short | ナノ

 


瞼の裏へと差し込んだ光に意識が覚醒され、瞳を開く。
カーテンの隙間から覗く朝日に照らされた前髪がきらきらと瞬いていて、己の物ながら眩しいと顔を顰めた。

今日は、休みであったか。
其れにしても、何だかとても長い夢を見ていたような気がする。

寝ぼけた思考を働かせて頭の中のスケジュールを辿る。記憶に間違いがなければ矢張り本日は休みである筈だ。
一人で寝るには広すぎるベッドから這い出し、就寝している間によれてしまったボーダーシャツとスウェットのパンツを取り替える。何時もの気まぐれで今日の寝癖は確認せず、寝ぼけ眼を擦りながらベルフェゴールは自室を出た。


**


ふわりと鼻腔を擽るコーヒーの香りと、食器を並べる朝の音。
談話室の扉を開けた瞬間、あら、と少し驚いたような声が第一にかけられた。

「ベルちゃんが早起きするなんて、珍しいわね」

意外だと言わんばかりのルッスーリアの声にムッとしつつ、別になんとなく目が覚めただけだし、と唇を尖らせて返す。
はいはい、と軽く返事をしてくる声の方向に鼻を鳴らして何時もの指定席に腰を下ろした。

「いつもこうなら、起こしに行かなきゃならない人間も助かるんだけどね」

「…あーいつもいつも朝からうっせー、オカマもクソチビも…」

其の小さな体に合わせて座高を高くさせた例のスペシャルシートに座り、既にフォークを片手に朝食に在り付いているマーモン。
向かいには黙々と咀嚼する見慣れた髭面のムッツリ。
キッチンの方で立ちながらコーヒーを淹れているのはロン毛。
オカマは皆の朝食作りに精進している。
ボスは何時もの如く不在。そして、

「――………、」

あれ、と程なく首を傾げる。

何か一つ、欠けているような気がして、其の疑問を抱いた自分自身にも違和感を感じた。
そう言えば何時もは皆任務がばらばらの為、こうして幹部の殆どが揃って朝食を囲むのは稀である。ほんの一瞬、謎の違和感を感じたのは、そんな状況の違いから来る些細な事だったのだろう。

――深く気にすることでも、ないか。


「はい、ベルちゃん♪」

ルッスーリアの声と共に、目の前に差し出されたコーヒーと朝食のラインナップに意識を戻されて視線を向ける。
とろりとした艶やかなジャムを手に取る前に良い香りに誘われてコーヒーカップに腕を伸ばしたが、香りを楽しむまでもなく口を付けた所で予想以上の熱さに驚き、遠ざける。

「っあ、ちぃ」

「あらぁ、熱かった?」

「そそっかしいんだから気をつけなよ」

「っるせー、コーヒーも飲めないガキは黙ってろっつーの…、」

其の時。突如として己の思考が弾かれたように浮き上がり、フォークを持った指先がぴたりと動きを止める。

窓硝子から差し込む太陽が異様に眩しくて、ちかちかと目の前にシグナルのような光が燦爛する。視界が不自然にぐにゃりと歪めば、地に脚が着いていないような違和感が訪れた。
10年以上も前から変わらない光景である筈なのに、何かが、何かが違っているような。
ざわざわと忽ち胸奥に立ち込める不穏な靄の正体も分からず、気持ちの悪い不調和に支(つか)える喉を鳴らし、乾いた唾を飲み込んだ。

――オレは、何かを忘れているような気がする。



ベルちゃん、とルッスーリアが呼ぶ声に反応を示すまでにも僅かな時間がかかり、はっとして顔を上げた。

「実はね…それ食べ終わったら、ベルちゃんにお使いを頼みたいのよ〜」

「…は? なんでオレなわけ。よりによって王子をパシリに使うのかよ」

「だぁって、ベルちゃん以外のみんなは任務が入ってるのよぉ〜! 私はこれから部下の子達と打ち合わせする予定だし〜!ねっ!お・ね・が・い」

くねくねと筋肉質な体をくねらせて近づいてくるオカマに一抹の恐怖を覚え、すかさず脚を振り上げる。ドブゥッ!っと、痛烈な蹴りを腹に受けて悶えるオカマを余所に、どうせお前暇だろぉと馬鹿にしたような口調のスクアーロにはナイフを飛ばす。

