「水咽、おはよう」 「ああ、おはよう」
食堂で出会う佐疫とあいさつを交わす。 他にぞろぞろとやってくる獄卒達にも挨拶を交わして席に着く。味噌汁の匂いと魚のやける匂いがして、なんとなく朝ごはんの内容がわかった私は急須にお湯をいれた。 湯飲みに茶をいれた。
「平腹が来ていないが、今日は朝から任務でなかったか?」
私の頭にはいっている彼らの予定。平腹は今日の朝から田噛と任務で9時前には出なければならないはずなのだが、8時現段階で食堂にいない。このままでは朝ごはんを食べれないのではないか。
「田噛もいないな」 「ふふ、水咽はなんだか母親みたいだね」 「そのうち、おれも尻叩かれちゃうかも」
おかしそうに笑う佐疫。年齢的にはお前らの母親役には到底なれやしないんだけどな。隣にいた木舌が会話に入ってくる。尻を叩かれるってどういうことだ。私は、優しいからそんなことはしない。
「私より長く生きてるんだから私に叩かれるようなことはするなよ」
この館に出られなくなってからどのくらい経ったのか。 私は、数えるのをやめた。
そして、少しだけ、世界が広くなった。
「佐疫、庭に行きたい」 「じゃあ僕もいくよ」
朝ごはんが終わった後はまばらに彼らは任務にいく。それらを見届けた後はキリカやあやこがいるので館内の掃除はしなくてもいい。忙しければ何か言ってくるだろう。
そうなると暇になる。だから、庭にいく許可をもらう。 前はあいつに許可をとらなきゃならなくて特務室に足を運ぶたびに死人のように血の気が引いていたが佐疫に許可の一任をまかされてからは平気になった。
あいつは、肋角は相変わらず怖い。 だが、時折会う程度で、会話を一言二言かわすぐらいで収まっている。それが奇妙だが。
ああ。考えすぎるのはよくない。
「もう春だな」 「そうだね。蝶もたくさん飛んでる」 「桜もだいぶ咲いてきたしな」 「うん。もう少ししたらみんなで花見をしようね」 「ああ」
水を汲んだ如雨露をもって庭を歩く。春に咲く花が色とりどりに咲いていて、桜の木もある。多種多様の木花が植えられている庭は佐疫とピアノの先生でありここの副長でもある災藤によって彩られた。
「相変わらず庭は綺麗だな」 「水咽が毎日水をあげてるからだよ」 「あげる前からこうだった」 「けど前は毎日あげられなかったもの。だから日の当たらない所なんかはやっぱり枯れてた」
今はないけどね。そう佐疫は笑った。
「災藤さんも喜んでた」 「そうか」
水をこぼす。暖かい気候。このまま座れば眠ってしまえそうだ。
「私も災藤に習ってみようかな」 「ピアノ?」 「ああ。いや、佐疫に習おうかな」 「え!」 「災藤といるとなんだかムズムズするんだ」 「どうして?」 「優雅すぎて」 「あぁ・・・なんとなくわかるよ」
災藤は優雅だ。それで容姿も綺麗なものだから近くにいると自分が場違いな気がしてならない。その中で、習うならば身近にいる佐疫から習った方がまだ気が落ち着く。
「けど俺もまだ習い途中だしなあ」 「基本なら教えられるだろう?」
まあ、うん。そう恥ずかしそうに返事をかえしてくる。 水が空になった。水分をもらった花は水滴をポタリとこぼしながら日の光を浴びる。蝶が花にとまって蜜を吸う。
あの頃は鏡に会いたくて会いたくて仕方なかった。最初はペット認識していたはずなのにいつの間にか必要な存在になっていて。鏡と一緒にいられるならなんでもよかった。それが依存というのか恋愛と呼ぶのかはわからないが、それでも確かに必要としていたし鏡も私を必要としてくれた。それだけで、すべてが穏やかだった。
だから鏡が目の前で破壊され、この館に軟禁生活をすることになり、肋角により恐怖を植え付けられた時――全部、なくなってしまえばいいのに、と思った。罪を償う。償った後は鏡に会えばいい。そう肋角の言葉に甘えた。 その時が長い永い先の未来だと理解せずに。
ここで暮らし始め、病院の時と変わらずの状態にだんだんと気がおかしくなっていく気がした。いやおかしかったのかもしれない。狭い世界で生きてきたから何もかもがどうすればいいのかわからない。鏡を必要とする感情も新しかったのだから。どうすればいいのか、わからず容量を超えた。
それでもやはり時が過ぎれば少しずつ容量は大きくなっていく。 狭い世界で生きてきた私が、知らない言葉、物を知っていく度に、知識や思慮が広がる度に目の前の暗く狭い視界も広がっていった。
変な感覚。 けれど、不思議と悪い気がしなかったのだ。
鏡に会う。 それを果たすために生きている今。
「それにピアノ弾けるようになれば鏡に自慢ができるしな」
確か鏡の世界にもピアノがあった気がする。 そう伝えれば、そうだねと佐疫は笑う。いつもの笑顔よりもなんだか元気のない笑みだ。こういう相手の感情の変化を認識するのが疎い所は成長しないな。
佐疫が動きを止めて上を見た。
笑顔だった顔は途端に曇っていて、何か良くない物でもあるのかと同じ方向に顔を向けようとすれば水咽と名を呼ばれ止められる。なんだ?と佐疫の顔を見ればさっきと変わらぬ笑みをみせられた。
「そろそろ中に入ろうか」 「・・・ああ」
背をやんわりと押され中へと誘われる。 さっきは何を見ていたのだろうか。
「佐疫、何かあったのか?」 「なにが?」 「先程、上を見て顔を曇らせていたじゃないか」 「・・・なんでもないよ。それより、さっそくピアノ教えようか?」 「いいのか?」 「うん」
行こう。そう前を歩き出した佐疫の後を追う。
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