勧誘という名の誘拐をされてから、無慈悲な変人達が集まるお笑い集団に身を据える羽目になった。
やたらと声がでかくて騒がしいロン毛に、くねくねと気味の悪いオカマ、暑苦しい髭面のオヤジ、威圧感だけはたっぷりの椅子と同化したボス。
そしてこの中でも最も質(たち)が悪くて、ミーの悩みの根源である金髪の悪魔。
何かと文句を付けてはナイフを投げてくるし、機嫌が悪い時に遭遇しようものなら殴るわ蹴るわで物騒極まりない超危険人物。
その上、自分の事を王子だと抜かす頭のイカレっぷり。メルヘンの世界に現れるキラキラとした王子様とは正反対の、堕落した王子。略して堕王子と命名。
任務の報告書を面倒だからという理由で押し付けてきたり、オフだと言うのにミーをあちこちに振り回したり。
何故か自分にばかり纏わりついてきて、気まぐれな囁き一つでミーを悪戯に翻弄する。本当に自分勝手で我が儘で最悪としか言いようがない人。
でも其れよりも最悪なのは、そんな堕王子に恋をしてしまっているミー自身だ。
**
前日の任務明けが零時を過ぎていた為、就寝して目が覚める頃には既に時計の針は昼近くを示していた。
もうこの時間では朝食というより昼飯になってしまうが、食べ損ねてしまうよりはマシだろう。寝ぼけた頭を叩き起こして談話室に向かえば、真っ先にルッスーリアが声を掛けてきた。筋肉質な体に纏ったふりふりの乙女エプロンは何時ものように見なかった事にする。
「あらぁ〜丁度良かった! ちょっとベルちゃんを起こしてきてくれない?」
「えーなんでミーがー。ルッスセンパイが起こしてくればいいじゃないですかー。その格好で行けばあまりのショックに目が覚めると思いますしー」
「今は火を使ってるから手が離せないのよぉ〜! どうせ待ってる間は暇なんだから、手伝って頂戴!」
ルッスーリアの言う通り、確かに今の自分は手持ち無沙汰だが肝心の起こしに行く相手が相手なだけに面倒なのだ。
そもそもベルフェゴールは何時だって、前日が任務だろうがオフだろうが関係なく昼近くまで寝ている事が多い。わざわざ過保護に面倒を見てやらずとも、あんな怠惰な人は勝手に寝かしておけばいいのに。
そんな文句を頭の中で吐きながら、結局未だに眠りこけているであろうベルフェゴールを起こしに行く為、フランは談話室を後にした。
部屋の扉を二回程ノックしても反応がなかったので、声を掛ける事もなく中にお邪魔した。
しんと静まり返った部屋の奥、寝室の扉をそっと開いて覗けば広々としたベッドの中央が膨らんでいるのが分かった。
わざとドスドスと音を立ててベッドに近づき、ベルフェゴールの体を揺さぶる。
「ベルセンパーイ、起きてくださーい」
「…………」
相変わらず分厚い前髪の所為で目を開けているのかいないのか分からないが、穏やかな寝息を立てているので恐らく夢の中だろう。声をかけても全く起きる気配がないので、目の前の体を更に激しく揺さぶって声を大きくする。
「ベールーセンパーイー起きてって言ってるでしょー」
「…………」
「…チッ、さっさと起きろーだおーじー…、っ!」
ヒュッ、と耳元を掠めた音に、咄嗟に息を呑む。
遅れて振り向けば、後方の壁に見慣れたナイフが突き刺さっていた。
じろりと睨みつけるようにベルフェゴールを見るが、当の彼はナイフを飛ばしたであろう右手をぱたりとシーツに落とし、すぅすぅと再び安らかな寝息を立て始めていて。
入隊したての頃、ベルフェゴールを起こす時に何故かルッスーリアがフライパンを片手に持っていくのが不思議だった。
理由を聞けば「彼は昔から目覚めが悪くて無理やり起こそうとすると寝ぼけて攻撃してくる事があるから」らしい。
しかも起きている時とは違って完全に寝ぼけているので加減を知らず、ナイフ対策にフライパンでも装備しなければ危険なのだと聞いて呆れつつも納得した。
「……はぁ、」
幹部の連中はベルフェゴールの寝癖が悪い事を知っているのだろう。だからこそ新米である自分に、面倒なこの人の起こし係を押し付けているのだ。
普通に揺さぶってもなかなか起きない上に危険なので、ベッドから突き落としでもすれば流石に目が覚めるだろうと思い付く。いい加減に起きろと意を込めてベルフェゴールに掛かったシーツを思い切り剥いだ瞬間、驚いた。
