心地好い恵風に煽られながら洗濯物を取り込み終えて、重くなったバスケットを抱えてバルコニーを後にする。
洗濯前に上着のポケットから回収した飴の存在を思い出し、包みを剥がして口内に放り投げれば爽やかな果実の香りが広がった。
折角のオフでこんなに天気も良いのにあの人は何時まで寝ているつもりなのか。自分の昼食が無いと文句を言うくせに、休みの日は昼近くまで眠りこけるのだから困ったものだ。そんなことを思いながら衣類を畳んでいると、不意にずしりと背中に重みを感じた。
「……重いですー。というか今何時だと思ってるんですかー」
「昼前に起きたんだからいいじゃん。飯は?」
「ミーはあんたの飯使いじゃありませんー。腹減ったなら自分でどうにかしてくださいー」
「じゃあオレはパスタでいいや」
人の話を全く聞かずに、尚も背中に伸し掛かって来るベルフェゴールに溜め息を吐く。こんな大きな子供の世話をする為にヴァリアーに入ったつもりはないのに。これも修行の一環だろうか、等と思いながらバスケットの中へ手を伸ばした直後、腹に回された腕に引っ張られてフランは後方に引き摺られた。
「ちょっ…と、なんですか」
「畳むのなんて後にしろよ」
「…誰の服を洗濯してやったと思ってるんですかー?」
「いいから、こっちおいで」
こうと決めたら自分の思い通りに事が進まないと気が済まない。そんな我が儘な彼の性格を知っているので抵抗することも早々に諦めて項垂れた。
床に置いたバスケットから離れてソファーに移動したかと思えば、後ろから抱き抱えるようにして身体を拘束される。旋毛に鼻先を埋められると何だかむず痒くてフランは肩を竦めた。
「なんかいい匂いがする」
すん、と鼻を鳴らして匂いの元を辿る仕草は宛ら犬のようで。少し笑いそうになっていると急に後ろから顔を覗き込まれて思わず仰け反った。
「なに食ってんの?」
「飴ですー」
「オレにもちょうだい」
「残念でしたー。ミーが食べてるので最後ですー」
「それでもいいけど」
「…? なに言っ…、ん…ぅ」
首を傾げた矢先に唇を塞がれて、疑問に上げた声も喉奥へと追いやられてしまう。項に手を回されているので引くことも出来ず、唇を割って易々と侵入してきた舌に口蓋をなぞられて背筋がぞくぞくと震えた。フランの口内で弄ぶように飴玉を転がされて、足りない酸素を補おうとすれば甘ったるい匂いが鼻を抜ける。執拗に蹂躙された後に舌先で器用に飴玉を攫われて漸く目の前の肩を押し返した。
「…でっけー飴玉。誤って飲み込んだらどうすんだよ」
「ミーは子供じゃありません…っ堕王子の虫歯菌が移ったらどうしてくれるんですかー」
「オレ虫歯持ちじゃねーし、キスなんか今更じゃん。…これ何の味?」
「…食べてもわかりませんか? パイン味ですー」
「パイン…」
果実の名前を口にした途端に表情を曇らせて、ベルフェゴールはテーブルに置かれたティッシュを引き抜いて飴玉を吐き出した。
「あっ…なにやってるんですか、勿体無いですー」
「だってパインとか後味わりぃし、なんかムカつく」
「…ベルセンパイってパイナップル嫌いでしたっけー?」
「嫌いだよ。フランには似合わねーもん」
味の好き嫌いなら分かるが、似合うかどうかなんて食べ物には関係がないような気がする。此方が疑問を抱いているとベルフェゴールも思案するように唸り出してぽつりと独り言を漏らした。
「んー…、…林檎?」
「なにがですかー?」
「お前に似合う果物」
「…ミーのどこに林檎要素があるんですかー?」
「だってオレのこと誘惑するの上手いし、頭っから齧りつきたくなるから」
