何度目かの夏。何度目の夏なのか、もう数えられない。私はどのくらいここにいるのかもう数えていない。そりゃあ最初は数えた。一日、二日、と数えていき、その数字が増えていく度に。十の位に。百の位に。増えていく度に私の心臓は悲鳴をあげた。ひび入っていく心を壊さないために数えるのをやめた。
今まで何日経ったのか数えるのをやめた。考えることすらやめた。 私の心と身体はそうして歪になったまま、少しずつ耐久度を減らし、壊れていく。
壊れていく。風化した建造物のように。 波にすり減らされ崩れる砂の城のように。
わたしは。
「―――――ぁ」
ただ、何度目かの夏も熱いなって思っていた。胃の調子が悪いのは昨日木舌にビールのかかったかき氷を喰わされたからだと。ぐるぐると変な感じがして変だなと思っていたんだが、喉に引っかかった痰をだすために咳をした時。 食道から逆流してきた。
口の中に納まりきらなく吐き出してしまった液体は特務室にいるあいつの様な赤さだった。十秒ほど、その液体はなんだったかと手の平に乗り滴るそれをみて考えていた。この赤いのはどこからでてきたか。口からだ。このアカは。このカラダに。あった。
「・・・なんだ」
私は納得した。何に納得したかわからないし、その考えはどう考えてもおかしくへんてこだ。それでも今現在の私の心はそれを平然と自然と受け入れる。納得する。それが正解なのだと。喉奥から感じる痙攣。また逆流し口からアカイのが溢れる。テレビで見た、外国のマーライオンとかいう口から水を出す噴水のようだ。アカイがな。
「お前・・・!」 「・・・」
床を汚してしまった。服を汚してしまった。佐疫に怒られる。なんて思っていれば佐疫と違う怒号が飛んできた。ゆったりと視線を向ければ険しい顔をしている紫の目の獄卒。谷裂だ。険しい顔でズンズンとこちらにやってきた谷裂はそこで止まった。
「・・・」 「・・・」 「貴様・・・」 「・・・ああ、すまないな。床を汚した」 「そういうことを言っているのではない」 「?」
ならどういうことだ、と首を傾げれば舌打ちされた。胸ポケットにしまわれた赤いハンカチで口元をぬぐわれる。谷裂も田噛と同様あまり話をしない獄卒で、長くここにいるが会う事はあっても話をすることは記憶に少ない。 だから、ハンカチでこう拭われるなんて事をされて私は少しばかし吃驚している。
「・・・ハンカチが汚れてしまう」 「黙っていろ」 「・・・」
さすがにハンカチだけではぬぐえなかったらしいがそれでも口元の気持ち悪さはとれた。それで床を拭けばよかったじゃないのか?と言ってみれば強く睨まれた。何かおかしなことを言ったのか私は。
「貴様のその体はだいぶもろくなっているようだ。今後は気を付けろ。お前はすでに通常の人より長く生きている。ゆえに病気で伏していた時、どのような身体だったかを忘れているのだからな」 「・・・、そ、うだな。そうだな。思い出そうとすればもう曖昧にしか思い出せないな。・・・そうか、そうか」
もうそんなに長くここにいるのか。 ”自由”は私の事を忘れていないだろうか。ああ、忘れていたとしてももう一度私が会いに行けばいい。ああ。”自由”に会いたい。
「谷裂」 「なんだ」 「私が、最初の頃ここに連れてこられて食堂でお前が私に言ったことは覚えているか?」 「・・・”どうせ生を全うするまで館を出れず、輪廻するにしたって忘れる。なのに、それを知ってどうするんだ””事実を言って何が悪い。怪異などに心奪われその甘さから罪を犯した愚かで馬鹿な人間がお前だ。無駄な知識を蓄えるよりも己がどれだけ罪深いことをしたか懺悔をしていろ”――か」
あの頃はそれでも、と強く思っていた。確かにその通りだ。けれどそれでも、私は”自由”と共にいようと。いたいと。だからそう言った谷裂へと挑戦状を叩きつけるように、あるいは私の願いを口にしたのだ。
”私は”自由”を諦めない。肋角がいくら私を束縛しようとも、長い生に心が壊れたのだとしても、絶対に私はすべての罪を清算し鏡に会いに行く。絶対に”――と。
今も”自由”を諦めてはいない。会いたいと思っている。罪を償い、会いに行こうと思っている。 その時の記憶はまだきちんとあって、あの時はなんて若かったんだろうと思い浮かべてしまった私はなんだか老人のようだった。
「だからなんだ。今も変わらんぞ」
フンと鼻を鳴らし威圧的にこちらを視る谷裂。何か誤解を生んでいるような気がして違うんだ、と返す。
「違うんだ。訂正をしようと思ってな」 「訂正?なんのだ?」 「私は――・・・あの時、”絶対に”と言ったが、無理の様だ」 「・・・情けないな」 「ホントだな」
