映す妙の目は赤かった。
普段の妙からは想像出来ない姿に、沖田は少し面食らう。
(姐さんはいつも、笑ってるから…)
どこか焦点の合わないようなぼんやりとした瞳に、自身の姿が映っているのが見えた。
悲しいだとか悔しいだとか、そういう感情は読み取れない。
ただ"泣く"という行為をしている、という風に妙は涙を流していた。
「…姐さん、何かあったんですかィ?」
両肩を支えるようにしてそう問うと、妙は不思議そうに沖田を見つめ返してぽそりと呟いた。
「…ミ、ツバさん…?」
「え…?」
思いもよらない返答に、沖田は目を見開いた。
妙が呟いたのは、懐かしい、自分にとってずっと大切なひとの名前。
「ね、姐さん…?」
困惑した声で沖田は妙を呼ぶ。
久方ぶりに聞いた名に、沖田も動揺を隠せなかった。
「…え?」
妙はふと我に返ったように沖田を見つめ返す。困りきった沖田の顔にはっとして身を放した。
「ごっ、ごめんなさい…!私…っ」
その瞬間、妙の体がふらりと傾いた。
「姐さんっ!」
倒れかけた妙を寸でのところで抱き止める。
「姐さん!?しっかりして下せェ!姐さん!」
倒れた妙に沖田は必死で呼び掛けるが、気を失っているのか妙はぐったりとしたまま動かない。
額に手を当てると、冷えた体とは対照的に熱かった。
(熱ィ…。こんなになるまで何やってたんですかィ、姐さん)
ぐ、と沖田を唇を噛み締めて立ち上がる。
困惑も疑問あるが、そんなものは後回しだ。
妙を背負って、気休めに隊服の上着をかけてやる。
沖田は屯所とは逆方向に足を向けて、走り出した。
***
リィ、と虫の音が響く静かな夜。
縁側に腰掛ける少女と、背を向けて立つ長髪の男。
優しく淑やかな雰囲気を纏う美しい少女は、真っ直ぐに男の背を見つめていた。
長い黒髪を高い位置で結った男は、振り返る素振りも見せず睨みつけるようにじっと前を向いたままだ。
『みんな、江戸で一旗あげるって本当?』
遠慮がちに、少女は男の背に問いかける。
その声は少し寂しげだった。
『…誰から聞いた』
『そーちゃんが…。昨日意気揚々と』
『あのバカ』
眉間に皺を寄せて、男は盛大にため息をつく。
少女は静かに微笑みを浮かべた。
『…私も…連れていって』
男はちらりと視線だけを動かして、少女を見た。
少女はその視線から逃げるようにうつむく。
『私は…そーちゃんの親代わりだもの。あの子には私がいないと…。それに…私…みんなの…』
少女は少しためらいがちに、言葉を切った。
淡く頬を染めて、ぎゅっと拳を握る。
『十四郎さんの側にいたい』
静かに、でも確かな熱を込めて少女は男にそう言った。
男は依然前を向いたままだ。
『しらねーよ』
少女は男の声に顔をあげる。
『しったこっちゃねーんだよ。お前のことなんざ』
男は振り向きもせず、そう言い放った。
少女は少し悲しげに、それでも静かに微笑んだ。
「…っ!」
はっと目を開けると、そこは室内で、さっきのことが夢だったのだと気付く。
辺りを見回してみると、見慣れた自室の風景があった。
枕元には水の張った桶と手拭い。
起き上がると、額に乗せてあったのか、ぬるくなった手拭いがぽとりと落ちた。
「ゆ、め…?」
さっき自分が見ていた風景は静かな夜の庭だった。
でも、それは夢だ。現実じゃない。
(夢…?じゃあ、ここは…?)
自力で自宅まで戻った記憶はない。
どう頑張っても、妙が思い出せるのは雨の中歩いていたというところまでだった。
土方と別れた後、雨の中どれくらい歩いていたのだろう。
ずっと目を背けていた自分の気持ちと向き合って、ようやくあの人への答えが出せた。
その安堵と疲労だろうか。ふっと力が抜けたのだ。
それから、その後自分が会ったのは誰だった?
