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『行ってきます』『行ってらっしゃい』『ただいま』『おかえりなさい』


この辿り慣れた挨拶を身近な人間といとも容易く交わせる人々が世界にはどれだけいるのだろう。もしかしたら知らず知らずの内習慣となって、挨拶という認識すらなく、ただ勝手に口がその言葉を辿るだけな奴らも決して少なくないはずだ


当たり前に存在するものは、当たり前ではない。そんな当たり前の事を実感するのは大抵の場合当たり前の事自体が自分の中から消え失せた時。身近な習慣が消失して初めて、人はその物の尊さと大きさを知る


かくいう俺も、監察に身を置く所以当たり前に理解しているつもりだった。だから当たり前を当たり前と思わぬよう努力した。一日一日、ひとつひとつ、四季を巡る風の匂い、大地に降り注ぐ太陽の温もり、鼻先を掠める雨の匂い、耳と心と脳を動かす人と人との交わり


いつ何時、何が起こっても悔いの遺らぬ生き方を貫く。命のやり取りが日常と化する真選組において、まず真っ先に自分の根底に持っておかなければならないもの。その根底は滅多に揺るぐことはなく、死に対して一時の感傷に浸っても次第にそれは時と共に薄れゆくものだ。それの繰り返しこそが揺るぎない根底を強く強く練磨していくものだと俺は思っていた。しかし、


「お、ボス久しぶり」


気の抜けた口調で腑抜け面をひょっこりと屯所前の門から現した小汚い女は、そんな俺の根底をあっさりと覆してくれた。ちょうど巡回に出掛ける途中だった。暫く目にしていなかった、だけならば俺がこれほど呆けることもなかったのだろう


髪はボサボサ、隊服は泥と乾いた血がこびり付いてしわくちゃ、目の上や頬、袖から覗く腕には裂傷や痣をこれでもかというほど携え、それでよく街中を歩いてこられたなと呆れてしまうほどの身なりで門をくぐったそいつは、もうかれこれ潜入で下手を打ってから2週間あまり、もしかしたらもう帰ってこれないんじゃないかと誰もから半ば諦めかけられていた俺の部下だった


「…」


言葉が出ない。口を閉ざしてしまうほど部下の生還に感動を覚えたとか、この2週間よく口を割らずしかも自分の足で戻ってきたことに感涙しそうになったとか、そんなんじゃなくて


俺自身この胸中にもやもやと渦巻く感覚が何なのか、困惑してしまったということもある。ただ数種類の何かが混ざり合っていることは確かで、これらを作り出した原因がよもや眼前でへらへらと笑っている部下であるとは信じたくもなければ認めたくもないのが事実だった


「あれ?なんすかボス。そんな怖い顔して。便秘にでもなったんすか」


人の胸中をごちゃ混ぜにしておいて、いけしゃあしゃあと軽口を叩く彼女。これにイラッとした俺は何も短気が理由なわけじゃないと思う


「…そんなわけないだろ。っていうか君何やってんの」


やっと出てきた声は自分でも驚くほど思いの外硬かった。この子の前だというのになんたる失態だろう。しかし、心の中でひとり毒付く俺とは裏腹に、人の感情に対して筋金入りの鈍さを誇る彼女がそんな相手の機微になんて到底気づくはずもない。特に気にも留めないで、彼女は再びあっけらかんと口を開いた


「何って、帰ってきたんすよ」


「そんなこと見ればわかるよ。馬鹿にしてんの」


「馬鹿にしてるのはボスじゃないですか。なに、なんなの、なんでそんなに怒ってんの」


「なんでタメ口なんだよ腹立つ。俺が聞いてるのはそういうことじゃなくて…」


「ああ、はいはい!漏洩のことっすね。大丈夫っす。自分口割ってないんで。あのアレ、何されても大概のしごきはボスのお陰で慣れてるんで」


まったく人聞きの悪い。他人が聞いたら一体いつもどんな仕打ちを部下にしてるんだと軽蔑の眼差しを送られるとこじゃないか。言いたいことは山ほどあった。この能天気な馬鹿に、監察が捕まるだなんてどれだけ大事になるのかわかってんの、とか、もしかしたら君が死ぬどころか真選組全員の首を表に晒すことになるんだぞ、とか


垂れる説教は五万とあるはずだった。むしろ説教を垂れることすらできない未来も想像していたのだから。監察として籍を置く俺達は自らの口の封じ方を心得ている。目の前で女でありながら鼻くそをほじり始めた彼女でさえ、命惜しさに敵と内通するくらいならば死を選ぶだろう。一番近くで彼女を見てきたからこそわかる。その証拠が、鼻くそを深追いしすぎて『あ』という言葉と共に鼻血を垂らす女の身体に幾つも傷として刻み付けられているではないか


眉の上の深い切り傷も、頬を変色させる青痣も、視界に入れば入るほど俺の苛立ちを増す原因でしかなかった。ボロボロに傷付きながら這々の体で俺に報告を寄越す部下なんて今まで何人もいた。使命を全うした末、永遠に口を閉ざす奴らも。そんな部下達を前に少しも感情を揺るがされないほど、俺もまだ鬼じゃない。そんな事実が存在してもだ、たかが部下の一人が生還したからといってここまで思考を惑わされることは初めての経験だった