私は弱かった。こんなにも弱かった。今でもこんなに”自由”に会いたいと思っているのに。思っているのにそれはもう”思っているだけ”なのだ。会いたい、という願望だけがこの胸に残っている。その先が、ないんだ。想像できないんだ。”自由”に会う、という事が想像できないでいる。その先を考えれば真っ赤なんだ。アカイ。そう、赤い。 この口から溢れた血のように。残りの生の短さを知らせる血液のように。私の名を縛りここに置こうとする”アイツ”のように。
「・・・貴様は諦めるのか。他人の魂をたべた罪を償い終えるまで後少しだというのに貴様はここで歩むのを止めるのか?」
そう真剣な眼差しで吐く谷裂がなんだかおもしろくて、口元が緩む。 だって、そうじゃないか。あいつと同じ鬼という存在の、あいつを慕っているはずの谷裂が、あいつの味方でなければならない谷裂が。そんな言葉を吐くなんて。喝をいれようとするなんて。変じゃないか。
口が緩んで、目じりも動いた。口の中から小さく息が漏れた。なんだか少し浮いた気持ちになってけれど空しい気持ちになる。胸がジクリと痛んだ。
「・・・、お前、笑って、」 「・・・もう、歩けないんだ」
谷裂から零れた言葉。 ああ、私は今笑っているのか。けれど、きっと笑う、というのには程遠い笑顔で感情なんだろう。笑う事がこんなにも辛いんだからな。もう、つらい。”自由”に会おうともがけばもがくほどただ、会えない現実があるだけ。赤い色がそこにあるだけ。私の力ではどうにもできない現実なんだ。
もう、どうにもできないんだ。
「もう、無理だ。無理なんだ。独りじゃもう無理なんだ。耐えられない。独りが寂しい。虚しい。怖いんだ。不安なんだ。もう会えない。会えない現実がある。どうにもならないんだ。私ではどうにもならない。お前にだってどうにも、ならないだろう?」
上司に逆らえない。上司を慕っている。命令にない。お前たちは、私によくしてくれるがそれだけだ。同情で優しくしているだけだ。味方ではないんだ。知っている。ここに私の味方はいない。助けてくれる者はいない。命を賭けてどうにかしてくれる奴はいない。そんなの知っていた。それでも優しくしてくれるから。だからだからだから。ああ。
私がおかしい。違う。最初から、ここに来た時からもう、おかしい。 違う。おかしいのは。おかしいのは。おかしいのは?
「・・・」
無言。それは肯定でしかない。 紫の視線が逸れる。それも肯定だ。
おかしいもんだ。笑いがこみあげる。
「ふふっ」 「オイ・・・」 「結局は何も変わらないな。病院からここに場所が変わっただけだ。何も、変わらない。ああ、いいや。それでいい。もう、それでいいよ。そうすればお前たちもいつもの通りの日常に戻れるな。私も、独りでいなくて済む。ああ、なんだ。それでいいじゃないか」 「オイ・・・!」
それで万々歳じゃないか。
ふらりと力の入らない足で歩く。谷裂が肩を掴んで制止してきた。何か、切羽詰まったような顔をしててそれがおかしくてまた息を漏らす。同情はもういい。みんなが楽になる終わり方をみつけたんだ。みんなが幸せになれる終わり方を。
谷裂の手を払う。 私は、向かう。ずっと、ずっとずっとずっと待ってたあいつの所に。最初から最後まであいつの考えてる通りに事が動いてた。それにつかまったらもう現実はあいつの思う先。それに気づかなくて罰だ罪だとここに居座ったのが最後だったんだ。けどあの時はそれしか選択肢がなかったんだ。なら、これは必然なんだ。回避できないことだったんだ。そうだろ?そうだろ?なあそうなんだろ?肋角。
こうすれば、私も、シアワセになれるんだろう? もう、ヒトリじゃなくなるんだろう?
「肋角」
特務室をノック無しに開ける。 中で、作業をしていた肋角が、赤い目をこちらに向けた。穏やかな目で、まるで、いややはり私がこうなるのは必然だったんだろう。だって、そうでなければこいつは肋角はこうして、立ち上がり目の前まで来てこんな優しそうな声で名前を呼んだりなどしない。
「水咽・・・このときを待っていた」 「・・・お前は、私をヒトリにはしない?」 「ああ」 「お前は私を見捨てない?」 「ああ」 「お前は私を閉じ込めない?」 「ああ」 「お前は、私を」 「名前で呼んでくれ」 「・・・・・・肋角は、私を――――」
アイシテクレマスカ?
頷いた肋角は、愛しむ様に私の首を掴みグッと力を込めた。 その私だけを見る赤い瞳は何かがオカシク光っていて、その目に反射する私の黒いまなざしも同じように暗く輝いていた。
「深月、愛している―――」
首が絞められ、酸素が、血が廻らない。次第に骨も肉も軋んで大きな音が耳にはいる。 妙に心地よく思えてしまい私は慣れない笑みを浮かべて――――眠った。
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