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その日の放課後。
あたしは体育館に通じる渡り廊下を重い足取りで歩いていた。
目指すは男子バレー部だ。
正直気が重い。
でもこれはふがいないあたしへの罰なのだ。
せっかくレギュラーを取れたのに、今日はその期待を裏切るような練習ぶりだったから。
屋外での練習で、ことごとくボールを落とすあたしに先輩には頭を冷やしてこい、と言った。
マネージャーからは、気分転換にとお使いを言い渡された。
その気づかいはとてもありがたい。
ありがたいけど。
今のあたしにとってこれは拷問でしょう?
こんな用事、オニガワラに気づかれないうちに済ませなきゃ……
あたしは嫌々な感じで最後の境界線を越える。
体育館は騒然としていた。
バスケや卓球の球の響き。部員たちの掛け声。体操部が奏でる音楽。
それでもスナップを利かせた音に反応してしまうのは、自分もそのはしくれだからかもしれない。
喧騒の中、バレー部の男子たちはレシーブの練習をしていた。
彼らが戦う相手はこの部で最恐と言われるアタッカー。ネットの向こう側で背筋を伸ばし腕を振る姿は美しい。
一瞬だけど、あたしは見とれてしまった。
先輩が打ったスパイクは重い音を立てながら、地に雪崩れていく。
ボールを拾えない部員たちに激が飛ぶ。
「てめえら、この程度の攻撃も返せねえのか? しっかりしろっ」
ぱっと見た感じ、いつもの練習風景と何ら変わりがない。
後輩の指導に夢中な先輩はあたしの存在に気づくこともない。
あたしはちょっとだけ安心すると、自分に一番近い距離にいるバレー部員に近づいた。
軽く挨拶を交わした所で、使いに渡された救急箱を渡す。
「ありがとう。助かったよ」
そう言って日下先輩は優しい微笑みを見せてくれるけど。
ごめんなさい。感謝の気持ちを今は素直に受け取れないかも。
用を済ませたあたしは返事もそこそこにして踵をかえす。
オニガワラが気づかないうちにさっさと退散――って思ったのに。
ふいに背筋がぞくりとする。
何だか嫌な感じ。
あたしは恐る恐る振り返る。
まさか。まさかとは思うけど。
背中に熱いものが刺さっている気がするのは――気のせいじゃなかったっ。
オニガワラがこっちに近づいているではないか!
「宇佐美」
「ぎゃあっ!」
先輩は普通に声を掛けてくれたというのに、あたしは思わず悲鳴をあげてしまう。
心臓が今にも飛び出しそうな勢いだ。
「な、なんの御用でしょうかぁ?」
そう、冷静を装って言ってみたつもりだけど。
心はどきどき。声は裏返ってるわ身体は震えるわ。空っぽになった腕は何故かファイティングポーズ。
あたしの中の対オニガワラ防衛装置が目下活動中。
先輩はというと案の定というか、あたしの態度に口元がひきつっている。
それでも先輩、おまえに話がある、と話を切り出してきたから大変だ。
あたしは必死になってかわそうと頭を巡らす。
「その。あたしはお使いで来ただけで……部活中に勝手に抜け出すのは――どうも」
「ああ、女子の部長にも話をつけてあるから」
そう呑気にいうのはあたしたちの様子をうかがっていた日下先輩。
げっ。何という手回しのよさ。捕獲する気満々じゃん。
つうか、このお使い自体が罠?
あたしの頭がぐるぐる回る。
その間にも先輩に腕を掴まれたものだから、あたしの警戒ボルテージが一気に上がって。
「ぎゃやああああああああっ!」
波動砲がまたひとつ、体育館の天井を突き抜ける。
あたしはひるんだ先輩の手を引きちぎると、一歩二歩と後退した。
恐怖と震え、完全な拒絶反応。
日下先輩やまわりの部員たちはと言えば何が起きたんだといわんばかりの唖然ぶり。
さすがのオニガワラも何かがぶつんとキレたらしい。
「宇佐美ぃ……」
ひいいっ!
