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……廊下を歩いていると背中に重苦しい気配を感じた。
それはあたしにとって殺気とも呼べるもの。
ぶるり、と体が震える。
このまま無視してしまおうかと思ったが――
「宇佐美」
その声を聞いてしまった以上、あたしは立ち止まるしかない。
振り返った先にあるのは身長一八六センチの巨体――というよりは壁。
眉間に皺を寄せているのは男子バレー部に君臨する最恐のアタッカー。
ひとにらみすれば泣く子も黙る鬼瓦(オニガワラ)――もとい、大河原先輩だ。
予想通り、先輩は仁王立ちであたしを待っていた。
「どうして朝練に出てこなかった」
理由を問われ、あたしは口ごもる。
先輩の顔が見たくなかったんです――とはもちろん言えるわけがない。
「その、寝坊しちゃって」
「ほぉ……」
「朝からおなかの調子が悪かったっていうか。その……」
「へぇ」
先輩の視線はあたしの胸元へ移っていた。
そこにあるのはさっき購買で買ったパンが四つ――あたしの胸にしっかりと収まっているわけで。
「腹の調子、悪いんだ」
先輩のオウム返しにあたしは固まる。
すごみのある低い声、高い位置で結んだあたしのテールが今にも逆立ちしそうだ。
先輩がこんな声を出すのはつまり――めちゃくちゃ怒ってる時なわけで。
やばい、ばれてる。
あたしが嘘をついたの、絶対ばれてるっ。
「え、えっと……その」
焦りがつのると、額から汗がだらだらと流れてきた。うつむいた顔をあげられない。
どうしよう。
こんな時は――
「どうぞっ」
買ったパンを押しつけるに限るでしょう。
あたしはくるりと踵を返すと、さっきまで来た道を猛ダッシュで走った。
購買にたかる波に飛びこむ。
こう見えてもうちはマンモス校、昼休みの購買は戦場だ。
あたしは小柄な体を生かして人の間をすりぬける。
大量の人波に逆らえるなんて、あたしってば水泳部に乗り換えても結構いけるんじゃないの――
なんて冗談、かましている場合じゃない。
先輩、後ろからものすごい勢いで泳いでくるし。
つうか、先輩の勢いに人が引いて、モーゼの十戒状態だし。
ひいっっ。
あたしは混乱という名の川を横切ると階段を一気にかけ上がった。
いったん最上階までたどりつき、棟の端にある反対側の階段で一階ぶん降りる。
連絡通路を抜けてから三年の教室の前を突っ切り、二階降りてまた連絡通路――今度は特別教室のある棟へと移る。
とにかく、先輩を巻くのに必死だった。
細かく動いたことでかく乱することができると思ったのに――
「げ」
さすがオニガワラ。鋭い眼は伊達についてない。
というか足、速すぎっ。
こうなったら、別の方法を考えなければ。
先輩の追走を避けるべく、あたしは理科室に飛びこんだ。
理科室は昼休みになると数人の先生たちが集まる。
ここでこっそり喫煙しているのは承知済み。
先生がいればあのオニガワラも簡単に手出しは――って。
先生いないじゃん。
なんで今日に限っていないのよおっ!
イレギュラーな事態にあたしはおろおろとしてしまう。
そうこうしているうちにも鬼の形相で先輩が教室にとびこんでくる。
「宇佐美っ!」
うぎゃあっ。
声にならない叫びとともに、あたしの体が跳ね上がった。
「何で逃げるっ」
「せ、先輩の方こそ何で追いかけてくるんですかっ」
長い机を挟んでの押し問答。
走った後のせいで、お互いの息づかいが荒い。
「追いかけるのはおまえが逃げるからだっ」
何で俺を避ける?
先輩の質問にあたしは肩を揺らがせた。
「俺は――」
言葉をためる先輩に体を一歩、引く。
やだ、そんな顔で見ないで。
そんなまっすぐな瞳で見られたら、あたしは――
「いやあああああっ!」
最大級の悲鳴が教室をつんざいた。
これがアニメか漫画だったら絶対天井に穴があいていたに違いない。
あたしは目に見えない波動砲をぶちかますと、理科室から飛び出した。
連絡通路を突っ切り、ホームグランドである二年の教室の前を駆け抜ける。
廊下の真ん中につっ立っている人たちを右へ左へと華麗にかわしていくが。
サッカーもバスケットもいけるかも、なんて思ってる余裕、あるわけがない。
今はひたすら先輩から――オニガワラから逃げるしかないのだ。
何故、逃げる?
そんなのは決まっている。
昨日、あんな姿を見ちゃったからだ。
走りながら、あたしは頭を抱えるように耳をふさぐ。
よみがえるのは昨日の放課後。部室の前でのこと。
耳に残っているのは先輩のまっすぐな心。
『好きだ』
あたしのもとに届いた声は心なしか緊張していた。
朱に交わった頬は夕日に染まっただけのものではないとすぐに分かった。
その言葉を聞いてしまった以上、あたしは先輩の気持ちを受け止めなきゃいけなかったのに。
あたしはそれが信じられなくて。
怖くて逃げてしまったのだ。
バカなあたし。
なんでそこで逃げちゃったんだろう。
そんなことをしたら、先輩が傷つくって分かっているのに。
せめて、そこで笑顔だけでも作れたら――こんな状況にはならなかったはずなのに。
胸がずきずきと痛む。
苦しみに耐えきれなくなって、走るペースががくんと落ちた。
本当は分かってる。
先輩は確かにオニガワラだけど――でも、決して怖いだけの人じゃないって。
自分を絶対に甘やかさないから他人にも厳しくできる人だって。
それを知ったのは自主練習で体育館を訪れた時。
あたしは万年補欠から抜けたい一心での朝練だったけど、先輩にとってのそれは日課であり、空気のようなものだった。
最初は挨拶だけだったけど、そのうちふた言三言交わすようになって。
気がつけば先輩はあたしの心もとない練習につき合ってくれるようになった。
先輩の指導は予想通りというか、めちゃくちゃ厳しかったけど――先輩は私の膝の柔らかさに注目してくれて、それを生かしたジャンプサーブが最大の武器になるって教えてくれた。
背が低いあたしでも、試合で活躍する場は必ずあると励ましてくれた。
だから、レギュラーを獲った時は真っ先に先輩に報告したんだ。
そうしたら先輩は一緒に喜んでくれた。
先輩は笑うと顔がくしゃってなるんだ。めったに見られない表情はとっても可愛くて――少しだけぎゅっとしたくなっちゃったんだっけ。
「はは」
完全に足が止まった所であたしはうずくまる。
床に落とした顔がどんどん歪んでくる。
やばい。このままじゃ泣きそうだ。
ただの思い出し笑いなのに、苦しくて切なくて――もう、頭がごちゃごちゃだ。
やだ。これじゃあたしが先輩を好きみたいじゃないか。
――みたい?
「違う」
あたしはかぶりをふった。
好き、なんだ。
あたしは先輩のことが――
そのまま、あたしは廊下で小さく丸まってしまった。
やがて、跳ねるような振動がこちらに近づく。
「宇佐美」
フィルターを通したような声。
肩を叩かれ、あたしは少しだけ体を揺らす。
怖いけど。
まだ心臓ばくばくいってるけど――
あたしは覚悟を決め、ゆっくりと顔を上げた。
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