textbook | ナノ

 僕を好きだと、彼女は言う。屈託のない笑みを浮かべて、希望と未来に溢れた輝きの瞳を見せて、大好きだと、彼女は言う。まっすぐに僕の心に訴えかけようとしてくる彼女の言葉は、どんなときでも僕に対して嘘をつかない。まるで嘘なんて言葉、知らないみたいに。
 君を嫌いだと、僕は言う。馬鹿にしたように口の端を上げて、絶望と嫌悪に溢れた瞳を見せて、大嫌いだと、僕は言う。そいつが嘘なのかどうかなんて、言及するに値しない無意味な分析だ。そんなことをしたって、誰がどうなるわけでもない。そんな無価値なことに時間を割くのなら、少しでも勉強しろって話。

「その人のことを想うと、胸がぎゅっとなって切なくなって、”あ、痛い”ってなるでしょ。そして浮かぶの、会いたいって気持ち。だからさ、会いたいって気持ちは甘い痛みなんだよね。でもそれが”恋”であって”愛”でさ、九州風に言うと、”それが愛たい!”なぁんつってぇ!」

 ……ああ、そうですか。
 にこにこと、幸せしか知らないような笑顔を振りまきながら、僕の後ろをついて歩く女。何がそんなに楽しいのか、「たらったらーん」なんて意味不明な鼻唄までつけてスキップをかましている。街中でどうにもご迷惑なこった。知らぬ存ぜぬを突き通すつもりで、僕はそいつの存在を視界からシャットアウト。
 「ふぎゃっ」なんて声を発しながら、ズサァッという痛々しい音を響かせてスライディングきめたそいつのこと、僕は知らない。「い、痛い」僕は知らない。「そーちゃあぁぁあああん!」……知らない。「春風颯太のムッツリすけべぇ!」テメェこら、その詰まってない脳かち割るぞ。

 軽く背中越しのそいつを睨みつけて、再度前を向いて歩き出す。
 いつまでもコイツの相手なんざしていたら、延々と無意味な会話を――いや、会話になるかさえ分からない言葉のやり取りを――するハメになるのだから。待ってよ、なんて言いながら靴の音を響かせて追いかけてくるソイツは気にしないようにして、僕はそっと右側へと視線を投げた。
 真っ青で、大きくて、ただただ広い、海。そっと目を細めて、その様子に注意を預ける。海の鳴き声。潮の、におい――海の匂いを捉えた嗅覚が、いつかの夏を呼び起こす。また会おうね、と告げたあの子は、いったいなんて名前の、どんな顔の子だっただろうか。

 毎年夏になると、思い出すのだ。左手に、ピンクの花をワンポイントにした、白いブレスレットをはめて、自分の頭に不釣り合いなほど大きな麦わら帽子をかぶり、花柄でオレンジ色のワンピースを着た女の子のこと。その子の名前も顔も十分に思い出せないけれど、その子はずっと自分の記憶の中にいた。
 屈託のない笑顔で、まっすぐに僕をみながら、「またあおうね!」と叫んでいる。また、がくることはなかったものの、毎年夏になると記憶の淵から会いにきているあたり、「また」というのは見事に叶えられているのかもしれない。実像ではない。けれど、確かに彼女は「ここ(心)」にやってくる。

 10年以上前の光景をこうして覚えているあたり、自分も彼女に思い入れがあったのかもしれない。確かに、地元では滅多に見ることのない小綺麗な服装をしていて、印象深かったように思う。人懐っこい様子でちょこちょこと僕の後ろをついて回って、なんかちっこいヤツだなって思っていたような。
 なにをするのも僕のことを真似て、必死に僕と同じようにしようとあがいていた。もしかしたら彼女は僕のことを好きでいたのかもしれない、なんて少し自意識過剰なことを考えたが、客観的な僕が「あり得る」と判断したから、もしかしたらそうだったのかもしれない。

「で、そーちゃんは、その人に会いたい〜って思って切なくなってるの」
「別に会いたいわけじゃない」
「えーっ、そんなにも気にしてる子なのにー!」
「お前には関係ないだろ」
「むー」

 ぷっくりと頬を膨らませてみせるそいつを、「気持ち悪い」と一蹴して階段を下りる。少し急なそれをトントントンとリズム良く攻略していけば、不安定な足場へとたどり着いた。浜辺である。ぐらぐら、落ち着かない体を必死に伸ばし、海の方へと歩き出す。女も、僕の後ろをおぼつかない足取りで歩いている。

「ね、じゃあ、わたしとの出会いって覚えてるー?」

 女がぴょんっと飛ぶようにして僕の横に来たかと思えば、水色のワンピースをなびかせながらそう問うた。この女との出会い。言われて、思い返してみる。この女との出会いなぁ。――記憶に全くない、……なんてことは、実はない。この女に出会ったのは高校の入学式。今でもはっきり覚えている。

 特別入りたいわけではなかったが、少しだけ緊張感に包まれた入学式の朝のこと。親が式用の服にみそ汁をこぼしてしまい、僕だけが取り急ぎ入学式への道を歩くことになった。朝っぱらからなんという試練、なんという事件、なんて少し面倒くさい気持ちを露わに、これから3年間過ごす高校の門をくぐった。
 そのとき、ふと目についた桜の木。時間的な関係で(本当にぎりぎり、というかほぼ遅刻だった)外にはほとんど人がおらず、あたりはそれなりに静まり返っていた。そんな中で目についた桜は、どうにも存在感を放っており、僕の視線を一気に奪い去ったのだ。

 きれい、だな。目を細めて、そいつを見やる。そっと桜の木まで近づいて、手を幹に近づけようとしたその瞬間のこと。「たーっち!」なんて高い声が、僕の耳に入り込んで、一気に意識を現実に引き戻してきた。は、と思い声の主を捜すも、どこから聞こえてきたのかわからない。
 寒気のようなものを感じて一歩後ずさったら、ぴょんっなんて跳ねたような動きで、そいつは桜の木の幹の後ろから(おそらく巧いこと隠れていたのだろう)現れた。長い髪の毛をなびかせて、まん丸とした目をきらきら輝かせて、「おはよー!」なんてのんきに笑ってみせて。

 「……だれ」訝しげに眉を寄せて、不審者を睨みつけるようにして見やれば、「桜の木の妖精さん!」なんてバカな嘘をつく。なんだコイツ、と思っている間もなく、女は「あ、時間!」なんて、左側の手首にはめられた時計を見ながら、慌てたように口にもう片方の手をやった。
 「また会おうね!」ぶんぶん手を振りながら、陸上選手もびっくりな速さで校内へと走り去って行ったそいつと、次に出会ったのは割り当てられた僕のクラスで。この変なヤツがクラスメイトかと残念に思っていたがそれ以上に、そこからやけについてくるようになったそいつとは、今なおこうして関わりが深い。

 非常に悲しいことであるが、こいつとはそこから高校3年生であるいまなお、ずっと一緒だ。クラスも、何をするにも、ぜんぶ。


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