そんなことを言いながら不意打ちにがぶりと頭に歯を立てられてフランは小さな悲鳴を上げる。驚いた反応が面白かったのか、背後から聞こえてくるベルフェゴールの愉しげな笑い声が憎たらしい。
「いっ…本当に齧らないでくださいーっミーは人間です、果汁は出ませんー」
「うししっ、果汁ならいつも出してんじゃん。オレの下で」
「うわー…そういう寒い下ネタ言うなんてセンパイもおっさんになりましたねードン引きですー」
「誰がおっさんだって? おいコラ」
「いひゃーいー…いひゃいれすー」
ぐりぐりと両頬を抓りながら限界まで面の皮を引き伸ばされて涙目になる。この人は力の加減というものを知らないのだろうか。頬を摘まむ手を叩いて止めるように促せば、あっさりと解放してくれる代わりに今度は手の甲を齧られた。いずれ本当にミーのことを食べる気なんじゃないか、とフランは少し不安になる。
「もう、何なんですかー…鬱陶しい」
「なーんかアップルパイ食いたくなってきたな。作ってよ、林檎ちゃん♪」
「変なあだ名つけないでくださいー。大体、作り方も知りませんしー」
「ネットで調べりゃすぐに出てくるだろ。な〜、王子アップルパイ食べたい〜」
「……めんどくせー…ちょっ何す…、わかりました、わかりましたよー。作ればいいんでしょー」
不満をぼやいた瞬間にがくがくと頭を激しく揺さ振られて酔いそうになる。まだベルフェゴールが起床して間もないというのに、既に一日分も振り回されたような疲労が押し寄せてきた。こうなるくらいなら最初から起きてこなければ良かったのに。一生寝てろ、と心中で毒突けば何故か頬を抓られた。この人は読心術でも心得ているのだろうかと時々訝る時がある。
「言っておきますけど、味は保証しませんからねー」
「レシピ通りに作れば失敗しねーだろ普通」
「全く、口で命令するばかりで自分じゃ動かないんですからー。そんなに怠けてると今に太りますよー」
「フラン相手にいつも運動してるから平気平気」
「……最低ですー。死んでくださいー」
「おっ、林檎が赤くなってる」
「ミーは林檎じゃありませんー…っな、に…するんですか」
後ろから巻き付いた腕がシャツの裾から侵入してきて思わず動揺する。直に肌理をなぞられるとぞわりと粟立って、誤魔化すようにベルフェゴールの手を叩き落とした。
「だって赤くなったら食べ頃じゃん」
「…やめてくださいー、そんなことするんだったらアップルパイ作りませんー」
「えー…じゃあ食べ終わった後にする」
「食べ終わった後も駄目ですーっ」
軽やかに飛び交う応酬が不穏めいたものになってきたのでベルフェゴールの腕から抜け出そうともがいた。こんな真っ昼間から冗談じゃない。アップルパイどころかまだ昼食にも有り付いていないというのに。
「…取り敢えず、お昼食べてからにしましょうー」
「飯食ったらいいの? 本当に?」
「…っそっちじゃなくてアップルパイの話ですー!」
「わかった。じゃあ飯食ってアップルパイも食った後な♪」
「……あー…もう、知りませんー」
がっちりとホールドされた状態で逃げることも出来ず、ベルフェゴールの腕の中でぐったりと項垂れた。横暴な其の人に辟易しつつも結局は面倒になって言うことを聞いてしまう自分自身にも呆れる。
そもそもこんなことになった原因はなんだったか。考えを巡らせた所で真っ先に浮かぶのはパインの飴。碌なもんじゃない、と何故か全く関係ない師匠の顔が出てきて余計にげんなりした。
今迄は何とも思っていなかった果実が、ベルフェゴールの所為であっという間に根強く心中に宿ってしまうことが悔しい。我ながら単純だと自嘲しながら、仕方なくレシピを検索する為にフランは携帯端末を手に取った。
アップル・メモリー20160507
*林檎の花言葉… 誘惑