幻影 | ナノ

珍しく霧の深い朝方。冷え込んでいて息を吐くと白くなって舞う。枯れ散ってしまいそうな葉には霜がこびりついていた。

馬車に荷物を乗せているが、量が多い気がするんだけど。部屋中の荷物を詰めるとこうなってしまうのだろうか。もう、帰って来る気はない、その決意が見えた気がした。赤いロングスカートに白いポンチョを羽織り、にこやかに微笑む彼女からは生臭い血や暑苦しい汗なんて連想できない。かつては壁外に出て飛び回り、巨人の血を浴びていたというのに…。筋力も多少落ちてしまったのだろうか。目元に巻かれている包帯はもう外れることはないのだろう。
彼女の隣に立ち、エルヴィンと何かを話す彼も私服に身を包んでいた。彼女に傷を負わせた張本人だけど、彼女は彼を大変気に入っている。いや。逆かもしれない。

「ハンジ」

名前を呼ばれ、一歩前に出ると彼女は私を抱きしめてきた。私もそっとその背中に腕を回す。背中の翼が重いと感じたのは、初めてだった。沢山言いたいことがあったはずなのに、言葉が出てこない。涙はもう枯れ果ててしまった。お互い何も言わず、周りの兵士達も特に何も言わない。この手を離さなければ何か変わるだろうか。そんなこと、あり得ない。
彼女に世話になった兵士達が私達を取り囲む。泣いている者、心臓を掲げる者、下を向いたまま動かない者……沢山いるのに一人いない。彼女を愛し、愛している者。彼は知らない、彼女がここを去ることを。
彼女からの最後の"お願い"だった。彼にだけは知られないように、と。何故、かとは聞けなかった。行くなと言われれば行けないし、行けと言われても行けないからだろう。彼女も彼を愛し、愛している。

「ありがとう」

その言葉にどれだけの意味が込められているのか、それは彼女にしかわからない。もっと迷惑をかけられてもいい、でも私では彼女を引き留めることも出来ない。
彼女は私から離れ、馬車に乗り込む。大量の荷物はいつの間にか全て馬車に積み込まれていた。馬車の窓から顔を覗かせる彼女は、私達が見えていない。

「メイ!!」

私が呼ぶ声に彼女は顔をキョロキョロと動かした。

「ありがとう!」

馬車が遠ざかっていく。彼女に私の言葉は届いただろうか。届いていなくてもいいのかもしれない。
彼女がこの場を去った今、私の中にポッカリと穴が空いている。彼女が残したものは大きすぎる。彼女の存在は偉大すぎた。彼女のために、私は生きていこう。全ては、彼女のために。

「ハンジ、こんな時に何だが……巨人の話をしよう」

「エルヴィン、本当に…空気が読めないというか…」

「それをハンジに言われると、心外だが…」

「いいよ。しようか、次の壁外調査の話を。」

また人類は壁の外へと夢を抱く。何人の犠牲を出そうと、夢を追い続ける限り人類は止まらない。そう、大切な仲間が目を失おうと兵団を去ろうと、人類は止まらない。止まってはいけない。
日が昇り、私達を照らすその光はどちらの味方だろう。人類か、巨人か。

戻る
×
- ナノ -