ぽつりぽつりと降り出した雨が妙の頬を濡らす。
『私はあなたが好きです。土方さん』
土方にそう告げたのは、つい数刻前のこと。
驚いて目を丸くする土方の手を振り払って、夢中で駆け出した。
あれから一度も立ち止まらずに歩き続けていたせいか、足が痛む。
でも、それよりも、胸の方がずっと痛かった。
妙はぎゅっと拳を握りしめる。
(…すっかり癖になっちゃったわ)
胸の痛みをごまかすように拳を強く握りしめて、下唇を噛んだ。
ついに言ってしまった。
言うつもりなんてなかったのに。
ミツバを想う土方の気持ちを知った時、痛いほど自覚した土方への想い。
それでも、言わずにいようと決めていた。
伝えたところで、傷つくだけだとわかっていたから。
なのに、そんな決意をよそに気持ちは膨らむばかりで。
悲しかった。悔しかった。
辛くて、空しかった。
切なさと苦しさで胸が千切れそうだった。
土方が見ていたのは自分ではない。
その事実が妙を傷つけた。
(知らなければ良かった。気付かなければ、こんな気持ちにならずに済んだ)
爪が食い込むほどきつく、拳を握る。
(…どうして死んでしまったの)
ミツバさん、と心の中で呼びかける。
もしもミツバが生きていたなら。
(そうしたら、きっと何もかも上手くいったんだわ。土方さんはミツバさんと一緒になって、私は、彼を諦められた)
(好きになんか、ならずに済んだのに)
幸せで仲睦まじい二人を見ていれば、こんなことにはならなかった。
ミツバが生きてくれてさえいれば、きっと誰もが幸せになれた。
土方も、ミツバも、沖田も、そして、自分も。
(どうして、居なくなってしまったの。あの人たちに必要なのは私じゃない。貴女なのよ、ミツバさん…!)
自分では、彼女の代わりになることも出来ない。
空しさが増して、自嘲気味に笑った。
ミツバがうらやましかった。亡くなっても尚、深く想われている彼女が。
「ほんとに、なんて嫌な女…」
ぽろりと零れたのは、小さな呟き。
故人であるミツバを悼むことも出来ない自分が腹立たしかった。
ミツバをうらやむことしか出来ない自分が、どうしようもなく情けなかった。
いっそ、何もかもをなかったことにしてしまえたら。
雨と一緒に気持ちも流れて消えてしまえばいいのに、と妙は捨て鉢な気持ちで小さく呟いた。
土方に抱いていた想いも、ミツバをうらやむ醜い気持ちも、全部全部、綺麗に流れてしまえばいい。
そうしたら、こんな惨めで辛い思いをしなくても済む。
((そうやって、自分ばかりを守っていくの?))
妙の頭に聞き慣れた声が響いた。
妙の心が、妙自身に問い掛ける。
違う、と妙は首を振った。
((あの人の気持ちなんて考えもしないで。自分の気持ちだけを押し付けて、それで満足なの?))
声が響いて、こだまする。
見えない何かを遮るように、ぎゅっと目をつぶった。
(…っ、そうだわ)
(…私は、あの人の優しさに甘えていただけ)
(自分勝手に気持ちを押し付けて、卑屈になって、あの人の大切な想いを傷つけてしまった)
「…ごめんなさい」
土方さん、と妙は震える声で名を呼んだ。
(虫がいいかもしれない。自分ばかりをかわいがって、あなたを傷つけて、)
(でも、それでも、)
(…あなたが誰を見ていても、私は、)
不意に土方の柔らかい瞳を思い出して、妙は目を開ける。
胸はもう痛まなかった。
妙、と自分を呼ぶ低い声。声音は優しく、妙の鼓膜を震わせた。
言葉少なに自分を気遣う彼の不器用な優しさが妙はたまらなく嬉しかった。
(ああ、ミツバさん)
(こんな私でも許されるなら、)
柔らかく笑っていた彼。
荷物、と言ってずいと無遠慮に差し出された手。ほんの少し触れた手は熱いくらいに温かかった。
(…土方さん)
たとえ、自分を通して違う誰かを見ていたんだとしても、彼の目の前にいたのは間違いなく自分で。
彼は呼んでくれた。
優しい瞳で、"ミツバ"じゃなく"妙"と。
(…土方さん)
嫌な女だと思われてもいい。
哀れで馬鹿な女だと笑われてもいい。
(…あなたを信じてもいいかしら?愛してもいいかしら?)
モヤモヤとしていた気持ちがはっきりと輪郭を持つ。
綺麗なばかりの気持ちじゃない。
嫉妬も羨望も卑屈な気持ちだって、何もかも入り混じったままだ。
土方を疑う気持ちも拭い切れたわけじゃない。
でも、もっと知りたいと思う。
あの人の気持ちを、想いを。
あの人がどんな風にミツバを愛し、見つめていたか。
どんなに辛くとも、この胸に灯る想いは変わらない。
ミツバを愛した彼を、自分は好きになったのだ。
ミツバと自分を秤にかけるなんて、そんなこと出来はしない。してはいけない。
土方にとって、ミツバはきっと何よりも大切な人で。それは今も変わらないのだろう。
彼からミツバを取り除くことなんて、初めから不可能だった。
ミツバは、今も土方の中で生きている。
彼女は彼の一部なのだ。
(ミツバさん、)
(私は、)
(貴女を愛したあの人が、たまらなく愛しい)
妙の目から、涙が零れ落ちる。
しとしとと降り続ける雨が、妙の涙を拭うように撫でた。
現在(いま)あなたの手が温かいのは彼女の分も生きているからなのでしょう(彼女がいて、あなたがいる)
(それがやっと、わかった気がするの)
title:灰の嘆き