short | ナノ

 


硝子越しに見上げた灰色の空から、ぽつりぽつりと降りてきた雨粒が嵩を増して降り注ぐ。

車から降りるというタイミングで降り始めるなんて間の悪い、と恨めしげに空を見つめながら黒塗りの車体から身を出した。
門前にいた見張りが一斉に頭を下げてくる中、部下の挨拶も無視して開かれた門を通過しようとした時。

雨の音で掻き消されそうなくらい小さな声ではあったが、ミィ、と確かに聞こえたか細い音を捕らえて目線を下げる。

其処には、ざかざかと降り頻る雨に打たれて濡れ細った毛玉が、己の直ぐ足元で此方を見上げていて。
一体、何時の間に現れたのか。小さいので無理はないが、其奴が一声鳴かなければオレは存在に気づかなかっただろう。
どうして猫がこんな人気のない物騒な場所にいるのかと其の薄汚れた体を見下ろしていれば、此方の様子に気づいた見張りが怪訝な顔をして近づいてきた。

「汚ねぇな…どこから来たんだ」

しっしっ、と手で追い払う仕草をする見張りには目もくれず、みー、と再び鳴いた猫が泥まみれの体でオレのブーツに擦り寄ってくる。
其の光景を目にした瞬間、オレの背後にいた部下が憤慨したように意気揚々と身を乗り出し、乱暴に猫を掴み上げて目の前の水溜まりに放り投げた。
衰弱していたのか咄嗟の受け身も取れず、無惨にも地面に叩き付けられた猫を見てオレは脚を振り上げる。

「ぅ、ぐっ…!」

ドスッ、と鈍い音を立てて部下の腹に蹴りを入れれば、気持ちの悪い呻き声を上げて蹲る其奴。

ブーツを汚されたオレの代わりに気を利かせてやったとでも思っているのだろうか。指示もしてないのに勝手にしゃしゃり出て、上に気に入られようと媚びる奴の典型だ。こういう調子に乗った勘違い野郎は王子の嫌いなタイプ。
気に入らない部下と仕事なんてしたくないから此の場で殺そうかとも思ったが、ザコ相手に時間を裂くのも馬鹿馬鹿しいように思えて、止めた。
邪魔、と言って未だに丸まった部下を蹴り飛ばし、身震いをしながら起き上がった猫に近づいた。

絶え間ない雨に打たれて寒さに震える小さな体の前に身を屈めれば、投げられたにも拘わらずきょとんとオレを見上げてくる呑気な面に笑みが浮かぶ。

「…ししっ、ホントきったねーな」

そんな事を呟きながら、降り注ぐ雨を塞ぐように隊服のジャケットを大きく掲げた。


**


被っていたフードを取り払い、脱衣場に向かう。
無理やり閉めた隊服の前が窮屈そうにもこもこと動くので、漸く合わせ目を解いてやればぴょこりと二つの耳が顔を出した。
きょろきょろと不思議そうに辺りを見渡す猫を持ち上げて、其の汚れた小さな体をタイルの床に降ろす。

幹部の輩に見つかったら何かと面倒なので、服で隠しながら漸く自室まで連れて来たは良いものの。お陰で此方の隊服まで泥だらけになってしまった。
後でルッスーリアに洗濯を押し付けてやろう等と考えながらシャワーのコックを捻ねれば、突然降り注いだ水に驚いたらしい猫が即座に逃げようとする。

「っおいコラ、暴れんな」

先程は散々雨に打たれても平気な面をしていたくせに、と首根っこを掴んで常温にしたシャワーを当ててやる。
猫が湯に慣れるまでの数分間、ばたばたと暴れる其奴との長い格闘の末、漸く其の体に付着した汚れを洗い落とす事が出来た。
ぼさぼさに固まっていた毛は解れ、灰色だった体はすっかり白くなり、どうやら白猫だったという事に其処で気がつく。体が極端に細いのは濡れているからなのだろうと思っていたが、毛を乾かした後も其の酷く痩せた様子は変わらなかった。
捨てられたのか、元々の野良なのかは知らないが、どうせ禄な物は食べていないだろうと冷蔵庫を漁ろうとした時。

