診断アンケートの結果の「舌を絡める」で書いた龍アソ
夕日に紅く染まる路地の裏。ぼくはいつものように帰路についていた。人通りの少ないこの道は大学から下宿までの近道で、毎朝お世話になっている。帰りは急ぐこともないが、特に用事がなければその裏路地を経由して下宿へ足を運ぶのだった。人通りが少ないと言うよりは、もはやほぼないといっても良いくらいだ。すれ違えば珍しく思うくらいの隠された近道だったが、その日は密会の場とされていたらしい。そしてぼくは、計らずもその現場を目撃してしまった。そこには黒の礼服に身を固めた背の高い金髪の男性と、赤をあしらったドレスに身を包む長髪の金色をきらきらと光らせた女性が、徐々に間を詰めて流れるような動作で抱き合っていた。それを見て思わず壁の裏に隠れてしまったのだが、隠れる必要なんてないと思ったときには既に一連の行為が始まってしまったのだ。運良く英国人の二人には見つからなかったものの、今出ていくと確実に気付かれてしまうし、折角のいい雰囲気を壊してしまう。見ず知らずの他人なのだが少し気が引けてしまい、とうとう壁の裏から出る頃合いを逃してしまったのだ。
なんとか出ていく瞬間を見計ろうと、二人の様子を伺う。だが、人目は気にするもののその場を一向に動こうとはしなかった。もしや、これが芝居や物語などでよく目にする、いわゆる「禁断の恋」というヤツなのだろうか。そう思うとその二人に何となく、自分と親友の姿を重ねてしまう。禁断もなにもないが、摂理に反してはいると思う。ぼくたちは男同士だ。目の前の二人はそういう壁はないのだろうが、きっとそれ以外の障害が二人を阻むのだろう。日本へ来てまで忍び逢うようなのだから。それならば、往来で堂々と会えるぼくたちは恵まれているんだろうな。たとえ最後は一緒になれなくたって、一生親友でいられることには変わりない。
うまく立ち回れないような物悲しさに苛まれていると、抱き締め合っていた英国人たちが名残惜しげに距離をおいた。進展か、それとも今日のところは離れるのだろうか。今のぼくにとっては、二人には悪いが、早いところ密会を終えてほしい。何時までもじっとしているのは堪える寒さが取り残された初春。手足は元より、心までも凍りつきそうだった。
距離とすこしの間をおいて、二人がまた接近したのでぼくは不味いと思った。これ以上ない二人の距離をこんなにも詰めているのはもう、あれしかない。接吻だ。ぼくの読み通り、二人は唇を重ね合わせていた。他人の色恋を覗き見るのは、非常に後ろめたいものがある。今回ばかりは不可抗力でもあったが。なるべく視線を二人に向けないようにと努めたが、ぼくの知識として記憶している接吻と違っていたお陰で、むしろ意識を集中してしまう。長くて深い。そして、なんと形容するべきか、見ているこっちが赤面してまうような艶かしさがあった。唇と唇をくっつけて終わるものではなかっただろうか。あれだけ凍えそうだった体や手足は今度はすっかり熱っぽくなっていた。じんわりと手のひらに湿っぽさを感じる。時々聞こえてくる粘膜が絡み合うような音は二人から目を逸らしても、その艶かしさを鼓膜に訴えてきて、慌てて耳を塞いだ。いつ終わってくれるのかと、恐る恐る密会が行われている方向を覗いては目を瞑るのを数十回繰り返したところで、今度こそ二人は暫しの別れを告げたようだった。目にキラキラと輝く真珠を溢し男の背中を見守る名も知らぬ彼女は、本当に物語の登場人物のように綺麗だと思った。
しかし、思い返せば散々な目に遭った。今日は早めに湯浴みをしよう。いつもより温度を上げた湯に浸かって冷えきったり、妙な汗を流したりした体を労ろう。気を取り直して、閑散とした密会現場から抜け出したのだった。
◆◆◆
