「百田くん、おめでとう」
明け方過ぎ、僕は年期の入った愛車を乗り付け彼を拾う。とある場所までの送迎を頼まれていて、さらにそこに着く前にドライブがしたいとご所望だった。ボスの頼みは絶対だからな。なんて、懐かしい役割を引っ張り出して彼の依頼を快諾した。
「…ありがとな、終一!」
今日。百田くんは人のものになる。
百田くんの第二の人生の始まりの日だ。
そんな日の一番に彼に言葉を交わすのは、とても光栄だと思うし、素直に嬉しかった。それと同じくらい誇らしいと思ったことと言えば。
百田くんが宇宙から帰ってきたあの日、僕が誰よりも先に迎えに行ったことだろうか。
百田くんを乗せたロケットが帰還する少し前に、ロケット基地にたどり着いた。久しぶりに会えるせいかどこかそわそわして落ち着かない。朝が弱いはずの僕が、早朝に目覚めてしまうほど緊張していた。思えばこの時が永遠とも感じる程に、長く果てしないような時間だったかもしれない。少しずつ飲んでいたコーヒーが冷めきった頃、ようやく百田くんの帰還の知らせを聞いた。
君の降り立つ瞬間をこの目に焼き付ける。関係者以外は立ち入れない区域だっから、モニター越しではあったけれど、旅立った日よりも元気そうな表情が伺え、心の底から安堵したのを覚えている。ハッチから降りた百田くんは、地球を飛び出していった頃より何倍も何十倍も逞しく見えた。僕だけ取り残して大人になってしまってような、そんな感覚だ。
宇宙ステーションからたった一度だけ僕宛に届いた手紙と一緒に、大気圏での様子を撮った写真が入っていたけれど、そこに写った君にさえそう思ったのだから、本物を前に僕はあらゆる感情を抑えられるか心許なかった。きっと心臓は痛いほど早くなって、君を見る視線なんてとても真っ直ぐとは言い難いものになる。想像の君はとても立派に見えて、ますます緊張してしまう。
そういえば、写真の裏には力強い崩れた文字で「もうすぐ帰る!」とだけ書かれていたっけ。百田くんが帰ってくる日程は百田くん自身が、宇宙に立つ何日も前から教えてくれていたし、ニュースやホームページで何度も目にしていた。だから僕は帰還に合わせて仕事とスケジュールを調整して、愛車を転がし真っ先に百田くんを迎えに行ったのに、出迎えの中に僕の顔を見つけた時の百田くんの表情は心底驚いていて、次に飛び出す言葉が一文字一句手に取るように想像できた。
「オメーなんでオレの帰還のこと知ってんだ!?」
ほらね。探偵じゃなくたってわかったよ。
百田くんが驚いていたのはほんの一瞬で、そのあとはいつもの調子の、宇宙へ旅立った頃と全然変わりない彼そのものだった。
その後は百田くんを助手席に乗せ、お互いに積もりに積もった話をしながら家までの束の間のドライブをした。百田くんの自宅まであと少しというところで、百田くんは、なあ、と窓の外を流れていく街灯を眺めながら呟く。
「どうしたの?あ、コンビニ寄りたかった?」
偶然にも数キロ先には24時間休むことなく回り続ける看板が立っているが、どうやらそうではないらしい。コンビニを通り過ぎてまた数キロ走った頃に百田くんは漸く口を開いた。
「泊まってもいいか?」
「えっ?僕の家?」
「他に誰がいるってんだ?」
「いや、その、汚いよ?」
つい女の子が自分の部屋に人を招くのを憚るような言い訳になってしまったが、僕の仕事上、本当に部屋はいたる所に請負っている依頼の資料やファイルや預かっている手掛かりが本当に散らかっているのだ。それにしばらく帰っていないからきっと埃っぽい。遠い宇宙から帰ったばかりの英雄を招く場所ではない。そう、控え目に告げても百田くんは折れようとはしてくれなかった。男の部屋なんて多少は散らかってるもんだぜ!なんて、本当にそうだろうか。
さすがに宇宙から帰ったその足で僕の部屋に来るとは思わなかったから、もてなす料理もお酒も用意していない。そして今はもう夜もすっかり更けていて、コンビニくらいしか調達できるところはないだろう。Uターンでコンビニへ折り返し、お互いに適当なレトルト食品とアルコールを2、3本買い込み、久々の我が家へと車を走らせる。到着するなり、僕は散らかる床に二人分のスペースを確保して、百田くんはめくるめく宇宙大旅行の話を伝奇か何かのように大袈裟に話してくれた。大袈裟だけど、きっとそれくらいに宇宙へ行くのは大変なことなんだと思いながら相槌を打った。
その夜更けに、先に酔いつぶた百田くんの歳にそぐわない幼さをまとった寝顔を盗み見て、形に残らないように網膜だけに焼き付けた。
街から少し外れた海岸沿いの道に出た時、ラジオから流れる曲に百田くんは驚きの声を上げる。
「ああ、これ!今日の式で使うやつだ!被っちまったな」
別に特別な思いを込めてリクエストされたものでもなければ、被せようとも考えていないと思う。素直にそう言うと百田くんの顔が少し和らいだ気がした。海風に当たろうと少し開けた窓から入り込む心地の良い緩やかな風が、百田くんの前髪をふわりと遊ばせていた。その隙間から光る宇宙のように底なしの深い瞳は今まで見てきた中よりも、一段と輝いて僕を魅了した。君の宇宙を泳ぐ僕は、なんだかとても誇らしくて、いつまでも僕を連れて行ってほしくて、出来るだけ君の力になれるように、肩を並べられるように努力はしたつもりだ。「いつまでも」は「永遠」ではなかったけれど。
「百田くん」
水平線をゆっくりと朝日が染めるのを、走行する車からぼんやりと眺めて彼を呼ぶ。特に用はなかったけれど、自然と口からこぼれてしまったのだ。さて、僕は君に何から伝えればいいだろうか。うん。やっぱり、アレだな。
「今日が今までで一番かっこいいよ、百田くん」
「あたりめーだろ!つーか、オレはいつもかっこいいだろ?」
朝日が反射する海面と百田くんが重なってまるで彼が眩しく煌いているように見えた。実際そうなのかもしれない。この煌きごと攫ってしまえるのなら。この車に乗せて、世界の果てまで逃げてしまいたい。そんなことは出来ないし、するつもりもなくなったけれど、正直僕が家を出るまでこの衝動を抑えられるのか気が気でなかったのは確かだ。
「そろそろ向かおうぜ」
薄暗さも太陽に喰われ、空は完璧な朝に塗り替えられていた。式場まで来てしまえばあとはきっとあっという間だ。急に3日前、スピーチ頼んだぜ!なんて電話を寄越すものだから慌てて精一杯の祝言と思い出話を並べてみたけど、これを読み切ったら僕は絶対堪えられずに泣くから、その時は抱きしめてくれないかな。そう、海からの道中でお願いしたのをどうか覚えていてほしい。
「しょうがねえな、今日だけだぞ?」
「ありがとう百田くん」
なんて何気ない会話を、きっと僕はあと何年か引きずることになる。
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