ドンドン、と荒々しく叩かれた扉に、思わず顔を顰める。

猫を部屋の奥へ誘導してから扉を半分だけ開ければ、眉間に皺を寄せたスクアーロが其処に立っていた。

「…何?」

「…っ何じゃねぇえ!! 許可してねえのに勝手に帰りやがって! てめぇが先陣切って終わらせた後はサポートに回れって言っただろうがぁ!」

「つーか、あんなザコに二人も幹部いらないっしょ? オレが好きに殺れんなら手伝ってやっても良かったけど、他人のサポートだけとかやる気しないし」

「…な、ま言ってんじゃねえぞガキがぁああ!!」

キーンと鼓膜が震える程に耳元で怒鳴られ、露骨に顔を歪ませて耳を塞ぐ。そんな此方の態度に余計に怒りを募らせたらしいスクアーロが、小言を更に積み重ねてマシンガンのように喋り始めた。

雨のように降ってくる説教の嵐を右から左へと聞き流していれば足元にもさりとした感触が訪れて、ちらりと目線を落とした先に部屋の奥へと追いやった筈の猫がいた。

わざわざ隠して此処まで連れてきたのに、今見つかってしまったら元も子もない。
任務を途中ですっぽかしたくせに猫を拾っている暇はあったのか、と火に油を注ぐ最悪の展開になってしまう。
スクアーロが説教に夢中になってる隙にしっしっ、と脚で猫を押し戻すが、人間の事情など知らない其奴はなかなか部屋に戻ってはくれず。
仕舞いには不思議そうにオレとスクアーロの顔を見上げた猫が、みーみーと鳴き出した。

まずい、と即座に扉を閉めて鍵を掛ければ、壁一枚を隔てた向こう側からスクアーロの怒鳴り声が上がる。
報告書書くから説教の続きはそん時にしてー、と適当な言葉を投げ掛ければ、何事かを叫んだのちにドアを一蹴りされ、騒々しく立ち去る音がした。

「…ったく、タイミングわりー」

一時の気まぐれで連れ込んだは良いものの、矢張り隠すのは容易でないように思えてどうにも面倒くさい気持ちが過ぎる。
しかし今更、此の豪雨の中に投げ出す訳にもいかなかった。
忌々しげに呟いて猫を見やれば、其奴は尚も変わらずみーみーと煩く鳴いている。
もしかしたら腹が減っているのだろうか。そう思ってもう一度冷蔵庫を覗いてみるが、与えられるものと言えば今は牛乳くらいしか無かった。

浅めの皿に適量を注いで目の前の床に置いてやれば、匂いを嗅ぐような仕草を見せた後、其奴はちろちろと控えめに舌をつけ始めた。
最初は味を確かめるような飲み方だったがどうやら安全なものだと分かったらしく、夢中になって喉を潤す猫を見ていればやたらと牛乳が美味そうな物に見えてくる。
そっと頭に手を差し出して撫でてやっても食事に夢中で何の反応も示さない猫に無意識にも口許が緩んだ。

「…ほー、可愛いですねー」

突然、間延びした声が聞こえてきて、ばっと勢い良く振り向く。
一体、何時の間に現れたのか。真隣に見慣れた後輩の姿があった。

部屋に侵入されているというのに、まるで気づけなかった自分に少しばかりのプライドが憤る。普段なら感づく筈なのに猫に気を取られて他人に背後を許すだなんて、暗殺者らしからぬ間抜けさだ。
そんな此方の思いなど知らず、当のフランは事も無さげにオレが撫でていた猫の頭を代わりに撫で始めていて。

其れとも、相手がフランだったからなのか。思えば此奴も寝ている時、オレが勝手に部屋に入って同じベッドに潜り込もうと目を覚まさない時がある。恋仲故の油断なのだろうか。フランがオレに気を許すなら兎も角、此のオレまで感化されているなんて。何だか少し、悔しいような。

猫の頭を撫でるフランのカエル頭を軽く小突けば、いてー、と大して痛くも無さそうな声が上がる。

「ベルセンパイ、ずるいですー。なんで拾ったこと教えてくれないんですかー」

「ずるい? …別に、お前には後で教えるつもりだったけど。取り敢えず先に体洗わなきゃ部屋が泥だらけになるだろ」

「あー、なるほど。ただでさえ汚いセンパイの部屋が更に汚くなっちゃいますもんねー…いたっ」

何時もの如く生意気な物言いに制裁を加えるべく、ぼこっ、と音を立ててカエルの頭に拳をめり込ませる。
ゲロー…と潰れたような鈍い声を無視していると、何時の間にか牛乳を飲み終えたらしい猫が此方を見上げていた。毛が白いので口周りは目立たないが、きっと牛乳でべたべたなのだろうとティッシュで拭ってやる。
にぃ、と鳴いた猫は先程よりも心なしか元気になったようで、床にしゃがむオレの脚に体を擦り寄せてきた。