今日は気持ちの良い天気だから出歩くのも悪くないよ、と遠回しに諭してくるマーモンの発言には一番納得がいったものだから。
確かにそうかもな、と気まぐれな方向に思考が傾く頃には、一連の会話の所為で感じた既視感の事も薄れていた。


**


なだらかな坂道を、軽い足取りで下る。

石造りの不格好な階段を降りて漸く地面が平らになる頃には、見当たらなかった人影もちらほらと姿を表すようになっていた。
ポケットに両手を突っ込んだ侭、歩きながら何となしに周りを見渡す。朝という時間帯も関係するのか、比較的若者よりも歳のいった人間が多いような気がした。一般人の生活サイクルを把握していないベルフェゴールにとっては、其れも直ぐにどうでも良くなったが。

店が立ち並ぶ辺りにやって来た所で、買うものは何だったかと思い出す。先程のルッスーリアの言葉を簡略してしまえば、林檎や檸檬、その他諸々の果物だ。
もしも持ち運びに苦悶するような物を頼まれていたなら拒否する所だったが、果物の類なら大した事は無いし、散歩の類も考えに入れて承諾した。

店先にずらりと並ぶフルーツの数々を目で追いながら目的の物のみを探し出す。途中で店の者にいらっしゃい、と挨拶をされたような気がしたが顔は向けなかった。
レンガの道をふらふらと迂回した所で真っ赤な果実が視界に入って足を止める。先に見つけた此方を買ってしまおうと、奥に引っ込んだ店主を呼ぼうとした時。

「っあ、」

ドン、と肩に軽い衝撃が訪れ、ばさりと何かが地面に落ちる音。

突然の出来事に驚くよりも先に、此の自分にぶつかるなんて何処の不躾者だ、と若干の不愉快さを感じながら反射的に顔を向けた刹那。


視界に其の姿を捉えた瞬間、全身の血が駆け巡るように胸の中心部がどくんと脈を打った。

艶やかな翡翠を纏った髪と、深遠と影を携えた深い緑に沈む双眸。
はっとしたようにオレを見つめる其の瞳に捕らわれた直後、地面がぐらりと揺らぐような錯覚に陥り、息を呑んで立ち尽くす。

「…あ、すみません」

一瞬、時が止まったかのように感じたのはオレだけだったのか。

何てこともないように言葉を発する目の前の人物に意識を引き戻されて、遅れた酸素を取り込む。
申し訳なさなど微塵にも感じていないような棒読みで謝罪を口にしてきた其奴は、オレに向かって軽く頭を下げてきた。

ぼんやりとした表情の緑髪の其奴は何も言葉を返さないオレを全く気にしていない様子で、無言の侭屈んだかと思えば地面に散らばった林檎を拾い、脇にある茶色の紙袋に投げ入れた。
どうやらぶつかった拍子に購入した大量の林檎を地面にぶちまけてしまったらしいと、其処で漸く気がつく。
何時もなら、例え全面的に此方の不注意だったとしてもオレは謝りもせずに其処から立ち去っているだろう。
そうやって逡巡したのも僅かな時間、例の、気まぐれという名の衝動がオレを突き動かした。

緑色の旋毛を暫く見下ろしたのちにオレは其の場に屈み込んで、目の前の其奴が抱えた袋に林檎を戻す作業を始める。
此方の行動にぱちぱちと瞳を瞬かせたように見えた其奴が、すみません、とまた同じ台詞を口にした。

脇を通り過ぎ去って行く通行人の目も気にせず、無言で転がった果実を二人で拾い集める。
其の侭全てを回収し終わって、掌を払い面と向かい合えば、翡翠色の瞳と再び視線が交わった。

