トントントン、と一定のリズムを保ち、軽く子気味良い音が絶え間なく響く。
時折、此方の顔色を窺うようにしてちらりと向けられる同僚からの視線も気にせず、正面に聳えた談話室の扉をじっと見つめる。黒い装飾の施された長テーブルに頬杖を着き、空いている指先で机を叩く仕草は、何かを待ち望んでいるようにも、苛ついているようにも見えた。
長年共に過ごしてきた彼等からしてみれば、ベルフェゴールの機嫌が悪いというのは一目瞭然で、触らぬ神に祟りなしといった様子でそそくさと視線を逸らす。
指先の奏でる軽快な音が次第に早くなり、時計の針が頂点を示した瞬間、ベルフェゴールはテーブルに大きく手を着いてソファーから立ち上がった。
「……ベルちゃん、お紅茶淹れたけど飲む?」
「いらね」
バンッ、と盛大に音を立てて閉ざされた扉を見つめながら、ルッスーリアは頬に手をやり、溜め息を漏らす。
「……またベルはどうしたんだぁ?」
横でスクアーロがぽつりと呟いたのを耳にし、ベルフェゴールの機嫌が悪い理由は明らかだというのに全く悟っていない様子の彼に、ルッスーリアは再び溜め息を吐きそうになった。
談話室を出たものの、行き先を決めていなかった為に持て余してしまった自身の脚は、彷徨うように爪先を動かしたのち、結局自室へと向かった。
デスクや床に散乱する雑誌や任務関係の書類が相当邪魔くさいが、屈んで定位置に戻すのも面倒くさい。
虫の居所が悪かったのも相応し、脚で乱暴に避けながら進めば、無駄な面積を誇るベッドにベルフェゴールは身を投げた。仰向けで大の字になりながら、一面に広がった天井を見つめる。
開け放しにされた窓からそよぐ風が遠慮がちにベルフェゴールの頬を撫で、宥められているようだ、と錯覚する。翠玉色のカーテンがゆらゆらと靡き、水面のような影が天井に映っていた。
小さく弧を描いて不規則に揺らめく翠玉をぼんやりと眺めていれば、其れと全く同じ瞳の色をした後輩が不意に頭の中を過ぎった。直後、思わず舌打ちが漏れる。漸く頭から離れかけていたと思ったのに。
つい最近、入隊してきたばかりの新人であり直属の後輩であるフランが長期任務に駆り出されてから、一週間近くが経つ。
何てこともない。暫くの間、生意気な後輩の憎らしい面を拝まなくて済む上に、他愛のない口喧嘩で苛つく事もなくなる。
そう、思っていたのだが。
フランが居なくなってから此処数日というもの、何故か胸の中心部にもやもやと得体の知れぬ何かが蔓延るような感覚ばかりが訪れ、其れが何を指しているのか自分でも分からず、ベルフェゴールはかなり苛ついていた。
そもそも、此の胸焼けのように不快な感情の原因はフランなのだろうか。だとしたら、自分は彼奴の何に不満を感じているのだろうか。其れすらも分からず、苛々は一層増すばかりで。
「……つまんね」
不意にぽつりと呟かれた其れは、ふっと思いついた事が無意識の内に唇から漏れたような響きで、即座に疑問符が浮かぶ。
つまらない。
何故か、今の自分自身の心情にぴたりと当てはまるような気がしたのだが、何に対してつまらないと感じているのかまでは、矢張り分からなかった。
ベッドから身を起こして立ち上がったが、またもや行き先を決めていなかった為、頭を掻く。彷徨うようにキッチンへと向かい、何となしに冷蔵庫を覗いた。
料理等殆どしないものだから中身はガラガラで、飲み物ばかりが八割り以上を占めていた。冷やされた缶チューハイやビール等の酒に混じり、コーラやオレンジジュース、隅の方にぽつんと置かれたプリンのカップ。そう言えば、と思い出す。
自分の部屋までわざわざ取りに行くのが面倒だと、フランがオレの部屋の冷蔵庫に私物を放り込んでいた。酒全般がベルフェゴールで、ジュース全般がフランだ。冷蔵庫の隅に放置された、生クリームの乗っかったプリンも彼奴の物だった。
フランが長期任務に出掛けてから、一週間近くが経つ。何時から買って置いたのかは知らないが、腐っているのではないか、と疑る。
カップの底を覗いてみると、賞味期限は今日の日付になっていた。ギリギリセーフだが、果たして彼奴は今日中に帰って来るのだろうか。