其の様子を見たフランが、不思議そうに小首を傾げる。

「…なんかこの猫、ベルセンパイが気に入ってるみたいですねー」

「なにそれ。お前、猫の気持ちが分かんの?」

「いや分かりませんけどー。拾ったばかりにしては慣れてるような気がしたんで」

そう言われてみれば門前で見つけた時も、大勢の部下がいる中で何故か此奴は真っ直ぐオレに向かってきた事を思い出す。
好かれる要因なんてないし、猫は気まぐれだと言うから単なる気まぐれでオレを選んで寄ってきたのかもしれない。

足元に擦り寄る猫の額をぐりぐりと乱暴に撫でてやれば、其奴は気持ち良さそうに硝子玉のような瞳を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。

「あ、もしかしてー。ベルセンパイのこと仲間だと思ってるんじゃないですかー」

オレと猫のやり取りを見ていたフランが、突然可笑しな事を言い出す。

「は? なんだよそれ。こんな毛玉と一緒にすんなし!」

「だってベルセンパイって、どっちかと言えば犬より猫っぽいしー。まぁセンパイみたいに我が儘で餌代食うだけの可愛げゼロな堕猫だったら飼いたくもないですけどー」

「堕猫ってなんだよ! だから猫扱いすんなクソガエルっ」

「だったらミーのこともカエル扱いしないで欲しいんですけどねー」

生意気なチビガエルの言動に苛つくオレの事など気にも掛けず、今度はミーにも抱っこさせてくださいー、とフランが手を伸ばしてくる。
仕方なく脚にぴったりと密着している猫を引き剥がし、首根っこを掴んで隣に渡せば乏しい表情を少しばかり綻ばせて猫を大事そうに抱き抱える其奴。

「あ…ふわふわで柔らかいですー」

そう言いながら、嬉しそうに真っ白な毛並みに頬擦りをするフラン。
…此奴の可愛げのある表情とか、珍しいかも。
生意気でしか無かった先程までとのギャップに此方がきゅんと来てしまう始末。
お前の方が可愛い、と完全に惚れ気にも似たアホな事を考えていれば、猫を抱き上げたフランが飼うんですかー?と問いかけてきた。

「いや、飼わねーよ。弱ってるから回復するまでは置いといてやるつもりだけど」

「えー…飼いましょうよー」

「んなこと言ったって、任務ん時どうすんだよ。長い間部屋に放置はできねーぞ。まだちっせぇし」

可愛いだけじゃ飼えない、と何処かで聞いた言葉を思い出し、不貞腐れたような其奴を諭す。オレの言葉を受けて、それならと思い付いたようにフランが人差し指を立てた。

「隊長を上手く言いくるめて、お互いの任務が重ならないようにすればいいんじゃないですかー? そしたらベルセンパイがいない時にミーが預かれますしー」

名案ですー、と自慢気に口にするフランに顔を顰め、何処が名案だっつの、と不平を漏らす。

「それじゃお前と一緒の任務がなくなるじゃん。ぜってーヤダ」

「……ワガママな堕王子ですねー」

つんと此方から視線を逸らして、猫に愚痴を零すかのように頭を下げるフラン。
一瞬の内に赤らめた頬を上手く隠したつもりなのだろうか。そんなものオレの前では無意味だと言うのに。
みーみーと先程まで忙しなく鳴いていた猫が、フランの腕に抱かれた途端大人しくなる。くぁ、と欠伸をすれば、まだ幼いにも拘わらずしっかりと尖った歯が見えた。

時間も時間であるし、そろそろ寝に入る事に合意して立ち上がった瞬間、フランの腕からするりと猫が抜け出した。

「もう寝るからお前も来いよ、猫」

「猫、って…なんですかそれー。安直すぎですー、ミンクーとかネコーとか。名前でも付けたらどうですかー」

「考えんのめんどくせーし。猫は猫だろ」

寝室の扉を開けて再び呼べば、耳を震わせた其奴がぴんと尻尾を立てて軽やかな足取りでオレの側に寄ってくる。聞き分けの良い奴は嫌いじゃない。

出会ったばかりで妙に手馴れた態度を不審に思ったらしいフランが、やっぱりセンパイは猫ですーと妬いたように憎まれ口を叩いてくる。二人の脚を擦り抜けて寝室に猫が入ったのを確認して、フランの背中を蹴り飛ばした。

「だーから…、毛玉と一緒にすんなっ」

「げろっ…!ぶ、」

ボフンッ、と思い切りベッドに投げ出された其奴の上に素早く乗り上げ、ばたつく細い身体に体重をかける。
首筋に鼻先を埋めてぎゅうと抱き締めれば、戸惑うような気配がフランから漂って来るのを感じた。