昨日の密会を思い返し、同時に親友の顔が浮かぶ。あの時垣間見たいつもと風変わりな口付けを交わしてみたいと、物思いに耽るように午後の講義を浪費する。ぼくと彼とは少し前からそういった関係ではあった。接吻はとうに交わしている。しかしながら、昨日の英国人のような、絡み合うような熱烈なモノは、舌をどういうふうに使えば良いものか、勝手がちっともわからないので実行も何もない。もちろん深い口付けをされたことも、したこともないので知識に乏しい。それに亜双義のことだから、宣言でもしてから始めないと下手をすれば舌を噛み切られるかもしれない。いつもぼくに厳しくも優しい親友は、唯一ぼくの舌に対してひどく根に持っているようだから。
あの夏の日、弁論大会でぼくに惜しくも敗北を明け渡されたとき、初めて「どうしてそんなにキレイに舌が回るのだ」と声を掛けくれたらしいが、実はよく覚えていない。その後の思い出のほうが楽しくて濃密だったんだもの、と答えれば亜双義は少々眉をひそめながらも、まあ良いとそれきりその話題は打ち切られた。
ぼくの舌がキレイに回るのは、幼少からの趣味の賜物だった。最も亜双義に言わせてみれば「早口言葉が趣味のやつがあるか!」だそうだ。舌がこんがらがりそうな呪文を言い切ったあとの爽快感は、まるでラムネを口にしたときのようなのに。それを言ったらなかなか見ないような引き方をされたっけ。
ぼくがただ異色の目で見られたという話はさておき、ぼくの趣味はもしかすると、あの接吻の役に立つのではないかしらん。物陰から盗み見ていたのではっきりとはしないが、どうやら舌を相手の咥内に忍ばせたり吸ったりしていて、互いが息を奪い合うような荒々しいものだった。芝居などで見る軽く触れるようなそれとは、全く別の行為のようだった。途中から羞恥に負け、瞼をぎゅっと閉じてみたり薄目にしたり、あのときのぼくはかなり不審者だったと思う。近くに人がいなくてよかった。そのままお縄になっていたところだ。
いや、本当によかったのだろうか。お巡りさんのお世話になるのは確かに嫌なのだけど、目の前で繰り広げられていた激しく淫靡な接吻を止められることもなく注視し続けていたのは、寧ろ体に毒だったのではないだろうか。辺りに誰もいなかったので無理は承知だが、誰でもいいからこの非常によくない思考を止めてくれたらよかったのに。瞼の裏まで焼き付くように、目にした光景に焦がさられて講義も課題も手につきやしないのだ。
本日何度目かのため息を零して、窓から外をぼんやりと眺める。教室の中もそこそこ冷えたが、人が詰まっているぶん、突き刺すような北風に晒される室外よりは幾分マシなのだろう。青空が広がってはいたが、外を歩く書生たちが身を縮こませているのを見ると、下宿までの道のりを一人で帰るのは酷く億劫だ。隣に亜双義でもいれば寒さに堪える隙なんて与えられないほど、むしろ極寒すら忘れるほど愉快なのに。取り留めのない話をしたり、ぼくが一方的に寄せかメシの話をぶつけたりとしている時間は本当に心地良い。しかし今は訳あってそいつができないのだ。亜双義は今、学生と弁護士の二足のワラジでどちらもなかなかに多忙なのだ。ぼくなんて学業だけでもやっとの思いでこなしているというのに。辛うじて七日のうちの一日は姿を見掛けることがあっても、会話に花を咲かせている余裕もないような雰囲気で、声を掛けるのも気が引けてしまう。朝会えば、おはようと一言交わすくらいだ。そんな状態がたぶんひと月続いている。少し前までは、会えなくなるほど忙しくはなかったはずなのに。そんな状態だからこそ、亜双義に対する欲求は募るばかりだ。夜は頭の中に住まう亜双義に委ね、しかし体は一人虚しさの中で自 に耽る。一人での行為を終えた隣にはもちろんだが、そこには亜双義はいない。しばらく亜双義に会っていないせいで、ぼくの中の亜双義はトンでもなく脚色されているらしい。濡れた唇の隙間から零れ出る荒い吐息と、汗ばんだ頬に張り付いた薄い毛に紅潮が重なり合う。蕩けた瞳に映るのはぼくで、そして欲に染まっている。まるで飢えたケダモノのようだ。そんな桃色の妄想がつきない。