「っう、わ…」
突然、しなやかな筋肉の付いた裸体が目に飛び込んできて、思わず変な声が漏れる。流石に下着は付けていたようだが起こしに来る此方の身にもなって欲しい。
大きな胸板が呼吸と共に上下しているのを見て、着痩せするタイプなのかと思えばつい舌打ちが出た。見た目からしてベルフェゴールも自分と同じような細身だと思っていたのに、何だか勝手に裏切られた気分だ。
剥がしたシーツを掴んだ侭立ち尽くしていると、目の前の其の人が小さく唸って寝返りを打った。
今まで掛けていたシーツを取り上げたから肌寒さに目が覚めたのだろう。再び夢の中へ戻ってしまう前に声を掛ける。
「いい加減、起きてくださーい。もうお昼ですよー」
「…ぅ、…ん…」
「そのまま寝たら風邪引きますよー堕王子ー堕王子ー聞いてんのかー」
「……っせぇ、な…」
掠れたテノールボイスが苛立ちを含んだ音出す。
目覚めが悪いのともう一つ、この人は寝起き時の機嫌が最悪だという事を忘れていた。
これではヴァリアーの連中がベルフェゴールを起こしに行く事を嫌がるのがよく分かる。我が儘で横暴でキレたら手の付けようがない王子様の八つ当たりなんて受けたくないからだ。
心底気怠そうに上体を起こし、呑気に欠伸をしている其の人から意識的に視線を逸らした。
「…というか、服着てくださいよー」
「…あ? そんなんオレの勝手だろ。暑くて着てらんねーし」
のそのそとベッドから這い出し、服も着ずに寝室を出て行こうとする其の人。
普段から跳ねている癖毛が、今は寝癖で余計にボサボサになっているのが可笑しい。
「その格好でご飯食べるんですかー?」
「シャワー浴びてくる」
「もうとっくにお昼ご飯は出来てるんですよー」
「そんなの待たせときゃいいだろ」
昼近くまでぐうたら寝ていたくせに。とことんマイペースな堕王子だ、と呆れた風に其の背中を見送る。
とは言えベルフェゴールを起こすという役目は果たしたのだし、今度こそゆっくりと自分の昼飯に在り付こうと踵を返した。
「…あ、そーだ。おいカエル」
「はいー?」
「その辺に出てる服、全部洗濯に出しといて」
「…はー? なんでミーが堕王子なんかの雑用を…あだっ」
べしっ、と理不尽にカエル帽を叩かれ、じろりとベルフェゴールを見上げる。が、何故か先程とは打って変わって彼は口許に笑みを浮かべて上機嫌な様子だった。
「つべこべ言わずやれよ。お前はオレの世話係だろ? ししっ」
「…あれー? それ逆だったような気がするんですけどー…」
「んじゃ、ヨロシク。コレとソレと、あとアレも…」
ばっさばっさと音を立てて床に落ちていた服を投げてくるベルフェゴール。ただでさえ重くて邪魔なカエルの被り物の上に、雪のように服が積もっていく。赤黒ボーダー、紫黒ボーダー、緑黒ボーダー、ボーダーボーダーボーダー…
この人は囚人にでもなるつもりなのかと思うくらいに大量のボーダーシャツを投げつけられて、こっちまでシマシマになってしまう。
結局、人に服を押し付けて満足したベルフェゴールはバスルームに行ってしまい、残されたフランは眉を顰めて頭に乗った服を床に払い落とし、其の場を去ろうとしたが。
「……はぁ…」
重々しげに溜め息を吐けば、去りかけていた部屋に戻って散乱した服を拾い始める。
言い付けられた相手がベルフェゴールでなかったら当然の如く聞き流していただろうに。
後で文句を言われるのが面倒だというのもあるが、其れよりも惚れた弱みが一番の原因だろう。癪に障るがこればっかりは仕方がない。悪趣味な自分を恨むしかないと思った。
あちらこちらにだらしなく散らばったシャツを拾い上げ、洗面所から持ってきたバスケットに次々と放り投げていく。
部屋がすっきりと片付く頃には空っぽだったバスケットに大きな山が築き上げられていた。一体全体、何日分なのかこれは。
山盛りになったバスケットを抱え、不安定な足取りで幹部共有のランドリーに向かう。洗濯している間に昨夜行った任務の報告書を出してしまおうと隊長の姿を探した。
アジト内をうろうろと探し回り、漸く見つけた隊長は頭に観葉植物を被っていた。しかも鉢植えごと。
