中庭に植えられた桜の木が新緑に変わり、既に燦々とした太陽の光が夏の予兆を感じさせた。
黒板の前で理論整然と語る教師は相変わらず窮屈そうなスーツを羽織り、見ている此方側が暑いと錯覚する。
ぼんやりと頬杖を着いた侭、視線をずらした先で、硝子窓にぺたりと貼り付く小さな虫が視界に入った。
丸みを帯びて幾つもの足を持つ其の虫は俗に言う天道虫というものだったが、赤と黒の可愛らしい水玉模様の翅が見えなければ正直愛らしいとは思えない。
目の端に聳え立った木の葉がざわざわと揺れ、吹き抜けた風に飛ばされるように天道虫は翅を広げて舞い上がった。
「フラン」
突如、名を呼ばれている事に気がついてはっと顔を上げる。
クラスメイトの視線がちらほらと自分に集中しており、先程の教師が眉間に皺を寄せて此方を見据えていた。
授業は上の空で窓の外を眺めていた事への注意なのか。将又、何か問題を当てられでもしたのだろうか。前者なら兎も角、後者であったらまずい。
此方の間の抜けた反応を見て、矢張り聞いていなかったのか、と言いたげに教師が訝しげな視線を向けてくる。何か言葉を発さなければ、と開いたまま其の役割を成していない教科書に目線を落とした瞬間。
がらがらがら、と扉の開く音が教室内に響き、此方に向けられていた視線が一斉に後方の扉へと移る。
其処には、気怠そうに鞄を後ろ手に持ち、堂々と遅刻をしてきた奴の姿。故意に下げられたネクタイは彼の反抗心を表すようで、何より一際目立つ其の金髪は真昼間の太陽に反映して眩しかった。
途端に男子生徒は逃げるように視線を逸らし、女子生徒は羨望の眼差しを向けるのが恒例の儀式のようになりつつあり、其れがまた奇妙である。
断りもなく途中参加をしてきた生徒がベルフェゴールだという事を認識した途端に、教師は何事もなかったかのように黒板に向き直って授業を再開させた。関わりたくない、と背中が語っているようだった。
当の本人は向けられる視線をまるで気にしていない様子で、無造作に鞄を机の脇に放り投げれば、どさりと寄りかかるようにフランの真隣の席に腰を降ろしてきた。一々音を立てなければ、此の男は動けないのだろうか。
じろりと隣に視線を寄越すと、直ぐさま其れに気づいたベルフェゴールがニヤリと白い歯を覗かせた。
「先輩におはようございます、は?」
「……おはようございますの時間帯はとっくに過ぎてるんですけどー」
「ししっ」
何が可笑しいのか、相変わらず特徴的な笑い声を洩らして、彼は背を沈める。
頭一つ分高く、此方を見下ろすように視線を合わせるベルフェゴールは、フランや此のクラスの生徒より一つ年上だった。
頭脳明晰で、本来ならば同学年である双子の兄と同じく学園一の成績トップを保持しているにも拘わらず、やんちゃな素行に加えて出席日数が足りず、未だ二年生に留まっているらしい。
今頃、彼の同級生達は大学受験だのと慌ただしい時期であるだろうに、実に呑気なものだと思った。
「フラン。今日の昼飯、屋上行こうぜ」
「………前々から思ってたんですけど、センパイって友達いないんですかー?」
「は?」
訝しげに、というよりは素直な疑問として声を上げた。
幾ら留年をしていると言っても、お昼時くらいは仲の良い同級生達と連めば良いものを。毎日のように、何故か只の後輩である自分ばかりに声をかけてくる。
確かにベルフェゴールの性格上、同性に好かれるようなタイプではなさそうだが、容姿端麗である分言い寄ってくる異性は絶えないと思うし、偶々同じクラスで隣の席になっただけの自分が、何故此処まで懐かれてしまったのか。甚だ疑問な訳で。
「なぁ、もう腹へったから抜けよーぜ」
「……あのですねー、大体今来たばっかでしょー? あんたは何しに学校来てるんですか、ご飯食べるためですかー」
「…んー、まぁ、強ち外れでもねーけど――強いて言えば」
ぴっ、と突然向けられた人差し指が、フランの鼻先に焦点する。
「お前」
そう言って、彼は悪戯を仕掛けた子供のような笑みを零す。
発せられた言葉の意味を咄嗟に理解する事が出来ず、ぽかんと呆けたように目の前の指先を見つめるしかなかった。
「……だからさ」
くるくる、と蜻蛉を惑わすように、ベルフェゴールは人差し指を彷徨わせる。
金色の糸から覗いた青い瞳と視線が重なり、普段は窺えない深海のような其れに見据えられ、心臓が大きく音を立てる。
「オレがきちんと登校するかどうかは、お前にかかってんの」
分かる?と、幼子(おなさご)を諭すように向けられた問いを、心の中で反芻する。
今迄ぐるぐると渦巻いていた疑問が、元通りの型にはまっていくような。気づいてしまってはいけないのに、投げ掛けられた言葉の意味を理解してしまいそうな自分がいる。
中庭に立ち並んだ桜の木々が風に煽られ、ざわざわと囁く音が、やけに遠くで響いているような感覚がした。
「……意味、わかんないんですけどー」
独り言を発するくらいな小さな声でそう呟き、半ば逃げるように差し向けられた指先から視線を逸らす。
途端に何か言いたげな様子でベルフェゴールは唇を開きかけたが、其れも結局、途中で閉ざしてしまった。
さわさわ、と暖かな風に煽られ、沈黙が訪れる。
じっと此方の横顔を見つめて何かを思案するような気配の後、自ら其の空気を断ち切るようにベルフェゴールは大きく背伸びをし、息を吐き出した。
「じゃあ、屋上行くか」
「だから、まだ授業中ですって」
頭かてー、とぼやくように隣で上がった声を聞きながら、視線を窓の外へと逃がす。ざわざわと不安定にざわめく木々達が己の心情を映し出しているようで、ばつが悪い。
開け放しにされた窓から吹き込む風が、仄かに熱を持った頬をからかうように撫でるものだから。余計なお世話です、と呟いて俯せた。
初恋の再来20130518