支えてくれたあの手は誰のものだったのだろう。
おぼろげな記憶を、妙は必死で手繰り寄せる。
頭に残るのは、ざあざあという雨音、見慣れた黒い隊服、庭に響く虫の声、寂しげに笑う美しい少女、姐さんと呼ぶ誰かの声、背を向けたままの長髪の男…―――。
(…姐さん、って言ったわ。彼は、)
先ほどの夢と実際の記憶が混じり合ってどこか曖昧だが、彼は確かに姐さんと自分を呼んだ。
心配そうな顔、それから驚いたような顔をして。
(…ミツバさんって、私…)
そうだ。自分は彼をミツバと呼んだ。
会ったことも見たこともない彼女の名前を、沖田に向かって呼んだのだ。
(…沖田さん)
夢に出て来たふたりの人物を思い返して、妙は手にした手拭いを握りしめる。
色素の薄い茶色の髪にくるりとした蘇芳色の瞳。自分がよく知る沖田総悟によく似た少女。
見覚えのある長髪の男をその少女は"十四郎さん"と呼んでいた。
「…あれは、」
(ミツバさんだったんだわ…)
まるでその場で見ていたように、しっかりと記憶に残っている。
あれが本当にあったことなのかはわからない。
でもきっと、あれはミツバの記憶なのだろうと妙は思った。
(ミツバさんが見せてくれたのかしら…)
いまだぼんやりとする頭で、妙は夢を思い返す。
(綺麗なひとだった、すごく。優しくて柔らかい雰囲気の…)
お前のことなど知らないと冷たく突き放されてもなお、優しく笑っていた少女を思い出して、胸がじんとする。
不意に、ぽたり、と妙の手の甲に滴が落ちた。
ぽたりぽたりと零れては手の甲を濡らす。
「あ、れ…?どう、して…?」
何故だかわからないが、涙が溢れた。
ぽろぽろと零れて、止まらない。
(悲しい訳じゃない。苦しい訳じゃないのに…)
不思議なくらい、心は穏やかだった。
ただ、どうしてか涙が止まらない。
「お、起きたのか?」
声のした方に顔を向けると、そこにいたのは盆を手にした銀時だった。
銀時は妙の涙に驚いたように目を見開いて、そっと障子を閉めた。
布団の横にどかりと腰を下ろし、妙をじっと見つめる。
「なに泣いてんの?」
「銀さん…」
粥作ったけど食う?と銀時は盆を差し出す。
食欲がないと首を振ると、後でちゃんと食えよ、と妙の涙を親指でそっと拭って額に手を当てた。
「下がったみてーだな、熱。お前半日寝たまんまだったんだよ。大変だったんだぜー。新八は取り乱すし神楽は落ち着かねーしよ」
新八と神楽は今万事屋に行ってる、と銀時は付けくわえる。
「すみません…。ありがとうございました」
ったく、と銀時は妙の頭をくしゃりと混ぜた。銀時の手の暖かさに、妙は頬を緩めた。
「礼を言うなら沖田くんに言うんだな。お前をここまで背負って来たの、沖田くんだから」
「やっぱり沖田さんが…」
「一応覚えてるみたいだな。お前外で倒れたんだってよ。そこに沖田くんが通りかかったらしいぜ。っとに、あんなひでェ雨の中傘もささずにどこほっつき歩いてたんだお前は」
「ごめん、なさい…」
「…大丈夫か?まだぼーっとしてるみたいだな」
止まらない涙を妙は手で拭う。
伝わる銀時の手の温度にほっとした。
「夢を…」
「ん?」
次々と溢れる涙を指で掬いながら、銀時は優しい声音で妙に問い返した。
「夢を、見ていました。なんだか、優しいような悲しいような、そんな夢を」
「ふーん?」
「どうしてかしら。ごめんなさい…。自分でも不思議なくらい、涙が止まらないの」
ぽろりぽろりと妙は涙を零す。
銀時は優しく頷いて、妙の手をやわく握った。
「泣きたい時は泣けばいいんじゃねーの」
「…『泣かないことが強さじゃない』?」
「…あァ」
「ありがとうございます、銀さん」
急にどうした、と銀時は笑う。
妙は握られた手をそっと力を込めて握り返した。
「…もう逃げません」
「そーか」
真っ直ぐに銀時の瞳を見て、妙はきっぱりとそう言った。
銀時はその目を優しく見つめ返して、良かったな、と握っていた手を放す。
「きっと、優しくて温かい、日だまりみたいなひとだったんだわ」
妙はふわりと笑って、ひとりごとを呟くようにぽつりとそう言った。
その声には嫉妬も羨望もなく、どこか誇らしげで晴れやかだった。
その瞳に、もう涙はない。
「…いい女だったよ。アイツは」
銀時の言葉に、妙は嬉しそうに微笑んだ。
あの人が好きになった人だもの、といたずらっぽく。
遠回りしたけれど(向き合いたいの。貴方と)
(怖がらないで、どうか)
Title: a dim memory