「……どう、しましたー?」

「…んー、…別に?」

猫を拾った一連の出来事ですっかり忘れていたが、連日任務が重なっていた為こうしてお互いに顔を合わせるのは久し振りだった。
ぐりぐりと甘えるように擦り寄れば控えめに髪を撫でられて、不意にフランが小さく笑みを零したような気がした。

「…なんだよ、」

「…なんでもないですー。しかし大きな猫ですねー化け猫かなーよしよしー」

「……お前、何度言わせんの。いい加減にしないと刺すよ?」

金色の髪を撫でられながら小馬鹿にするような口振りに口角が引き攣る。
チラリとナイフをちらつかせて脅せば、冗談なのにーと可愛げのない無表情で返された。
どうしてフランがオレと猫を重ねるのかは分からないが、どうにも癪に障って目の前の白く透き通った首筋に噛み付けば、途端にカエルの心地良い悲鳴が耳に届く。

小さな身体を組み伏せて、噛んだ箇所を今度は労るように優しく舐めあげてやり、ちゅう、と密事を思わせるような音を立てて吸い付けば震えるように身を捩らせたフランが悩ましげな吐息を漏らした。

先程まで悪態を返し合っていた筈のお互いを取り囲む空気が一瞬の内に熱くなり、そっと身体を起こしてフランの頬を包み込む。
すり、と甘えるようにオレの掌に頬を寄せてくる其奴の仕草に思わず腰が疼き、ぷっくりと膨らんだ唇に誘われて顔を寄せた。

「…っん、…せん、ぱ…」

「フラン…」

ちゅ、ちゅ、と鳥が啄むような口付けを深めていけば、くすぐったいです、と何処か恥ずかしげに紡がれた科白に頭の芯がとろけていくような気がして。
恋人から漂う蜜な雰囲気から其れ以上の事に及べると確信し、立てた膝に重心をかけて目の前の体に覆い被さった其の時。

にぃ、と足元から聞こえてきた声に反応し、ちろりと顔を向ける。
何やらシーツに爪を立てて、どうにかベッドに攀じ登ろうと奮闘している子猫の存在を認識すれば思わず眉間に皺を寄せた。

「……邪魔すんなよ」

しっしっ、と掌で追い払う仕草を見せるが、そんな此方の都合など知ったことかと子猫は未だに煩く鳴いている。

火照り始めた身体にぼんやりとした目を向けていたフランも気が付き、途端にベルフェゴールを押し退けて起き上がった。

「……おい、」

「あー、こっちに来たいんですねー。よしよし、おいでー」

「………」

よいしょ、とベッドの下でもたつく猫を抱き上げたフランが、頬を緩めてあやすような口振りになる。
そんな一人と一匹の様子を見て、面白くないとでも言うようにベルフェゴールは口をへの字に曲げて押し黙った。

「そんな構わなくても、餌あげときゃ勝手に生きるだろ」

「まだ子猫なんですから甘えたい盛りなんですよー。拾ったからには可愛がってやる責任がありますー。ねー」

「……あー、そう…」

ぱたぱた、と尻尾を揺らした子猫が、フランの腕の中で安心したかのように喉を鳴らす。つぶらな瞳を糸のように細めたかと思えば、くあ、と大きな欠伸を一つ。

きっと雨の中歩き回って疲れたんですね、と猫を抱えたまま横になるフランを見ながら、すっかり蚊帳の外へと放り出されたベルフェゴールはぽりぽりと頭を掻いた。

「……で、恋人は甘やかしてくんないの?」

「えー…、…またの機会ということで…」

「分かった。やっぱりそいつ捨ててくる」

「あっ…なにするんですかー!」

可愛い恋人から大事そうに抱き抱えられる猫に醜い嫉妬を覚え、首根っこを捕まえてフランから奪い去る。が、途端に飛んできた抗議の声と共に、直ぐさま猫を取り返された。
乱暴な人は嫌ですねー、とあやすような口調で猫に話しかけ、其の侭オレから完全に背を向けて寝の体勢に入り始めるフラン。

…可笑しい。こんな筈じゃなかったのに。

何となくの気まぐれで情けを掛けてやった毛玉なんかに、恋人を奪われるという最悪の仕打ちを誰が想像しただろうか。まるで恩を仇で返された気分だ。フランを盗られると分かっていたら、最初からこんな畜生は拾わなかったのに。

嬉しそうに子猫を抱き締めるフランの姿に気が遠くなるのを感じながら、ベルフェゴールは一人枕に突っ伏したのだった。







20140825


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