textbook | ナノ

 風が吹いた。ぼくの頬をそっと撫でて、髪の毛さらって逃げていく。そっと目を閉じて神の息吹を感じれば、ぼくと世界が一体化したような気持ちになった。いまこの瞬間だけは、ぼくはすべてと1つ、てね。
 風に揺られて流れるような波をみせる草の上に寝っ転がり、ぼくはそのまま風の動きを堪能する。緩急をつけてぼくに触れるその様子は、なんだかまるで彼女のようで。くすり、と1つ笑みを零してしまった。

 かくいうとなりの彼女に目を向けたら、同じように瞼を閉じて風を感じているようだった。その様子に何を言うでもなく、じっと観察するように彼女を見つめる。生まれたての赤ん坊のように白く澄んだ肌、無操作に散らばった、見惚れるような美しい黒髪。伏せられた目元の睫毛も、すべてが魅力的だ。
 そう、どれをとってもぼくを惑わせる。
 こまったお嬢さんだなぁ。そんなことを思いながら彼女の上に乗っかって、誘う唇にぼくのそれを重ねる。啄ばむようにして感触を楽しんだ後は、食むようにして上唇と下唇を交互に堪能。ぷくりと赤く膨れ上がったその場所は、まるでぼくを待っているかのよう。

 なんて、良いように捉えすぎだろうか。

「捉えすぎだな」

 ガツン! 脳天めがけて放たれた彼女の本気のパンチ。そいつは見事にぼくの頭にぶちあたり、綺麗でだだっ広い花畑をみせた。いやあの痛いです、本当に、痛いです。涙目になってしまった表情を隠すことなく、そのままの状態で彼女を上目遣いに見やれば、「気持ち悪いこちらを見るな」と言われてしまった。
 ぼく、めげない。
 怒ってる? なんてわかりきったことを聞くのは彼女の声が聞きたいからだけど、問うたら「べつに、怒っては……」とかわいい表情を見せてくれるからたまらなく嬉しくなって口元がついついにやけてしまう。へへ、なんて微笑んだらキッと睨まれたけど、頬の赤みがとれないうちは怖くないな。

 いい加減にしろ、とかからかうのはやめてくれ、などといった彼女の声が聞こえるがそれを完全に無視して、もう一度草の上に寝っ転がる。そして、残酷なまでに晴れ渡った空を眺めて、皮肉なものだなとちいさく笑みを浮かべた。
 明日でこの戦いも終わりか。そう思いながら、目を細める。そうすれば同じことを考えていたらしい。「明日で、終わりだな」という声が自分のとなりから聞こえてきた。おやまぁ。

「ちょうどぼくも同じことを考えていたところだよ」
「チッ、胸糞悪いな」
「照れないでよ」
「照れてない!」

 だから、その真っ赤な林檎ちゃんをどうにかしてから言ってよね。とはもう言わないけれど。同じことを考えていたことがうれしくて、けれどそれと同時にちょっとだけ切なくて悲しくて、どうしようもない感情がぼくの中でないまぜになった。

 ぼくたちは、世界を救おうとしている。
 こうやって聞くと、まるでRPGの世界のように思えるだろう。事実、ここはその世界だ。ぼくは自分の知っているゲームの世界に、迷い込んできたのだからまさにそうだと思ってもらって構わない。そう、異世界トリップというものを経験したのだ。
 未来はゲームの筋書き通りに進んでいく。「ぼく」という存在が介入したことで、例えば死ぬ予定であったひとを救うことが出来るかと思考錯誤してみたものの、ぼくという異分子をも利用した状態で予定調和を行おうとするのだ。この世界は、筋書きから離れようとしない。

 ぼくは絶望というものを経験し、ゲームの筋書きをひたすら恨んだ。関わりを持ってしまったその存在を、ぼくは救いたかったのだ。ぼくにやさしく笑いかけてくれたあのひと、ぼくの手を握ってくれたあのひと、ぼくの頭を撫でて励ましてくれたあのひと――救いたかった。
 それこそ、救世主のような気でさえいた。だって異分子だ。きっと彼らを救うためにここに呼ばれたのだとおもっていたから。けれどそれは思いあがりだった。ぼくは自惚れていたのだ、ぼくという存在の特異さに。すっかり甘えてしまっていたのだ。

 けれど、「ぼく」という存在を許したまま、結局ゲーム通りの道を進んでしまったことに、悲しみと喜びを覚えているのもまた事実だった。なぜなら、世界はぼくという存在を受け入れたということに等しいと思ったからだ。
 あちらの世界から弾きだされ、こちらの世界でも異質。
 ぼくの居場所など無いに等しいとも思っていたから、まるで許されたような気がして嬉しかった。それでも、それと同時に悲しくもあったのは、ぼく1つで左右されない筋書きを目の当たりにしたから。

 何度泣き叫んだかわからない。この手は、現代では考えられないほどの命を奪った。そうであることが当たり前だとでもいうように、命を奪った。それは自分のためであったかもしれない。国のためであったかもしれない。仲間のためであったかもしれない。
 けれど、「殺した」ということだけ共通の事実。その根底は不変のままで、ぼくはもう元の世界には戻れやしないことを悟った。戻ったとして、人殺しのぼくと彼らではもう意識が違う。この世界では他者を手にかけて自分の環境を守ることが、ある意味で当たり前だったから。

 そして自分に、もうその思考はこびりついている。
 もちろん、命はどの世界でも尊い。けれどきっと、その感覚にはズレがある。ぼくと、元の世界ではきっと、もうズレがあるのだ。だからぼくは帰れない。帰れないと思っているし、帰らなくていいとも思っている。
 けれど、そんな旅もあと少しで終わり。ああ、この後ぼくは元の世界に帰るのだろうか。それともこのままこの世界で、いまと同じように彼女と共に在れるのだろうか。明日ですべてが終わって嬉しいはずなのに、心は晴れない。

「ソウタ」

 ハッ、として思考の渦から飛び出した。深く考えすぎてしまった。そう思いながら適当に考えを隅っこに追いやり、ぼくを呼んだ彼女に「なぁに」と顔を向ける。そしたら彼女はその意志の強い真っ直ぐな視線で、ぼくを射抜くように見つめていた。顔を背けたくなるほどに、一直線に。



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