水咽がこの館に来てからいくつの年月が経ったか。

初期の頃よりも知識が増え、表情も増えた水咽。それでも夜中の徘徊は辞める事はなかった。夜、寝静まった中館内を徘徊し、そして、広間の階段前にある姿見鏡に向かい合う。肋角さんにより呪を受けた水咽。そこだけは彼女の姿が映る。だが呪があり鏡を通して触れることはできない。それでも水咽はじっとずっとその鏡を見続け時には肌を寄せて”何か”と触れ合うようにしている。

暗闇で映るその時の彼女はひどく儚げで泣きそうで、見かける度に胸が痛くなる。人の心は随分昔にとうになくなったというのに彼女の心が、俺のなくしたはずの心を撫でるのだ。



残暑はとうになくなり、冷たい風が枯葉と共に吹く秋。庭の花たちも色をなくし、彼岸花も散った。そんな寂しさを感じる庭を一瞥して館の中にはいる。
中は風を通さない分、暖かい。冷えた手先の僅かな痺れを感じつつ暖かい茶を貰おうと食堂へ。

昼が過ぎ、キリカが帰る夕方よりも少し前の食堂はとても静かだ。そして誰もいない―――と思ったのだが、列になって並んでいるテーブルとイス。その隅っこにブランケットに包まっている女性の、水咽の姿があった。

頭をテーブルに預けているところをみると眠っているようで起こさないように音を消して近づけば小さな寝息を吐き出し眠っていた。長髪の黒い髪がテーブルの上で散らばっている。それをそっとまとめてやる。髪で隠れていた寝顔が見えて、目の下には隈が浮かんでいる。

水咽は最初の頃は精神的な弱さによってなかなか寝ることができずよく隈をうかべていた。今は、年月がたったおかげが本人も落ち着いていて眠れなくなるほど不安定になるということはなかったのだが。

自然と手が目じりを撫でていた。
冷たい感触に水咽が小さく声をもらして、目をうっすらと開いた。

覚めたばかりの黒い目が、俺をみて、静かに、柔和な色を含んだ。俺と同じように感情表現の薄い水咽の口が少しだけ弧を描く。口を開き”何か”を呼ぼうとした。そして、そこで夢現の瞳は現実を捉える。

表情は、曇る。寂しそうに一度だけ俺から視線をそらしもう一度見た。

「・・・私は寝てたのか」
「・・・ああ」

身体を起こした水咽は俺をまたみて視線を落とす。彼女の手が俺の手を持った。
冷えで痺れていた手に温もりが伝わる。

「やけに冷たいな」
「最近急に寒くなってきたからな。暖かいものを貰おうとここに来たのだが・・・キリカはいないのか?」
「明日のご飯の材料を買いに行ってるよ。茶なら私がいれようか?」
「ああ、頼む」

水咽の隣席に腰を下ろす。逆に水咽は腰を起こしてブランケットを椅子の背にのせて厨房の方へと行く。

目を覚ました時、水咽が誰かの名を呼ぼうとしていた。俺の姿を見て、呼ぼうとした存在は水咽の”自由”であり、心の底から依存し安心させてくれる鏡だろう。
きっとどれだけ月日が経とうとも水咽は”自由”である怪異の存在を忘れはしないのだろう。出会うことができず触れられず話すこともできないのだとしても。それに苦しむこととなっても、”自由”を忘れられず、恋焦がれ、そして――――・・・。

・・・その先は。


・・・。



「・・・」
「斬島、どうした?」

物思いにふけっている間にいつの間にか戻ってきていた水咽。俺の目の前に差し出された茶からは湯気がたっている。水咽の手にも茶の入ったコップがある。細い指。手。俺は手を伸ばしてその小さな手に触れた。

「・・・この先、お前はどうなるんだろうな」

生きた身で魂を食し、長い生を得た。
人でありながら、怪異と共にあろうとした。
そして、肋角さんによりこの館に縛られた。

深くはわからないが、肋角さんは水咽に対して執着をみせている。

水咽の罪をただ償うだけであるならばここで償わなくても良いというのに。ここに置き、名で縛り、身をも縛る。その所業は、そうさせる理由はおそらくまた罪とは別にある。

この先。罪を償った先。

本当に。


本当に、水咽に”自由”が戻るのだろうか。

「この先、どうなっても、俺達はおそらく何も、できないのだろう」
「・・・そうかもな」
「お前がこうなったのは俺の責であるというのに、俺はただ、こうして見届ける事しかできない」
「・・・」

獄卒としてらしくない。

水咽を考えると胸が痛い。水咽がこうなってしまった状況を作ったのは己だ。過去はもう変えられない。罪悪感、といえばいいのか。まるで心臓を刃で突き刺されたかのように痛い。歯を食いしばり唇を噛みしめたくなる。まるで人のようだ。人に戻ったようだ。けれど、人とはもう違う。人ではないのに、人のような感情。器にあわない感情が更に痛みを生み出す。毒の。ように。

いっそ、責めてくれないか。俺を拒絶してはくれないだろうか。
いいや。

そうせずに、拒絶せずに、けれども俺の姿に”自由”を視る水咽存在がこの原因をつくった俺への罰なんだろう。

水咽の手が握り返す。

「お前は仕事をしただけで何も悪くないさ。見つかってしまった私が一番悪い。ただ・・・・・・・・・・そうだな・・・」

少しだけ。そう呟いた水咽の手が、指が俺の指の合間に入り込む。
ぐっと力が籠り水咽の重心が傾く。俺の肩に彼女の額が乗った。耳元で、水咽の震える声。

「斬島、すまない。酷な事をする」

震えている。冷たさに震えている。寂しさに怯えている。なくなった温もりを求めている。

俺では”自由”になれない。けれど”自由”はここにはない。水咽はここから”出れない”。いつまで。もしかしたら永遠に。



更に小さい声で水咽は「かがみ、」と言葉を吐き出す。

俺は”じゆう”にはなれない。
だが、これが罰なら。受け入れるべきなのだ。


「・・・もう少しだけ、このままで」
「ああ・・・」


せめて。
水咽のこれからの先。

少しでも救済があればいい。
どうか。

慈悲を。