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回廊に響く靴音は絶え間なく、重なるのは二つの足音。
此方が脚を止めれば小さな足音も止まり、此方が踏み出せば、慌てたように小さな足音も動き出す。
元々其奴とオレとの歩幅は違い過ぎるから、其奴がオレに追いつける筈もなく、互いの間にある距離は一向に縮む気配がない。

後ろを追いかけて来る足音が遠ざかったかと思えば、どうやら此の侭では追いつけないと判断したらしい、途端に足早になった其奴が近づいて来るのを感じて、オレも態と早歩きに変える。
其の所為か結局差は開くばかりでしかなく、早歩きをしていた其奴は遂に小走りとなり、ぱたぱたと小さな足音が駆け寄ってくるのを感じた直後。

「けろっ!」

両生類宛らに上げられた声と共に、すてん、と蹴躓くような音。其れには流石に慌てて脚を止め、振り返れば、何もない場所で躓いて転んだらしい、大きな林檎頭が廊下の真ん中で俯せていて。
足早に駆け寄り、抱き起こそうとしたが、其の前に自力で起き上がったフランの双眼には薄らと涙が溜まっていた。

「……おい、平気かよ」

呼び掛けてみるも返事はなく、首を縦にも横にも振る動作すら見せない其奴は、相変わらずの仏頂面を浮かべているだけで。

何だよ、此奴。折角心配してやったのに。

子供相手に大人気なく、そんな事を心中で毒づけば、しゃがんで目線を合わせてやっていた姿勢から立ち上がり、未だ廊下に座り込んだ侭のフランを置いて歩き出した。




目的地であった自室に辿り着けば、床に散乱する雑誌が行く手を阻むのは何時もの事で、自分で撒いた種であるにも拘わらず小さく舌打ちをし、脚で乱暴に部屋の隅まで除けた。
丁度部屋の中央に位置するソファに大きく腰を降ろせば、溜め息宛らに息を吐き出し、ずるずると背もたれからだらしなく滑り落ちる。

霞色の天井を何となしにぼんやりと眺めている最中、ふいに己の思考の端に現れた小さな影。今、此の現状で、一番頭を抱えてやまない人物。翡翠の宝玉のような瞳をした其奴の事を思い出すだけで、苛立ちが込み上げた。

オレはお前を知っているのに。どうして、お前はオレの事を覚えていないのか。

そんな理不尽な事実に今更苛ついていても仕方のない事だと、分かってはいるが。

もしもフランが、あの馬鹿げた出来事で取り戻した記憶を無くしてしまわなかったのなら、彼奴はあの時オレにどんな眼差しを向けていただろうか。
今はまだ幼さの残る彼奴にとっては、オレを思い出してしまった時点で、心の巣窟に宿る重圧に耐えきれたのか、オレという存在を忘れてしまった今が最良の運命だったのかもしれないと、そんな事を自分に言い聞かせながら。

不意を突いて現れた甘やかな気配に、今迄捕らわれていた思考から抜け出して顔を上げる。
自室の扉の隙間から此方の様子を窺うようにして覗く、小さな影を視界に捉えれば、まん丸な瞳を形作る翡翠の硝子玉と視線が交わり、後ろめたい事がある訳でもないのに思わず視線を逸らした。

ぱたぱた、と軽い足音が近づいて来るのを耳で感じながら、背けた顔とは逆方向に位置付いた気配にちらりと視線を寄越すと、じっと食い入るように此方を見つめるフランがいて。
真っ直ぐな其の視線が居心地悪く、しかし顔を向けてしまった今、今更目を逸らすのは何だか負けた気がして、其奴の大きな瞳を軽く睨み返した。

「……なんだよ」

「…………」

棘を含む声色で問いかけて見るも、矢張り反応は無し。一途に此方の瞳があると予想した箇所を見つめてくるフランを追い返してやろうかと、そんな考えに及んだ時。
前振りも無く突き出された短い腕に一瞬たじろいで、遅れてやってきた疑問符を頭上に浮かべれば、開かれた其の小さな掌の上に、ぽつんと置かれた飴玉。

飴?と思わず首を傾げれば、フランの突拍子な行動が益々理解し難くて、少々長い一拍を置いたのち、漸く一つの考えに辿り着いた。

「……オレに?」

問い掛けに然した時間もかけず、こくりと頷く其奴。
まるで予想していなかった行動に若干の戸惑いを覚えながら、小さな掌に置かれた飴玉を受け取ると、途端に其奴は肩の荷が降りたかのように心なしか表情を和らげ、ソファーから投げ出した短い脚をぷらぷらと揺らし始めた。