「あー…ヤバいよコレまじヤバいよ。ボスまじで怒っちゃってるよコレ。いや、ほんっと口割ってないんすよ。いやマジで。冗談とかじゃなくてリアルに」


俺の顔が強張る理由が情報の漏洩をしてしまったか否かだと信じて疑わない彼女は鼻血を垂らしながらひとり焦っている。まぁ、一般的に考えれば、彼女の心配も当然といえば当然なのかもしれない。俺達監察が重宝されるのは一般隊士よりも持つ情報の多さ所以だ。あの器のでかい局長辺りは決してこんなこと言いはしないだろうけど、実際俺達の命と脳に収納されてある情報は天秤にかける間でもないのだから


「…そんなこと、いつ誰が聞いた」


だから、僅かながら怒気さえ孕んでしまった俺の声音に顔を引きつらせる部下と、キレることなどほぼないと自負さえしている俺の眉間に皺が寄ってしまったことが、そんな事実を覆してしまおうとしていた


「何考えてんだよ一体」


「あ、あのボス…」


「人をここまで心配させておいて、何考えてんだよお前は」


「だから、情報の漏洩を…」


「んなこと敵方の動きで漏れてるか漏れてないかくらい簡単にわかるんだよ。殴られたいの、その馬鹿な頭」


「あ、そうなんすね。なんだー。心配して損し…」


「なんで連絡ひとつ寄越さなかった」


こんなことを口走ってしまうのもきっと、こいつの馬鹿さ加減故頭に血が上ってしまったからだ。そう言い訳する俺に気付くはずもなく、怒られている事実に気まずそうに彼女は頭をかいていた


「だって、携帯取り上げられてたし…」


「脱出できたなら連絡する手段なんていくつもあったはずだろ」


「そこまで頭回りませんでした…」


「一体今年でいくつになるんだよ。何年ここで働いてるんだよ。君みたいな子を部下に持つ俺の気持ちにもなれよ」


「気持ち、っすか…」


この2週間、俺がまともな睡眠を取れていないのは一体どこのどいつのせいだ。人の気を知りもしないで、副長から先走った真似だけはするなよと念押しされて、責任と重圧の狭間で堪え切れない焦燥感を奥底に押し留めて、どうやったらあいつを助けられると頭を抱えていた矢先に


顔を合わせた第一声が『あ、ボス久しぶり』だと。ふざけるのも大概にしろ。この苛立ちの理由を俺は知っていた。安堵よりも喜びよりも、今日まで、そしてたった今も、割合の大多数を占める感情


喪失感。心の一番身近に存在するものを失ってしまった虚無感。それが纏わり付いて離れてくれなかった。そんな感情を俺に持たせ、持たせたことにも気付かず自分勝手にいなくなって自分勝手に帰ってきて、へらへら笑われてもみろ。やり場のない感情の矛先をどこへ向ければいいというんだ


依然顔色を変えない俺に彼女は頭を悩ませているようだった。鼻血を流すままに、あー、やら、うー、やら呻き声を上げて。そして何を思ったのか再び『あ』と目を見開いて、改めて双眸に俺を映したのだった


「わかりましたよボス。ボスが怒ってる理由」


「…なんだよ」


「ただいま」


にへらと顔を緩めて紡がれた言葉に、しかし意表を突かれた。たった4文字の特別でもなんでもないただの挨拶だというのに、ぽっかりと空いた心の穴にじんわりと入り込んでくる感覚


当たり前に耳にしていた声と言葉は当たり前なんかじゃなかった。頭で理解するのと、心が理解するのは別物であるように


「あれ、お帰り愛しのハニー、は?」


たくさんの小言も波のように押し寄せていた怒りも喪失感でさえ、一瞬で消してしまうほどの響きを先の言葉は持っていた。馬鹿面さげて鼻血を流す眼前の彼女の顔も同様に


「どこに愛しのハニーがいるんだよ。拷問で頭攻められすぎたんじゃない君」


「えーそんなこと言ってー、ほんとはあたしがいなくて寂しかったくせにー」


「頭燃やすよ。笑っていられるのも今のうちだからね。膨大な始末書と報告書、帰ってきたからには徹夜で仕上げてもらうから」


「マジでか!あ、あれー?おかしいなー。なんだか体のあちこちが痛くて意識も朦朧とするぞー。ボスにお姫様抱っこで連れてってもらわなきゃダメだなコレ。布団で添い寝して手厚く看病してもらわなきゃダメだなコレ」


戯言をぬかしてよろめきさえする彼女だが、問答無用で俺は背を向けた。途端上がる非難の声


「ちょ、なんで反対向くんすか!あたし怪我人なんすよ!」


「そんな元気な怪我人、怪我人とはいわないよ。それに怪我してるのは頭だけだろ。生まれた時からずっと」


「ひっど!ボスの鬼畜!外道!うんこ!」


「なんとでも言いな。それだけ喋れりゃ自分で病院行けるでしょ。上には俺が報告しといてあげるから、早く行ってきな」


背後から浴びせられる罵声も今日ばかりは多めにみてやろう


「ふざけんなこっち向け地味ィィィ!!」


子供みたく地団駄踏まれたとて、今振り向くわけにはいかない。だって、


「あの、タクシー代ください!あと病院代労災下りますかねこれ」


「….もう暫く病院から帰ってくんな」


たった一言『ただいま』を聞いただけで、あろうことか俺の涙腺がほんの少しだけでも緩んでしまったなんて。しかも得てして自分でも判明しない妙な感情が胸を燻っているだなんて。この馬鹿でとろくさい女の子に知られるわけにはいかないんだから


当たり前の日常よ、おかえり
(ボス、おかえりはー?)
(はいはいおかえりおかえり)
(いつもみたいにギュってしてくださいよ!)
(先生、この子頭だいぶやられてるんでMRIもお願いします)



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