「てめぇ、今朝からいい度胸してんじゃねえか!」
大きなコンパスを使ってあたしを追いつめる。
目の前の歪んだ笑い、近づく大きな壁。あたしは首を横に振った。
「ち、違うんです。これは……そのっ」
一生懸命言葉をとりつくろってみたものの、もとからある本能がそれを許さない。逃げろと頭のなかで警告を鳴らしている。
決定的だったのは先輩が再び手を伸ばした時だ。
あたしは膝を曲げ、体制を低くした。
先輩の右脇をすりぬけ、一歩を踏み出す。勢いに乗って前へ跳ねると、高い位置で結んだテールが宙に浮く。
もちろん、全てが無意識の行動だ。
もう、何が何だか分からないっ。
「いやあああああっ!」
あたしは自分をコントロールできないまま体育館を突っ走っていた。
目指すは対角線上にある倉庫。
あたしは猛スピードでそこまでたどり着くと、銀の取っ手を右に引いた。
空いた隙間に身体を滑り込ませると、扉をびっちりと閉める。内側からカギをかけて防御する。
って、何をやってんのよあたしってば!
自分の行動にこっそりツッコミをいれつつ、あたしは頭を抱える。
そうこうしているうちに、扉がけたたましく鳴り響く。
ドアをノックするのはもちろんオニガワラ。
「宇佐美、ここを開けろ!」
「嫌ですっ」
あたしはありったけの声で拒絶した。
こんな状態で顔を合わせるなんて絶対嫌っ。
「あたしのことなんか気にしないで……先輩は練習戻って下さい」
「気にしないって……この状態でそんなことできるわけねえだろっ!」
「できなくてもそうしてくださいっ」
「んな無茶な」
先輩はひとつ舌打ちした。
ため息をつくような息づかいが壁越しに伝わる。
「宇佐美」
少しだけ落ち着いた先輩の声に、あたしは反応する。
「おまえが俺から逃げるのは昨日のことが原因なのか?」
扉越しの質問にあたしは声を詰まらせた。
「そうなんだな?」
「……」
「確かに、驚かせたかもしれない。でも、あれが俺の本心なんだ。俺は――」
「ダメっ!」
あたしはその先の言葉を遮った。
ダメだ。その先を、人目のあるこの場所で言ってしまったら――辛い思いをするのは先輩じゃないか。
先輩が白い目で見られるのはあたしの方が耐えられない。
先輩の秘密、あたしが死守しなくてどうするっての!
あたしは声を張り上げた。
「あたし、誰にも言わないしっ。聞かなかったことにしますから」
「え」
「だからそれ以上言わないで!」
「……それ、本気で言ってるのか?」
「本当ですっ。だからあたしに関わらないで――これ以上近づかないでっ」
それが、あたしが先輩にできる精一杯だった。
騒がしかったまわりの音が急になくなる。
手のひらを返したような静けさがあたしを取り囲む。
今まであったはずのオニガワラの気配は、もうどこにもなくて――
もしかしたら、愛想尽かされちゃった?
あたしは扉に背中を合わせたまま膝を折った。
求めていた平穏がようやく訪れる。
鬼ごっこからようやく解放されて、ほっとすべきなのに。 どうしてだろう? それでもあたしの頭の中は、先輩のことでいっぱいだ。
ぐるぐる廻るのは先輩と一緒にいた時間。
あの優しさを足蹴にしたかと思うと頭がガンガンする。
くしゃっとした笑顔がもう見られないと思うと、胸が苦しくてどうしようもない。
そのうち、喉が渇いて痛くなってしまった。
この痛みを打ち消す方法はとても簡単なのかもしれない。
でも――
泣いてどうする。
泣いた所でどうにかなるわけじゃない。
なにも変わらない。何も始まらないのに。
「……っく」
あたしは落ちそうな感情をこらえるのに必死だった。
――どのくらいの時間そうしていただろう。
喉の痛みが少し和らいだころ、扉の向こう側が急に騒がしくなった。
やめろ、危ない、の声。どん、という盛大な音。
同時にあたしの背中に衝撃が走る。
なっ、何っ?
涙もそこそこに何事かとあたしは思ったけど――
振り返ったら倉庫の扉が手前に歪んでいることに気がついた。
ぎゃっ、何なのこれはっ!
