人形姫・07




「花風さん」
「はい」

常連客の担当医は、今日はお座敷ではなく個室の席で食事だけを楽しんでいた。名前は同席し、会話を静かにしていた。

「僕は時々思うんです」
「何をですか?」
「名前さんみたいな方は、どんな男性とお付き合いするのかなって。花風さんは、とても魅力的な女性だから」

名前は、カカシの顔が思い浮かんだ後、ニコリと微笑んでから首を傾げた。

「先生は、どう思いはるんですか?」
「ぼ、ぼくは、えっと」
「先生、飲み過ぎどす」

医者はグラスに残ったワインを飲み干して、誤魔化すように頭を掻いた。

「ははは、そうみたいだね」

医者に水を差し出してから、名前は、話題を変えた。

この人にカカシの話をしたら、きっとその時はいつもの様に真面目に聞いてくれて優しい対応をしてくれるだろうが、二度と会いに来てはくれなくなるだろう。

この人は自分をとても気に入って好いてくれている。

夢で出会った男の話をした所で、頭のおかしい奴だと思われて終わりだ。自分がそう思われるのは構わないが、誠実な目の前の男性を夢の話で落胆させてしまいたくない。
それは、名前なりの誠実の表し方だった。

顔も良く、医者の仕事をし、何より真面目で誠実な人柄。きっとこの人を好きになれたのなら、何も苦しむこともなく幸せになれただろうと名前は思った。
きっとこの人は愛する人を全力で守るだろうし、常に優しく包み込んでくれるに違いない。実際に彼に癒される所も多く、多忙な生活の中で貴重な安らぎの時間でもあった。
それでも、心の中にはひとりの男だけが存在していた。


その夜、布団に入った名前は医者からの言葉を思い出していた。
あれは遠回しの好きだったのだと思う。あの人と、もしも、一緒になったとしたら暖かな家庭が築けると言う確信がある。

何か病気や事故がない限り、あの人は死なない。いってらっしゃいと見送りながら、その背中に、どうか生きて帰って来て下さいと切に願うことも迫られない。それがどんなに幸せなことか。

「カカシ……逢いたいよ」

名前は布団を頭の上までスッポリと被った。この世界に戻ってから、名前の癖になっていた。息苦しいくらいが丁度いい。じんわりと暑くなって、やっと名前は眠りに就くことが出来た。





あれから、担当医が客として来る機会はめっきり減ってしまっていた。酒の力を借りたとは言え、お座敷のしきたりを欠いてしまった行為、気まずくて会える訳もないだろう。

踊りの稽古の帰り道、名前はかつての馴染みの甘味処の前を通った。時計を確認すると、今日のお座敷まで時間はある。暖簾をくぐると、カウンターの奥で洗い物をしていた奥さんが目を見開いて立っていた。

「花風ちゃん!」
「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません」
「ちょっと待ってて」

奥さんは慌てて店の入口に向かうと、営業中の札を裏返した。舞妓や芸妓には、いつもこの配慮をしてくれていた。

「良いのよ、お話は色んな人から聞いてたから。座って、餡蜜で良いかしら」
「はい。お願いします」

カウンターに腰掛け、名前は無意識に大きな溜息を吐いた。いけない!と気付き、思わず口元を押さえる。奥さんは八重歯を出して笑った。

「花風ちゃん、お茶を挽く暇もないものね」
「とても有難いことです」
「でも、そんなことで溜息吐く子じゃないよね」

奥さんには、昔から人を見抜く不思議な力があった。
話せとは言わないが、不思議と名前は話を始めてしまう。

「前にね、襟変えのお話があってね。まだ決められずにいるんです」
「そう。けど、舞妓に疲れちゃったんだ?」

名前は、どう言葉にすれば分からず目を泳がせてからお茶に口をつける。

「でもね、人間らしくなったと思うわ」
「え?」
「昔の花風ちゃんはお人形さんみたいに可愛くてビックリしたものだけど、本当のお人形さんみたいにちょっと人間らしさがね、なかった気がするの。隙がないというか」
「そ、そうですか?」
「正直ね。久し振りに会えてね、普通の女の子になってて安心したのよ」

奥さんは、出来上がった餡蜜を名前の前に置いて隣に座った。

「私は舞妓ちゃん達の気持ちは、正直分からないわ」

奥さんの言葉に名前は、頭を垂れた。

「でもね、私も乙女だった時代があるの」

名前が顔を上げると、奥さんが柔らかく笑った。

「この甘味処を作ったのが私の旦那。旦那は10年前に病気で私を置いてあの世に行っちゃった」
「そうだったんですか」
「空を挟んだ遠距離恋愛よ。早く会いたいけど、簡単には神様は会わせてくれないの。意地悪よね」

まるで独り言のようで、名前は返事をするのも忘れて耳を傾けた。

「でもね、ここに居ると旦那も一緒にいるような気がしてね。あんこの仕込みだって、僕が力仕事をするから君は僕のそばで笑ってくれれば良いんだよって、させてくれなかったの。だから、最初は本当に大変だったけど、今は彼よりは上手になったと思うわ」
「素敵な旦那様だったんですね」
「そうね。昔の人には珍しく、お姫様扱いしてくれる紳士だったわ」

それから、今でも旦那を愛してやまないことを語り、名前は目を細めて頷いた。

「ご馳走さまでした」
「結局話を聞いて貰っちゃったのはこっちね。これに懲りずに、いつでも来てね」
「ありがとうございます。また惚気話聞きたいです」

店を出て置屋に戻る。
聞き慣れた声で名前を呼ばれた気がして、名前は振り返る。

「先生」
「花風さん、いや、苗字さん」

医者が真剣な面持ちで立っていた。医者は名前の前に駆け寄ると、切らした息を整えてから口を開いた。

「先日は本当に申し訳ございませんでした。こうして、外で声を掛けるのも無礼であることは重々承知です」

医者は控え目に頭を下げて、名前に詫びた。

「先生、私は」
「苗字さんが眠っている間、貴女は幾度となく涙を流していた。私はそれを見て、貴女をどうしても守りたい。そう思ったんです。それが只の独り善がりだと分かっていました。それでも、私は貴女への思いを止められなかった」

医者の止まらぬ話に名前は腹から声を出す。

「あのね、先生!」
「は、はい!」
「私は気にしていません。先生はとても礼儀正しいお方だと知っています。あの日は普段よりも飲んでしまいましたものね」

医者は、肩に入れていた力をふっと抜いた。何かを言おうとしていたが、それを止めて名前に頭を下げた。

「また、貴女に会いに行っても良いんですか」
「はい」

名前は、礼をしてその場から去った。
後ろから強く視線を感じたが、決して振り返ることはなかった。



ー72ー

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