何があったのかは知らないが、どうやら怒りんぼのボスの機嫌を損ねてしまったらしい。昼間からパワハラ元いボスハラを受けている隊長を不憫に思いつつ、巻き込まれたくはないのでそそくさと二人の元を後にした。
もしかしたらあれが二人のコミュニケーションなのだろうか。そうだとしたらミーには到底、理解できない。
……と、思ったが、ベルセンパイがミーにナイフを投げるのも、ボスが隊長にグラスを投げるのも、同じようなものかと気づけば心なしか頭が痛くなった。
**
隊長に報告書を届けてから再びランドリーに向かう。
既に止まっている洗濯機から取り出した衣類を先程のバスケットに入れてベルフェゴールの部屋を目指した。洗濯物の山が視界を遮っている所為で足元が覚束無い。
慎重に階段を登って漸く目的の部屋の前までやってきた瞬間、ドアノブを引く前に扉が勢いよく開いて驚く。思わず後方によろけて尻餅を付くかと思ったが、腰に回された腕にしっかりと支えられたお陰で其れは免れた。
「あ、本当に洗濯したんだ? ししっ、イイコイイコ♪」
「本当に…って、センパイがやれって言ったんじゃないですかー」
いい子、だなんて子供扱いをするような褒め方でカエルの被り物を撫でてくる其の人。被り物越しとはいえ、優しく頭を撫でられていることに不覚にもどきりとしてしまう自分が憎い。
たったこれだけの事で、何を意識しているんだろう。
「で、なに?」
「なにじゃないですよー。ミーが怠惰なセンパイの代わりにわざわざ洗濯して持って来てあげたんですよー? お礼の一つでも言ったらどうなんですかー」
「ん、サンキュ。じゃあソレ干しといて。オレは飯食いに行ってくるから」
此方の返事も待たずに、全く心の籠もっていない感謝の言葉を投げ捨てて去っていく堕王子。
憎らしい背中に跳び蹴りを食らわしてやりたい衝動に駆られたが、短気で暴力的な堕王子とは違って理性的なミーは怒りをグッと堪えてやり過ごす。
意識しているのは此方だけで、きっとベルフェゴールは自分の事なんて雑用を引き受けてくれる便利な後輩ぐらいにしか思っていないだろう。今の冷めた対応が良い例だ。
そんな不遇を自覚すればする程、何だか胸がモヤモヤとして苦しくなってしまうから。もう余計な事は考えないようにと頭を振って心をリセットした。
今日何度目か分からない溜め息を吐き出し、少しばかり沈んだ気持ちを切り替えてベルフェゴールの部屋の扉を開けた。
**
ベランダに出れば、まさしく快晴と呼ぶに相応しい青空が広がっていた。
早速傍らに置いたバスケットからシャツを取り出して皺を伸ばし、竿に掛けようと手を伸ばしたが。
「……なんであんな高い所に…」
見れば竿の引っ掛かっている位置が異様に高く、精一杯背伸びをして爪先立ちをしてみても、ハンガーの端っこを持って腕を伸ばしてみても、後もう少しという所で届かない。
高々と頭上に存在する竿に眉を顰め、其れならば、と洗濯物を片手に腰を屈めて飛び上がる体勢に入った直後。
ひょい、と持っていた服を横から奪われ、其れまでの苦労は何だったのかと思うくらい簡単にハンガーを掛けられてしまった。
腕を追って振り向いた先に、意地悪な笑みを携えたベルフェゴールの姿。
「ししっ、なにしてんだよチビ」
「…チビじゃないですー。ミーは今が成長期なのでこれから大きくなるんですー」
「そ? オレがお前くらいの歳の時はもうお前よりでかかったけどな」
何時の間にか背後に立ち、嫌みな事を言って笑ってくる其の人をじろりと睨み上げる。
太陽に当たってキラキラとした金髪が眩しくて、綺麗で、ムカつく。
「ご飯食べに行ったんじゃなかったんですかー?」
「そうなんだけどさ、どっかのチビガエルがオレの部屋のベランダでぴょんぴょん跳ねてるトコが頭に浮かんできたから」
物干し竿を軽く叩きながら、此方を小馬鹿にするようなニヤニヤとした笑みを投げ掛けてくる悪魔。人の癇に障る言動の選出にかけては天才だ。
「そうですねーミーはミニマムなので届きませんしーこれじゃ洗濯物を干すのは無理だなーというわけでセンパイが自分でやってくれますー?」