恐らく今夜も一人で過ごすのだろう。そして、脚色された亜双義が寝床の友だ。そう思っていた矢先に、その男は数日ぶりにぼくの前に現れたのだ。
「講義は終わったと言うのに、勉強熱心だな」
「えっ!?亜双……うわ!」
ちょうど亜双義にたいして疚しいことを考えていたので、急な本人の登場に声も体もひっくり返ってしまった。派手な音を立てて椅子からずり落ち、机上に散らかっていた筆記具もつられて落下する。教室の構造上、すぐ後ろにまた長い机が配置されているのだが、そこに思い切り頭をぶつけるという見事なまでの驚きぶりを披露してしまった。
「うう…痛い…」
「見事にずり落ちたな」
「誰のせいだよ」
いつの間にか講義も終了し、皆が出払った室内は外の冷え冷えとした温度に近づいていた。終業の鐘すら耳に入らなかったのか。それほどまでに例の接吻と亜双義に没頭していたのだ。本物の亜双義のおかげで帰ってこられたが、みっともない姿を晒してしまった。今に始まったことではないけれど。
「すまん。そんなに驚くとは思わないだろう。それともなにか疚しいことでも考えていたのか?」
「え、ちょっ、ちょっとね!」
亜双義の問い掛けにまんまと本当のことを答えてしまったが、深入りは無用と思ったのか、亜双義は何も聞かなかったと言わんばかりに自分の持ってきた話題に切り替える。
「久しぶりだな成歩堂。わざわざ出向いたのだが、実はあまり時間がない」
「へえ、そんなに忙しいのにぼくに何の用なんだ?お金のことならほかを当たったほうが賢明だぞ?」
冗談も程々に、先刻ぼくと一緒に落下した筆記具を拾い集めながら、手短に、とぼくの耳元に顔を寄せる。今、教室には僕たち以外に誰もいない。そんなに近付かなくたって、秘密の話が出来そうなくらい人の気配はない。ならばこれはわざとだ。
「明日の夜まで暇ができた。今夜キサマの下宿へ行く。待っていろ」
亜双義の声が鼓膜を、心を、擽る。そして最後に残った筆記具を拾い机上に戻すと、目を細めてもう一度、「必ず行く」と念を押すように告げる。それだけでもう、ぼくの中の期待に満ちる胸がはち切れんばかりに膨張するというのに、さらなる仕掛けを施す。
誰もいない講義室は、内緒の話をするのにうってつけなのだ。
「随分とご無沙汰だったが手加減はしてくれるなよ」
全力で抱け。つまりそういうことらしい。柔らかな微笑みと言うよりは、してやったとでもいいたげな笑みを浮かべて、硬直するしか術を持たないぼくを後にする。亜双義はぼくのなけなしの余裕すら奪っていったのだ。
大急ぎでそれだけを言いに来たのかと思うと、どこか亜双義が可愛らしく思えてくる。いつもはあんなに力強くてかっこいいのに。
今の亜双義の背中を見送るぼくの瞳は喜悦を宿していたにちがいない。
◆◆◆
辺りはすっかり夜に浸り、北からの風はよりいっそう寒さを増したお陰で、外は誰一人として出歩いていない。ぼくの下宿先はわりと近隣にも民家や別の下宿が建ち並んでいて、夜道も比較的明るいので火を持って歩かずに済む。そしてそれぞれの家からは夕飯時、食欲をそそる幸せな匂いに満たされる。だからぼくは下宿先の付近の道を歩くのは大好きだ。ひそかに隣のうちの本日の献立を匂いで当ててみたり、嗅いだことのない匂いにどんな料理が食卓に並んでいるのか想像したりするのが、楽しみだったりする。相変わらず変な遊びだと、亜双義には言われたが帰り道の楽しみくらい放っておいてほしい。
そんな一人遊びが捗る時間、亜双義は約束通りにぼくの下宿までやってきた。荷物を見る限りやはり一泊していくようだ。学校から帰り、下宿へは荷物だけ取りに立ち寄ってそのままここまで来たのだろう。昼間見た学生服のままだった。
「空いているな?」
「……あんなコト言われて、空けとかない訳ないよ」
この期に及んで探りを入れてくる亜双義にぼくはすこしはがゆさを覚える。ひと月も触れることはおろか、会話も満足にできていないのだ。積もる話もある。それに、もう限界なのだ。玄関先でも構わず今すぐ腕の中に収めてしまいたい。まだ父の教えの方が勝ってはいたが、部屋に招いた時、ぼくは自分を抑えられるだろか。自信はあまりない。
