暗い暗い沼の底。 その泥は美味いか? そんなわけはない。その泥は人間の負の感情すべてが入り混じった酷く澱み不味い泥だ。それを啜った者は、飲んでしまった者はもうまともになんて生きられない。身の内が焼けるほどの、すべてが焼ききれるほどの憎悪嫉妬愛苦痛悲哀諦めによって喰われる。穴だらけにされる。壊れる。 それでもそいつらは集合体として飲み込み、他を喰らい肥大化していく。幾つめの沼か。泥か。無限に沸き続ける泥沼はそれぞれが”潜る場所”を探して虚しく悲しく世を彷徨い続ける。 負の感情の集合体は、心などないが、それでも帰巣本能のように、野生本能のように、彷徨う。 安息の場を求めて。 部屋のドアを開けた先は墨汁を垂らしたように黒い。そして冷たい。部屋を覆い尽くすその”澱み”に肋角は眉間に皺を寄せた。 「随分とこれだけ肥えたものだな・・・」 中へと手を伸ばすと手先が闇に呑まれる。この先に、兆野がいる。そしておそらく兆野の母親もいる。 「――覚悟はいいか。入るぞ」 背後から聞こえる返事を聞き届け中へとその身を沈める。 どぷりと水に沈んでいく時の様な、倦怠感に見舞われ数秒。黒く広い空間に獄卒達はたどり着いた。その空間の中心に母親がいたであろうベッドと、引き裂かれ四肢と首が欠落してるぬいぐるみが散乱している。 胴体だけ放置されたぬいぐるみを手にとると、そのぬいぐるみから鈴の音が響く。 その後すぐに幼いキャーと楽しそうに笑う声が空間に響き渡った。 黄色い帽子に、黄色いバッグ。それとチューリップの名札がついた青い幼稚園服。キャアキャアと楽しそうに笑いながら闇の奥から子供が走ってきた。 癖っ毛のある髪の毛がふさふさと上下に揺れてる。 目の前に現れた幼児。 それを見た獄卒達の中で佐疫が「兆野・・・?」と今は姿のない彼の名を呼んだ。 「いや・・・記憶の残滓だ」 楽しそうにクルリと身体を回して走ってきた背後へと向くと「おかあさーん」と呼んで、消えた。 「このぬいぐるみに、兆野の記憶があるようだ」 兆野の記憶が器から抜け出ている。 そうなると、器は今空っぽの可能性が高い。 「・・・この暗闇の中に、このぬいぐるみの一部があるはずだ。ペアを組んでそれを探すぞ」 「ぬいぐるみの一部・・・。兆野はいったいどうなってしまってるんでしょう」 胴体を肋角から手渡された佐疫は外套の中にそれをしまう。 「兆野の器にあるはずの記憶がぬいぐるみに移されている。つまりは兆野の器は今からっぽだ。イドは己等が治まる場所を欲しがっている。今はまだイドに取り込まれただけの状態だが、急がねば兆野はイドにその身を奪われてしまう」 この暗い空間自体がイドである。 兆野を含め獄卒達は今イドの体内にいるようなもの。そしてイドは兆野の記憶を千切り棄てその身体に納まろうとしている。だが、今ならばまだ間に合う。急ぎ空っぽの兆野を、或いは記憶をすべて集め元の状態に戻さなければならない。 「気を付けろよ。お前達もイドの内部にいるということを忘れるな。隙さえ見せればイドはすぐにでもその器を手に入れようと攻撃をしかけてくるだろう」 「はい」 「では、行け」 「はい!!」 佐疫は親友である斬島と共に。 田噛は相棒である平腹と共に。 そして木舌は谷裂と共に。 肋角は、一人で。 それぞれがどこに続いているかもわからない暗く冷たい黒の中を進んでいった。 |