それじゃサヨナラー、とベランダを後にしようと背を向ければ直ぐさま襟首を掴まれた。
「待てよ」
「なんですかー」
「だったらアレ使えばいーだろ」
アレ、と言いながらベルフェゴールが指を指したベランダの隅に、元々備え付けられていたであろう踏み台のような物があった。
あんな物を使わなくても、余裕で竿に手が届くベルフェゴール自身がさっさと片付けた方が早いのに。どうしてミーがわざわざ踏み台を使ってまでやらなくちゃいけないのか。
眉間に皺を寄せていると当然のように洗濯物を押し付けられ、部屋に戻ったベルフェゴールはベランダから見える位置にあるソファーに寝転がった。
溜め息を吐きそうになるのを堪えて仕方なく踏み台に上がり、煌々と照りつける太陽の光に瞳を細めながらバスケットから取り出したシャツを手際よく吊していく。
時折、風が吹く度に顔に纏わり付いてくる髪が邪魔くさいが文句も言わずせっせと干していった。
ぱたぱたと風に煽られてはためくシャツは自然光に似合わないビビッドカラーばかりで、バスケットの中が空になる頃にはこれ以上干せないくらいに物干し竿が満杯になっていた。
終わってから、やってやったと言わんばかりに振り向くと、ソファーに寝転んだ侭の彼は何故か口許を緩めて満足げな顔をしていた。
「やりましたよー。これで満足ですかー?」
「ん、ごくろ♪」
わざと恩着せがましく言いながら部屋に戻ると、相変わらずニヤニヤと気味の悪い笑顔を浮かべているベルフェゴールを不審に思い、訝しげな視線を送った。
「なんか、いいよな」
「なにがですかー?」
「オレの為にカエルが奮闘してる姿って」
「……つくづくベルセンパイは性悪だと思いますー」
何をご機嫌よろしく笑っているのかと思えば、次いで出た意地の悪い理由に呆れかえる。
この人はミーが苦しむ姿を見るのが楽しいのか、其れとも自分の思う通りにミーを従わせているのが嬉しいのか。どちらにしろ矢張り性悪だとしか言いようがない。
「文句言いながら何だかんだで聞いてくれるもんな。後輩って超便利♪」
「逆ギレされるのが面倒くさいから仕方なく聞いてあげてるんですー。それと後輩を奴隷か何かと勘違いしてませんー?」
「お前さ、オレに買われてみない?」
「はぁ?」
脈拍もなく突然そんなことを言われ、眉を寄せて頓狂な声をあげる。ヴァリアーに入隊してから其れなりの月日が経つがこの人の考えることは未だに理解出来ない。
「ミーは悪魔に魂は売りませんー」
「つまんねーの」
つまらない、と言いながら何故か楽しそうな声色で笑うベルセンパイ。従順な態度が好きなのか反抗的な態度が好きなのか。彼のツボは殆よく分からない。
「いきなりミーを買うとか意味が分からないですー、センパイは何がしたいんですかー」
「そりゃ勿論、カエルを買い取って一生使えるパシリにしたいだけ」
「うわーナチュラルに人身売買とかやめてくれますー?」
「王子の側にいられる口実ができて嬉しいだろ?」
さらりと発せられた言葉の一瞬、彼への好意が感づかれているのかと思いドキリとする。単にからかっただけなのかもしれないがベルフェゴールへの慕情を自覚している身としてはあまり心臓に良くない。
胸に過ぎった動揺を悟られてしまわないように努めて冷めた口調で咄嗟の防御壁を張る。
「いやいや1ミクロも嬉しくないんですけど自意識過剰も甚だしいですー。何を食べてどう過ごしたらそんなオメデタイ思考に育つんですかー?センパイの頭の中は常にお花畑ってことですかー?」
「…うっわ…カワイクねー…」
苦虫を噛み潰したように顔を顰めて見せた其の人は、今にも溜め息を吐きそうな様子で身を引いた。
可愛げが無いのは自覚している。しかし己の性格というのは直そうとして簡単に直せるものではないし、端から誰に言われようと正す気は毛頭ない。そもそも馬鹿にされるような阿呆なことしか言えない彼がいけないのだ。
何かを言いたげに何処か困ったような視線を向けてきたベルフェゴールが、徐にカエル帽を撫でてくる。
「もう少し素直だったら、可愛がってやるのに」
普段の扱いとはかけ離れた優しい手付きで頭を撫でられて、途端に胸の中心部が騒ぎ出す。表情には出ない動揺がぐるぐると頭の中を巡れば、本当の心と反発した憎まれ口が飛び出す。