本能の赴くまま、あたしはその場から離れる。
音は数回続いた。
そして分厚いはずの板はひしゃげて、最終的には取っ手についた鍵をも落とされる。
扉があっさりと開かれた。
「宇佐美ぃ!」
目の前に現れたのはオニどころかナマハゲばりの男の姿。その肩にはバレーのネットを引っ掛ける鉄の支柱が一本。
なんと先端が潰れていらっしゃる!
何ですか。この農民一揆ばりの攻撃はっ。
あたしが口をわなわなとさせていると、役目を終えた鉄柱はあさっての方向へ飛ばされた。
鈍い金属音。揺れる床。それ以上に驚いたのはオニガワラの変貌ぶりだ。
「てめぇ、『聞かなかったことにする』って。『近づくな』ってどういうことだ!」
ドスの効いた声はどうみてもカタギの人間には見えない。
追いつめられたあたしは身体をびくりと震わせた。
「答えろ! 俺のこと、そんなに嫌いなのか?」
直球の質問にあたしは首を横に振る。
そんなことない。むしろその逆。
だから困っているんじゃないか。
瞳に張られた涙がほろりとこぼれていく。
感情もつられてしまう。
ここまできて、あたしは乾ききってしまった唇を少しだけ開いた。
「あたし……先輩のこと嫌いじゃないです」
「じゃあ、なんで逃げるんだよ」
「あたしだって――逃げたくないっ。でも……」
「でも?」
問い返した先輩の声に私は言葉を止めた。
強面の顔を一度見上げたあとで、再びかぶりをふる。
「やっぱりいい……」
「ああっ、うざってえ! 言いたいことあるならハッキリ言え!」
先輩はあたしに向かって言葉を吐き捨てた。
嗚呼、どこまでまっすぐな人だろう。
その素直さが愛しくて、羨ましくて、憎らしい。
なんでこの人を好きになっちゃんたんだろう?
なんでこんな苦しい思いをしなきゃならないんだろう。
こんなにも一方的に責められて。
「どうして……」
あたしの半べそ顔が更に潰れる。
心のうちに溜まっていた堰がついに決壊した。
「何でそんなこと言うの?」
「宇佐美?」
「黙っててあげるって言ったのに。あたしのことなんか放っとけばいいじゃないっ!」
「何ぃ!」
「だって! 先輩は日下先輩のことが好きなんでしょう?」
「――は?」
「あたしはっ――あたしは、先輩の気持ち、理解しようとしたのに……そしたら頭の中ぐちゃぐちゃになって何も考えられなくなって。どんな顔していいのか分からなくて」
「おまえ、何言ってんだ?」
「何って。昨日、日下先輩に告ってたじゃない!」
勢いあまってとどめを刺してしまったあたし。
一瞬しまったって思ったけど、でも言っちゃったものは仕方ない。
でもどうよ?
先輩ときたらぽかんと口をあけて、瞬きを何度もして。おまえバカか? なんて言ってのけやがった。
あたしの声が更に跳ね上がる。
「なっ……バカとはなによぉっ!」
「つうか、俺が野郎とくっつくなんて、ありえねえだろ!」
「嘘だっ! あたし、ちゃんと聞いてたんだから」
「んなわけねえ!」
「アリだ。絶対アリぃっ!」
すると突然、空気がはじけた。
「ちょっといい?」
手を叩き、注意をそらしたのは、他でもない第三者。
後ろにはその人が一番大切にしている――彼女さんがいる。
「とりこんでいる所で悪いんだけど。誤解をひとつ解かせてもらっていいかな?」
まるで先生のような口調で日下先輩は言う。
あたしたちが呆けているうちに、草食男子はこの場の主導権をかっさらってしまった。
「宇佐美は昨日の話を聞いていた。そうだよね?」
「はい」
「そうなったいきさつは?」
「それは……」
日下先輩に対するオニガワラの態度がただならぬ雰囲気だったから、でしょう?