「上がってもいいだろうか」
「ああ」
短い返事を聞いてから、亜双義は丁寧に履物を脱ぎ、きちんと並べている。何故かその一つ一つの仕草さえ、焦らされているようにさえ思う。早く亜双義に触れて、感じたい。本能に負けてしまいそうな理性を必死に繋ぎとめようと、唇を噛んでやり過ごしていた。しかし、ぼくは割りと表情にすべて出てしまっているらしい。急く気持ちはすでに届いてしまっているのではないかしらん。それを指摘したのは他でもない、亜双義だったから。
夜も更けているとはいえ、下宿のほとんどの部屋は晩飯の余韻でゆったりとした時を過ごしているといったところだ。もう少し、せめて両隣が寝静まるまではぼくの欲望に眠っていて貰いたい。
「成歩堂、どうした」
亜双義を置いて思考していると、真っ直ぐにぼくを見つめて問い掛けてくる。
「ああ、ごめん。なんでもないんだ。それよりも」
それよりも。忙しかった間のことを聞かせてもらおう。ぼくのほうは相変わらずだったし、きっと亜双義の話の方が有意義で為になる。
「亜双義がここに来るの、本当に久しぶりだよな」
「ああ。怒濤の日々だったからな。お陰で少し痩せた」
確かに。元々体つきはしっかりとしているので気付きはしなかったが、ひと月前より絞まっている気がする。腕に収めればきっと、もっとその変化がはっきりとわかるのだろう。すぐさま確かめてやりたいのを堪える。
「ちゃんと食わないとだめだぞ。未来の弁護士が土壇場で倒れたりなんかしたら」
「ああ、示しがつかんな」
「そうだ、晩飯まだなんじゃないか?」
亜双義と共に食卓を囲みたいと思い、取っておいた晩飯は女中に頼んでちゃんと二人分用意されていた。
しかし亜双義は飯にそれほど関心がない様子だった。もしかして食べてきたのかもしれない。だったら夜食に取っておけば良いだろう。今は冬だ。しばらく置いても傷みはしないはずである。食べてくるかどうか聞かずに気を利かせようとしたぼくも悪いのだし。
「もしかしてもう食べてきてた?」
「いや。まだだが」
それなら早く飯にしよう。もちろんぼくだって亜双義と食べたいと思っていたから、夕食にありつけていない。現に亜双義との会話の合間合間に腹のムシが、飯を求めて鳴き散らしていた。その喧しさに亜双義も苦笑いを浮かべる。
「……その音を聞いているとこっちまで切なくなるな」
「うう……止められたら止めてるんだけど、こればっかりは」
「キサマらしいな」
亜双義はどこか安心したような顔でそう言った。いつもの凛とした表情も好きだけど、こういう仲になってから見せてくれる柔らかい顔はもっとずっと好きだ。きっと亜双義本人だって知らない、ぼくだけが知っている顔。
それを思うだけでも、心臓の奥がきゅうと締め付けられるような心地なのに。亜双義は容赦なく、惜しみ無く、それをぼくに向けてくるものだから困る。
「しかしキサマ」
「何、」
ぼくが短い返事を言い切る前に、亜双義の手は僕の脚の間、つまり股間に伸びていたのでぎょっとする。ぺた、とたどり着いたそこは、既に主張を始めていた。布越しにゴツゴツした指の感触を覚え、腰にぞわりと甘ったるい痺れが走り、強張っていた体が跳ねた。
「こんなに腫らして飯などできるのだろうか」
できるもんか。そうは言ってやりたかったが、ぼくの中で行われている葛藤が言葉を詰まらせる。
だってこんな。
「来ていきなり抱けなんて」
目的はこれだけだなんて、寂しいことを言われたら死んでしまうかもしれない。そう考えている間にも、股間をまさぐる亜双義の手は止まるどころかどんどん射精を促すように、上へ下へと擦り続けている。
「それは……いけないことなのか?」
「いけなくは、ない。久しぶりだからぼくも、したいと思っていた。けれど」
けれど?