冷蔵庫を開けてみたものの、昼間から酒を飲む気にもなれず、将又フランのジュースを拝借しようとも思ったが、後からぎゃーぎゃー煩そうなので、止めた。
結局手ぶらで戻ると、革張りのソファーに腰掛けてリモコンに手を伸ばす。出演者が忙しくおどけるバラエティーから堅苦しい感じのニュースと、チャンネルを回し続けるが落ち着ける番組が一つもなく、最終的にテレビを消す事で一番落ち着いた。
ばたん、と倒れるようにしてソファーに横たわる。景色が反転した。
「………あー…」
声を漏らす。意味はない。
全思考を停止させるように只一点を見つめ、頭の中を空っぽにする。空っぽにした、其の先にまた生意気な後輩。舌打ちが出た。
沸々と腹の底から湧き上がるような感情は此処数日ずっと感じていた苛つきで、殺しでもしている時でない限り、常時心の中に巣くい、離れてくれやしない。
がばり、と勢い良くソファーから起き上がり、自室の扉へと向かう。
自分でも相当落ち着きがない事は自覚しているが、何かしら動いていないと苛々が募るように蓄積し、爆発してしまうような気がした。大股で脚を踏み出し、早歩きで扉に向かえばドアノブに手を伸ばした瞬間。
触れるより先に取っ手が下がり、ガチャリと扉が開かれた為に思わずつんのめる。
「……っあ、びっくりしましたー」
聞き慣れて久しく、間延びした声が耳に届く。視界に飛び込んできた翡翠色に、前髪の奥に潜めた瞳を見開いた。
突然開かれた扉の向こう側に、今の今迄此の胸を蝕んでやまなかった其奴がいて。
言葉とは裏腹に、全く驚いていない様子のフランが飄々と其処に佇んでいた。
「っおま、え…任務は…」
「今、終わって帰って来た所ですけどー。……何をそんなに驚いてるんですかー」
きょとり、と今にも首を傾げてしまいそうな其奴の呑気な顔を見て、自分自身の中の今迄感じていた激情がぷすん、と音を立てて萎んでいくような気がした。
「……予定、より、早くね?」
「そうそう、そうなんですよー」
ベルフェゴールの顔を見て、一瞬忘れかけていた大事な事を思い出したかのように、フランが声を上げる。
ずかずかと遠慮もなく部屋に入って来たかと思うと、キッチンへと一直線に向かい、冷蔵庫を開けて屈んだ。
「………?」
「これですー」
ほら、と見せつけるように、片手に持ったプリンのカップをベルフェゴールに向ける。は? と思わずベルフェゴールが間の抜けた声を漏らすと、此方の反応を余所に其奴は胸を撫で下ろさんと息を吐いた。
「賞味期限、今日までだったんですよねー」
本当は明日帰還する予定だったんですけどプリンが気懸かりで、と口にする其奴の横顔を見つめていれば、すっかり萎んだ感情が別の物に変わり、沸々と込み上げた。
「……お前…っ、あー…もう、ばっからしくてやってらんねーよ!」
「いてっ!」
べちん、と額を思い切りひっぱたけば、途端に其奴は涙目になり、其の場に蹲る。俯せて悶えるように唸る巨大な蛙を見つめながら、尻餅をつくようにベルフェゴールも床に腰を落とした。
意味が分からないです、と不平を零すように呟く其奴に、こっちが意味分からねーよと心の中で返す。
「……お前、そんだけの為にオレの部屋に直行して来たのかよ」
「違いますー、ミーは優しいんですー」
また訳の分からない事を、と毒づこうとした矢先、フランは右手に抱えていたビニール袋をガサガサと漁り、何かを取り出せばベルフェゴールの目の前に突き付けた。
「センパイと、食べようと思って」
差し出されたのは、冷蔵庫に入っていたのと全く同じプリンで。
呆けたようにぽかんと見つめてくるベルフェゴールに何を慌てたのか、自分の分がないとセンパイは不機嫌になると思って、だの、後から捕られるのは嫌だから仕方なく買ってきた、だの、熟々と言い訳を述べ始めた。
そんな後輩の熱心な言葉はまるで耳に入らず、次第に胸の中心に集まっていく何かが鼓動を立て始める。
此の数日、煩わしい程に悩まされていた胸に蔓延る靄が、何時の間にか無くなっている事に今更気がついたが、其れも阿呆な後輩の前ではどうでも良くなっていて。
わざわざプリン買ってきてあげたんですよ!と騒ぎ始める其奴が可笑しくて、うるせーな、いらねーよと笑いながら、目の前の頬を小さく抓りあげた。
カカリアの恋患い20121014