幻影 | ナノ

巨大な壁が三枚、脅威である巨人から人類を守っている。その壁の中には様々な人が暮らしていた。巨人に立ち向かう者、巨人の存在など忘れて優雅に暮らす者。前者の中は特殊な者たちが多い。馬に乗りながら舌を噛む者、人の匂いを嗅ぐのが好きな者、頭がきれて人の上に立つ者、巨人の事が大好きな者、掃除をする人類最強、そして巨人になれる者。

「兵長、終わりました」

「エレン、棚の上が汚え。やり直しだ」

白い手袋をして口を布で覆うリヴァイは棚の上を人差し指でスーッと撫でた。すると眉間に皺を寄せその指をエレンに向ける。これでやり直しは三回目だ。文句など言えるわけがないエレンは肩を落として棚の上を拭き始める。

「兵長!午後の件ですが…」

リヴァイ班唯一の女兵士、ペトラが部屋に入って来た。
巨人になることができるエレンの監視と研究のためにリヴァイ班がある古城に来たのはいつだっただろうか。毎日恒例の掃除が行われていた。完璧を追い求めるリヴァイは全ての埃を駆逐するまで終わらないだろう。
掃除を一通り終えたペトラは午後に行う訓練の為にリヴァイを訪れた。

「午後は町の方に行く。訓練の件はクソメガネに頼んである」

「ハンジ分隊長ですか」

ハンジという名にエレンは少したじろいだ。古城に訪れてすぐの頃、巨人の話を散々聞かされた記憶が頭を過る。

「また、町に行くんですか……」

「不服か」

「いえ」

ペトラはばつが悪そうな顔をして下を向いた。リヴァイは時間ができると必ず町に繰り出す。その理由を知っているのは誰かはわからないが、エレンは知らないでいた。どうしてこう何度も町に行くのか、疑問に思ったことはあるが口に出す事はない。
ただ、ペトラが理由を知っていることだけは今の様子を見れば誰にでもわかることだった。同期であり幼馴染の頭の良いアルミンなら何か勘付いたかもしれない、と彼の顔がエレンの頭に浮かぶ。

「エレン、お前はこの部屋が終わるまで外に出るな」

「……はい。わかりました」

「ペトラ、最終確認は任せた」

掃除の最終確認を任されたペトラは顔を上げて同意の返事をした。緊張の糸が切れたエレンは「フゥ」と息を吐く。その光景にペトラは笑った。新兵であるエレンはまだリヴァイに慣れていなかった。

「まだ慣れない?」

「……はい…すみません」

ペトラはエレンに近づいて声を潜める。

「実は凄く優しい人なんだよ」

褒めるのなら声を潜める必要はあるのか、と疑念の色がエレンに出ていた。がリヴァイが聞くと照れ隠しなのか舌打ちをされる。それを知っているペトラは楽しそうに笑った。その穏やかな雰囲気に聞くなら今しかない、とエレンは空気を読む。

「あの……一つ聞いてもいいですか!」

「なに?」

「兵長は……どうしていつも町に行くんですか」

空気など読めていなかった、とエレンが気づいたのはすぐだった。ペトラは眉を寄せ、エレンを見つめたまま何も言わない。怒っているのか、と思ったが違う。悲しそうな泣きそうな、そんな表情だった。その顔を見て、エレンの口からすぐに謝罪の言葉が出た。

「やっぱり、今の無しで!お願いします」

「気になるのが普通だよね。私から話していいのか…」

「も、もう大丈夫です!」

より真剣な表情になっていくペトラにエレンは慌て、棚の上の本を何冊か落としてしまった。
リヴァイ班に加わった兵士なのだから、話すのが当然なのかもしれない。でもどこから、何を話せばいいんだろう。ペトラは悩んだ。

「私が話すよ」

部屋の入り口から声がして二人が振り返ればハンジが、いつものふざけた様子ではなく真剣な顔で立っていた。その顔を初めてみるエレンは失礼ながらに驚いた。こんな顔があるなんて。ゆっくりと近づいてくるハンジに、脅威すら感じる。

「リヴァイはもう行っちゃったよ。全速力でね」

「分隊長……」

「ペトラは訓練しておいで。オルオが待ってたよ」

「………わかりました。ありがとうございます。」

どこか悲しそうなペトラにエレンは声をかけることも出来ず、視線をそらしてしまった。あの質問がいけなかったのか、と自分を責めているように見える彼の頭にハンジは手を乗せる。顔を上げたエレンは、強いハンジの瞳を見つめた。

「リヴァイは話さないんじゃない、話せないんだ。その事をわかってほしい」

「聞いても、いいんですか」

「嘘ばかりの噂なんかで聞くより、真実を聞いた方が良いからね」

ハンジは近くにあった椅子にエレンを座るように促し、自分も椅子を移動させてきて座る。その椅子はさっきエレンが丁寧に拭いたものである。今はそんなことどうでも良かった。
長い話になる。でもその話を話し終えてもまだリヴァイは帰って来ないだろう。それくらい、長い時間をかけてリヴァイは探していた。探し続けていた。

「ある女に惚れてるんだ、リヴァイは…」

ハンジの物語のような話の冒頭にエレンは度肝を抜かれた。想像していたどの言葉よりも上をいくような、そんな話だった。

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