若しかすると、先程からずっと此の飴をオレに渡したかっただけなのだろうか。そう考えれば、ちょろちょろと周りを彷徨いたり、オレの行く所行く所に着いてきた理由も、明瞭になる気がして。
未だ隣で、短い脚をぶらつかせているフランを改めてじっと見つめれば、視線に気がついたのだろう、其奴が振り向いた。

翡翠色の瞳に映り込む、自分。何処か既視感に似た感覚を覚えて、意識無く伸ばした指先で猫毛のような柔らかな髪をそっと掬えば、びくりと僅かにフランが身動ぎした。

此奴の記憶が蘇った侭だったとしたら。
オレは此奴に何をしたか分からないのだから、此は神の思し召しなのかもしれないと、道徳に沿った考えなんて信仰したくも無いけれど。
頭が割れるような激痛と引き換えに授けられた記憶の中、鮮やかなまでに鮮明に焼き付いた翡翠は、此の時代に生きているオレの物ではない事ぐらい、理解していたつもりだった。今はまだ存在しない記憶の中の其奴を思うより、目の前に居る此奴を見据えてやるべきなのだと、そんな事を自分に言い聞かせたりして。

然も不思議そうに、此方をじっと見つめてくるフランの髪から指を離した直後、煩わしい程に聞き覚えのある、上司の怒鳴り声が耳に届いた。
もしかしたら、フランは無断で黒曜から抜け出して此処まで来ているのかもしれない。其れならば、こ煩い隊長の怒り声も黒曜の一味が迎えに来たと思えば予想がつく。
厄介事に巻き込まれるのは御免なので、さっさと差し出そうと振り返った先、何時の間にか部屋の端っこで、何故か体育座りをしているフランが目に入った。そんな所で何をしているのか、と近寄れば其奴は未だ三角座りをした侭、視線のみでオレを見上げる。

「……おい、迎えが来たってよ」

「…………」

見下ろしながらそう話し掛ければ、無言で首を左右に振る其奴。帰りたくない、という事か。

目線の高さに合わせるようにしゃがみ込み、フランの手を引いて立たせようとした所、途端に其奴は眉間に皺を寄せて、拒否を示すように後方に重心をかけてきた。
子供にしては力のある方だと思ったが、実質只のガキが力の差でオレに適う訳はなくて、あっさりと立ち上がらせると、其の侭其奴を担いで自室の外まで連れ出した。
担いで移動している間も、フランは終始じたばたと暴れ何か喚いていたが、自室外の廊下に出た所で降ろしてやった直後、直ぐにオレの脚へとしがみついて来て。

黒曜に帰るのが、嫌という事か。
将又、オレと離れるのが、嫌という事なのだろうか。

記憶を無くしている筈の、此奴に懐かれる理由等何処にも見当たらないのだが、もしかしたら感覚的に覚えてくれているのかもしれない。そうだとしたら、案外オレは此奴に愛されているのかもしれないと、そんな甘く浮ついた考えに及んだりして。

未だに自身の脚へとしがみついている、フランの丸い頭に手を伸ばしてそっと撫でてやれば、其奴は僅かに顔を上げた。

「また、今度な」

そう口にしても、相変わらず首を縦にも横にも降る気配の無い其奴は、じっと此方の視線を受け止めるだけで。服を掴む小さな手を退かそうとすれば、今度は素直に離してくれた事に、軽く安堵する。

遠い廊下の先で其奴の名を叫ぶ隊長と、其の隣にいるオッドアイを確かに捉えて、意識なく俯せた。

「ほら、行けよ」

背中を押す代わりに、大きな林檎頭を軽く小突いてやると、漸く歩き出したかと思えば再び振り返ったフランが、ぴらぴらと小さな掌を此方に向けた。
其の仕草を見て、途端に柔く胸が締め付けられるような感覚を迎えたが、其れは決して恋愛感情等ではないと思う。そんな物ではなく、もっと、大きな。

片手を上げて応えると、其れを確認した其奴は何処か寂しげに眉を下げて、今度こそ遠くに見える二人に向かって走り出した。

「………またな」

独り言のように似た言葉を呟けば、無意識の内に飴玉を握り締めている自分にも気づかぬ侭、遠ざかる小さな背中を見送った。


果実




20120303


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