「ベルセンパイに可愛がられても気持ち悪いんで嫌われてるくらいが丁度良いですー」
「…オレ、お前のこと嫌いなんて言ったっけ」
「直接口に出さなくても日頃の態度と嫌がらせの数々でわかりますー」
「へぇ。例えば?」
「ナイフ投げつけてきたり、雑用押し付けてきたりとかー」
「ふーん。他には?」
「チビとか言って馬鹿にしたり、嫌だって言ってるのに無理やり外に連れ回したりー」
「そんだけ?」
「…えっーと、…あ。ミーの取っておいたデザート勝手に食べたり…、っ…!?」
かぷっ、と効果音がつきそうな勢いで、突然、何の前触れもなく鼻をかじられた。
「なっ…なに、するんですかー!」
「うししっ♪ これも嫌がらせに入んの?」
「当たり前ですー意味わかんないですーミーの鼻は食べ物じゃありません…っ」
「ししっ、赤くなってやんの。珍しー」
「な、に言って…」
からかうように言われて初めて、己の頬が熱くなっていることに気づく。距離を取ろうと腰を引いたが、何故か手首を強く掴まれていて逃げ出すことも出来ずたじろいだ。
柔くかじられた鼻が、痛くもないのにじんじんと熱を持って痺れている。これだけの事で心荒波を起こしてしまう自分の未熟さがどうしようもなく悔しくて、ごしごしと鼻を擦れば余計に赤くなってしまった。
こんなこと、知られてはいけないのに。ベルフェゴールに伝わってしまったが最後、面倒な嫌がらせも気まぐれに受ける戯れも二度と叶わなくなってしまう。まるで此方の真意を見透かしているかのように意地悪なことを言って、悪戯に心を揺さぶってくる人。変なカエルを被せてくるのも、ナイフを投げてくるのも、子供扱いしてくるのも、馬鹿にするような口調も、嫌い、嫌い、嫌い。
――嫌いになりたいのに、大好きな人。
「お前、さ」
静かな響きを持ったテノールにぞくりと栗立った。
「そんなにオレのこと嫌いなら、近寄らなきゃいいのに」
「ミーは嫌いだなんて、」
口に出してから、はっとする。自らの失言を悔やむも遅かった。
「オレにばっかり刃向かってくるから嫌われてるのかと思ったけど、違うんだ?」
「……そうじゃなくて、あの」
「オレだってお前のこと嫌いなんて一度も言ったことねーだろ」
戯れ言ではなく、何処か真摯にも聞こえる口調で髪を掬われて体が硬直とする。何時も自分をからかうようにしてにんまりと笑う唇は静かに結ばれていて。
こんなベルフェゴールは知らない。じっと見つめられるだけで息が苦しくなってしまう。
なにか。なにか言葉を発さないと。自分とベルフェゴールを取り巻く空気が熱いような気がして、気まずさに俯くと上向かせるように顎を救われて心臓が跳ねた。
――其の時。
ぎゅる…ぎゅるる…
「……………」
「……………」
見つめ合った侭、訪れる沈黙。
突如鳴り響いた其の音源は、間違いなくフランの腹から発せられたものだった。
午前から午後に至るまでずっと、ベルフェゴールの雑用を引き受けた所為で昼ご飯を食べ損ねていたことを思い出し、其れと同時に顔が熱くなった。
張り詰めた糸が撓むように今迄の空気が緩んだのを感じれば、目の前のベルフェゴールが心底呆れた風に頭を掻く。
「……お前な、」
「な…なんですか、大体、ベルセンパイのせいでミーはご飯を食べ損ねて…」
「あーはいはい、悪かったな。超感謝してるって」
「…全く感謝の気持ちが伝わって来ないんですけどー」
「いいから飯食いに行くぞ。腹減ってんだろ」
ぎゅ、と当たり前のように握り込まれた手を引かれ、ベルフェゴールの背中を追う。足早に歩きながら堪えたように笑う其の人に気づき、腹が鳴ったことを馬鹿にされているのだと分かれば自然と顔が剥れた。
ベルフェゴールが何時も通りの雰囲気に戻ってくれてほっとした半面、感じた胸のざわめきは疑問を残した侭。彼から受けた言葉や眼差しを思い出せば、きっと自分は都合の良い期待を抱いてしまいそうになるから。
どきんどきんと煩く高鳴る心音が掌から伝わってしまわないように、繋がれた手をぶんぶんと乱暴に振り落として誤魔化した。
残念ながらべた惚れ20150303