亜双義はぼくの言葉を拾い、そっくりそのまま返してくる。器用にもぼくの熱のこもったそいつを擦り上げながら、部屋の明かりを落とす。主導権は完全に亜双義に渡ってしまっていた。
明かりを消した部屋は、月と隣近所の下宿から零れるわずかな光だけが頼りだった。亜双義が今どんな顔をしているかは、少ない明かりでも充分に確認できるほどの距離だ。きっとぼくの火を吹きそうなはほどの火照りきった顔も、亜双義には見えているのだろう。
「せめて両隣の人たちが眠ってからと思ったんだよ…」
言葉尻はすでに諦めているように、気持ちも殆ど諦めていた。ただ最後の一手を除いては。
「諦めろ。抱いてしまえ」
アイサツのようにさらりと言われても困る。というかこの男は今から抱かれるというのに、どうしてこうも潔いのか。流石に顔色を変えずには言葉に出来なかったようだが、ぼくの方が何倍も亜双義が訪ねてきてからというもの、百面相をしているような気がする。
圧倒され、飲まれてしまいそうになるも、ぼくは最後の一手に出ることにした。
「わかったよ、亜双義。でもひとつ試させてほしいことがある」
「何を」
「接吻を」
「ふむ」
接吻なら何度したことがあるだろう、何を今さら。まるで顔にでも書き込まれているように、表情を読み取ることができた。でもぼくが今からしようとしているのは、いつものやつではない。
実践する前に、あの時盗み見た接吻を反芻する。舌を、使うのだ。こいつがもっとも根に持っているこの舌を。噛み千切られないことを祈りながら、亜双義の顔に詰め寄る。距離を詰めると少しずつ瞼はおりていった。まずは重ねるだけだ。こっちは慣れている。
「っ、ん…」
啄むような接吻の最中、亜双義の唇を舌でつつくように刺激する。初めは何をされるのか分かっていない様子で、くぐもった声を漏らしていたがやがて舌の動きがぴたりと閉じた隙間を抉じ開けたいのだと意図していることを感じ取ったのか、ゆっくりと隙間を開け、舌を招き入れた。初めての舌と舌が触れ合う感触に、お互い口から零れる声を抑えられなくなっていた。
いつもの口付けでは聞こえないような淫猥に染まった音が耳につく。初めは逃げていた亜双義の舌も幾度となく捕まえては絡め取ったり吸い付いたりしているうちに、快楽の方面へ導かれたようだ。力加減も掴めてきたようで、少し力を込めてなぞると、鼻にかかった甘ったるい喘ぎが零れる。脳髄が蕩けるようだ。一旦呼吸を置くために唇を離すと、唾液が二人を頼りない糸で繋ぎ止めていた。
「なんだ、ずいぶん求めてくるな」
少し乱れた息遣いでいつものような余裕の笑みを貼り付けていた。最初の反応を見た限りでは、驚きを見せていた。しかし表情から余裕を感じるのはもしかして、経験があるからなのだろうか。ぼくの知らない誰かと。
「初めてじゃないのか…?」
「なんのコトだ」
こわい。でも、聞かなければならない。亜双義は女性にもモチロン人気がある。悔しいけれど。よく恋文を渡すありがた迷惑な役得を強いられているので、嫌でも亜双義がたくさんの女性に慕われているのだって知っている。だからもしかすると、亜双義は英国の接吻だって交わしたことがあるのかもしれない。
「慣れているのか?」
崩れることない亜双義の余裕をじっと見つめながら、もう一度聞いてみる。逆にぼくには余裕の欠片もない。
「お前が緊張しすぎているから、そう見えるだけだ。オレだってあんなのは初めてだ」
まっすぐにぼくを見る。この男はぼくが真剣に話をすれば嘘なんて吐かない。だから本当らしい。亜双義もあの接吻はしたことがないのだ。そしてもうひとつ気になっていることを問い詰めてみる。
「何さっきから笑ってるんだ」
なんだか幼子を見るような眼差しだったから、嫌な予感はしていた。
「雛鳥のようで可愛らしいな、お前の接吻は」
ひなどり。奪うと言うより、ただただ必死だったとでも言うのか。初めてにしてはうまくいったと思っていたけれど、雛のようだと言われてしまえば心に突き刺さるものがある。
「落ち込むな。オレには出来んことだ」
「亜双義はカッコいいもんな」
「何を拗ねているんだ」
拗ねてない。断じて。見様見真似ではやはりあの熱っぽい接吻には到底及ばなかった。あのときの二人にはもっと、妖しくてアブないような空気があった。足りないものがあるとすれば、きっと余裕なのだと思う。
「も、もういちど」
接吻をすれば、何か掴めるかもしれない。手応えは確かにあった。前にのめった体を亜双義は押し返すように両の手で止める。これは言葉を聞くまでもなく、返事は『不可』だ。
「キサマが今すべきことは接吻ではないな?」
わかるだろう?耳に寄せられた唇から鼓膜を擽る息が溢れた。するりと導かれた腕は、亜双義の芯を持ち始めた部分へ。期待に僅かながら震えて、熱を持って主張する。
「なにも接吻だけに集中しなくていい。愛撫の中にその時が来るかもしれん」
それに。
言葉を続けようとする亜双義の息づかいは少しずつ荒くなる。紅潮と瞳の蕩けた表情が、なんとも言いがたい気持ちにさせられてしまう。握りこんだ亜双義の熱も、先から溢れる期待も、すべてでぼくを誘う。畳に擦った手のひらの痛みで、なけなしの理性を繋ぎ止めていた。
「オレはもう、今すぐにでもキサマが欲しい」
考えていた何十倍も、露骨に仕掛けられた誘惑に擦りきれた理性はぼくにしか聞こえない音をたてて崩れ去った。とうとうあの接吻はできなかった。
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