立ち上がって改めて目の前の姿を見てみると、随分と小柄な人物だったという事に気づく。白く透き通るような肌と端麗な顔立ちに一瞬性別を疑うが、つい先程発した声の低さから連想するに男だろう。
くすんだシンプルなパーカーに色褪せたサルエルパンツ。擦り切れたスニーカーの踵を素足で踏んでいて、もしかしたら家が貧しいのかもしれないと勝手な想像をした。

無意識の内にまじまじと見つめていたのを不審に思われたのか、見知らぬ其奴に眉を寄せられた、ような気がする。

「あの、すみませんでした。拾ってくれてどうもですー」

間延びしたやる気の無さそうな声と共に、ぺこりと頭を下げられる。それじゃあ、と直ぐに背を向けて去っていこうとする気配を感じて、オレは思わず其奴を引き止めていた。

「…なんですかー?」

「あ、いや…、お前…どっかで会ったことある?」

引き止めた事に理由は無かった為、咄嗟にぎこちなく質問を投げかける。が、見ず知らずの其の少年に謎の既視感を感じていたのは確かだった。
突然の問いにてっきり訝しげな反応を返されるだろうと予想していたが、意外にも其奴は不思議そうに首を傾けるとじっと思案するように見つめてきた。

「……さあ。どこかで会いましたっけー? ミーの記憶にはないですけどー」

「……あぁ、そう」

問いかけたのは此方なのに素っ気ない返事をして黙り込めば、目の前の其奴も釣られたように黙り込む。

デジャヴを覚えていたのは間違いないが、はっきりと此の記憶に残っているわけでもない。また仮に、一度何処かで会っていたとしても、こんな目立つ髪色の人間はそうそう忘れないだろう。

――忘れない、だろうとは思うけれど。



言葉を無くして向かい合った侭、お互いに身動ぎもせずに立ち竦む。
別れるタイミングを失ったわけでもないだろうが、何故か其の場から動くことが出来なかった。

ぽつんと伸びる影を置き去りにして、周りを取り囲む声すらも遠くから響いているような気がした。

何を考えているのか頓と見当もつかない無表情が、正確には其の唇が開くまでの間、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

それじゃあ、と今度こそオレから背を向けて去って行く少年の後ろ姿を見つめて、自分も身を翻した。


心の中に靄が立ち込めるような蟠りを感じながら、無意識の内に歩を進める動作が早くなる。
朝、目覚めて、何時もの面子と顔を合わせて、朝食が出てきた辺りよりもずっとずっと前から。何かを忘れているような、何かが違っているような感覚が気持ち悪くて、どうにかして思い出そうとしても矢張り何も思い出せなくて。
肝心な記憶の一部分だけがすっぽりと抜け落ちてしまったような後味の悪さに苛立っても此の身を覆う焦慮感は消えてくれない。

不意に足早に進めていた歩みをぴたりと止めて、己の足元を見つめる。
自分自身を取り巻く此の世界が歪んでいるようだと気づいた事を、つい先程までは確かに忘れていた。

見知らぬ彼奴に、出会うまでは。

自分の言葉を頭の中で反芻すれば何かが弾けたようにはっとなり、靴先を向いていた方向とは逆に踵を返す。
もう既にいなくなってしまったかと思ったが、未だ遠くに見える翡翠色の髪を視界に捉えた瞬間、まだ間に合う、と頭の中で響いた誰のかも分からぬ声に突き動かされて、オレは駆け出していた。

どくんどくん、と異様なまでに逸る心音が、早くしろ、早くしろと急かすように警笛を鳴らし、正体も分からぬ焦りが全身を覆い始める。
ぐんぐんと縮む距離と共に遠ざかって行く筈の背中が俄に大きくなり、突如として駆られた衝動が逃すまいと胸中で叫んだ。

一体、自分の中で何が起こったのかも分からないというのに。此のざわめきの正体を、あの見ず知らずの少年が解き明かしてくれるような気がしてならなかった。

眼前に迫った其の背中を捕らえるように細い腕を引っ掴めば、驚き、振り向いて。
息を切らすオレの姿を確かに映したエメラルドが、じわりと揺れるように見開いた。

「……っお前の、名前は…っ」










20140601


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