自室の本棚から一冊、薄めの文庫本を抜き取りソファーに腰掛ければ、栞の挟んだ箇所を開いた。
久々の休暇が入った本日は読書に耽ろうと決め、薄茶色の栞を机上に置けば規則正しく並ぶ文字列に目線を走らせた時。
カチャリとドアノブの回る音と共に、カツカツ、と迷いなく此方に近づいてくる靴音。ノックもせずに突然人の部屋に入ってくるような不届き者は、この秩序等疾うに忘れた部隊ですら一人しか思い当たらない。
上げたくない顔を仕方なく上げれば、其処にはある意味当たって欲しくなかった予想通りの人物が口角を三日月のように上げて此方を見下ろしていた。
昼間の燦々とした光線が其れに劣らない程の眩いばかりの金色に反映し、瞳を細める。
どかっ、と甚だ音を立て隣に腰掛けてきた其の人に何か用ですかと問えば、暇だったからと返ってきた。理由は何時も其れだと分かっていても追い返すのが面倒な上に此の自称王子は人の言う等まるで聞く耳を持たないので相手にするだけ無駄だと判断し、手元の本に意識を戻す。
「…………」
「……なぁ、」
「………んー…」
「……………」
読書に集中したいが為に曖昧な返事を打つと、どうやら其れがお気に召さなかったらしい、突然横から本を取り上げられた。
返して下さい、と咄嗟に抗議の声を上げて取り返そうとするも片手で頭を抑えつけられた侭本を高く掲げられてしまう。此方をからかって楽しむように愉しげな笑い声を上げるベルフェゴールに苛立ちが増した。
「返し、っ…!ゎ、ぷ」
言い終わるより早く、抑えつけられていた頭部を突然強く突き倒されたものだったから、反射的に両腕をばたつかせる。ずしりと重い蛙の所為で後方に重心がかかり、どうにかバランスを維持しようと腹筋に力を入れてみるものの結局耐えきれず其の侭後ろにひっくり返ってしまった。
ぼす、と鈍い音と共に背中が沈んだ瞬間何故か視界が暗くなり、其れに疑問を感じて瞳を開けば間近に端正なベルフェゴールの顔があったものだから不覚にも心臓が跳ねた。視界が暗くなったのはベルフェゴールが覆い被さってきた所為で蛍光灯が遮られたのだと分かったが、何故このような状況になったのかが分からず硬直とする。
ばさり、と床に本が投げ捨てられて乱暴に扱うなと抗議の言葉を紡ごうとした瞬間に唇を塞がれ、視界一面を占める金色と唇の柔らかな感触が思考を停止させた。
微かな水気の音と共に唇を割り侵入してきた其れに止まっていた思考が漸く再開し、咄嗟に相手の肩を掴んで目一杯押し返すがびくともせず、抵抗の意を示せば両手首を掴まれソファーに縫い付けられてしまった。上から抑えつけるように覆い被さって貪るように唇を堪能されて口内に侵入してきた舌が羅列した歯をなぞり、背筋にぞくぞくと可笑しな感覚が登り詰める。
「っ…ん…、ふ、ぁ…」
酸素を求めて唇を薄く開けば、其の瞬間を待っていたかのように隙間から舌がねじ込まれて口内を好き勝手荒らされる。呼吸が苦しくなってきた頃合いを見計らって小さなリップ音と共に漸く唇が解放された。
軽い酸欠にぼんやりした侭見上げれば、互いの唾液に濡れた唇を真っ赤な舌で拭うベルフェゴールが目に入る。其の仕草が異様に毒のある色気であったものだから、思わず視線を逸らした。
「なぁ、こっち見ろよ」
蛍光灯を遮る体制のまま上から声が降ってくる。指で顎を捕らえられて強制的に上を向かせられれば相手の表情は逆光で窺えず、其れが更に不安を駆り立てた。
「……な、んで…」
「……なんでって、今更かよ。王子が隣にいてやってんのに、本なんかに夢中になるお前が悪いんだぜ」
其の瞳は分厚い前髪に覆われているのにも拘わらず真剣な眼差しを受けて、臆すると同時に心臓が締め付けられるような感覚がした。視線に耐えられずきつく目を瞑れば、瞑るなと頭上から声が降ってくる。
「目、開けろよ」
「………」
「あぁ、そうか。このまま襲われてーの?」
其処まで言われて恐る恐る瞳を開けば息がかかりそうなくらい近くにベルフェゴールの顔があった。顔に熱が登り詰めそうなのが嫌で、逸らしたくても顎を捕らえた指がそうさせてくれない。
「いい加減、返事くれてもいいと思うんだけど」
「…………」
「オレ結構待ったし。これ以上はもう無理」
「…っだ、から…ミーは男、で」
「……だから?そんなんどうでもいいっつったじゃん。お前が男だろーが女だろーが関係ないね。好きなんだよ、お前が」
後半は態とらしく耳元で低く囁かれて沸々と鳥肌が立った。答えられる、訳がない。自分ですら、自分の気持ちが良く分からないのだから。幾度となくこうしてベルフェゴールに迫られて自分は何時も逃げてきた。ストレートに気持ちを伝えられるなんて経験がなくて、其れが何だかむず痒くてどうしたら良いのか分からない。
「……ベル、センパ…っ、ぅん」
彼を嫌いなのかと問われたら、自分は自信を持って嫌いだと答えられるのだろうか。
此方の煮え切らない態度に痺れを切らしたのか、再度体重をかけて組み伏せられ、上から抑えつけるように降ってきたキスは先程よりも幾分か乱暴で。
ぞわぞわと身体が粟立ち、自分の身体でないような感覚に陥り、じわりと双眸に生理的な涙が滲んだ。唇から全身を侵蝕するかのように広がる波紋は蕩けるように甘く、理性を焼く。
あぁ、そうか、
既に自分は毒されているのだと、気づいた時にはもう遅かった。
はやくその毒をください20110915