そう、涙声であたしは言葉を返すけど――
「そこ、微妙に違うんだな」
日下先輩は肩をすくめた。
「宇佐美、俺の話ちゃんと聞いてないでしょ?」
「え?」
意味が分からずあたしがぽかんとしていると、日下先輩はやっぱり、というような顔をする。
「ぶっちゃけて言うとね、俺ら宇佐美と一緒に朝練をしているのを何度か目撃してたんだ。で、相手が野郎ならともかく、オニが女の子にあそこまで親身に指導しているのは珍しいって、ウチの彼女さんが言ったわけ」
なぁ、と日下先輩が振り返る。
後ろでは同調するかのように日下先輩の彼女が何度もうなずいている。
「だから昨日、俺は『宇佐美に気でもあるのか?』って冗談で聞いたわけだ。なぁ?」
「ああ……」
「で? オニはなんて答えたんだっけ?」
日下先輩の問いかけにオニガワラが口ごもる。
何か迷うような仕草。先輩のそんな姿を見るのは初めてだ。
「あのさあ。ここ、一番重要なトコなんだけど。ちゃんと答えないと宇佐美、一生おまえから逃げまくるぞー」
それでいいのか? と日下先輩は首をかしげる。
するとオニガワラ眉間のシワが更に濃くなった。
そして、しばらくの静けさのあとで、固く閉ざした口をようやく開く。
「……好き、だ」
その言葉はか細いものだったけど、あたしの喉に引っかかっていた痛いものを落とすにはてきめんだった。
「つまりは、そういうこと」
そう言って日下先輩はにやりと笑う。
え? 今のは何?
好きだ、って……
わけの分らぬ展開に胸がどきどきして。
でも、なんとか言葉の意味を理解して。
すると、それに対する気持ちよりも今までの勝手な妄想とか、暴走ぶりが一気によみがえって――
ぎゃああっ。
喜びや安堵よりも恥ずかしさで顔が熱を帯びてしまう。
でも、あたしより顔を赤らめていたのはオニガワラの方だ。
「最初は要領の悪い奴だなって思ってた」
先輩の口からぽつり、言葉が落ちる。
「でもそんなの吹き飛ばすくらい、宇佐美は一生懸命で。俺のアドバイスにも正面から向き合って、真面目に取り組んでた。そんな姿見てたら俺、宇佐美のことすげえ応援したくなったんだ。だからレギュラー取れたって聞いた時……俺も嬉しくなった。笑ってる宇佐美の顔がすげえ可愛くて――その、ぎゅうっとしたくなって」
何? 今の発言は何?
後半の言葉なんて、あたしの気持ちそのままじゃないか。
そんな。先輩もあたしと同じ思いでいてくれたなんて――
「嘘だぁ」
あたしはその場に座りこんでしまった。
「ありえない。そんな、先輩があたしのこと好きだなんて。絶対――」
「アリなんだよ!」
先輩の声が耳をつんざく。
怒ったような声でめいっぱい否定するから、あたしの涙がぴたりと止まってしまう。
「その、おまえに限っては何でもアリっていうか、何っつうか、その」
そこで言葉はぷっつりと途切れた。
先輩が頭を抱えてしゃがみこむ。
しばらくの沈黙のあとで、先輩がああっ、と言葉を吐き捨てる。
「とにかく俺から逃げないでくれ。俺、宇佐美に無視されるのが一番怖い……」
「先輩」
他人に対して容赦なくて誰よりも自分に厳しくて。
ひとにらみすれば泣く子も黙るオニガワラ。
でも、本当は誰よりもまっすぐで、優しくて。
笑うと顔がくしゃっとなって、とても可愛いひと。
そんな人があたしに一喜一憂していたなんて。
この騒動のあと、先輩は体育館の扉を壊したことに関してきついお叱りを受けるわけだけど。
その間抜けな理由や、あたしのおバカな妄想が校内に広まるのはもっと先の話。
「先輩」
近づき、たくましい腕にそっと触れた。
同じ目の高さになった先輩をまっすぐ見つめる。
あたしの、ひとまわり小さい手のひらにあるのは小さな決意。
「あたしも先輩が好き」
「宇佐美……」
「今まで逃げてごめんなさい。でも、もう逃げません。ずっと先輩のそばにいますから」
この世は弱肉強食。
あなたが必要としているのなら、あたしは喜んで捕まってあげましょう。
呆けた顔をする先輩に、あたしはとびっきりの笑顔を見せた。(了)
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