「なぁ」
ふと、彼がわたしを呼ぶ。タオルを巻いただけのわたしは、今からシャワーを浴びて彼の部屋を出る予定だった。呼びかけられてしまえば振り向くしかない。今日で最後と言うなら、最後らしい会話もありだろう。「なに」無機質な声色が自分から発された。
「人間はどうして恋をすると思う」
なんだ、それ。彼らしくない質問に思わず眉を寄せて彼を見つめる。だが、そんなわたしの訝しげな視線など物ともしないらしい。相変わらずのクールな表情で、彼は煙草に1本火を付けた。紫煙が舞い、ゆらゆらと立ち上る。
情事後そのままの姿でいる彼は、こちらに視線など向けやしない。
嗅ぎ慣れた匂いが嗅覚を刺激し、どうしようもない感情に襲われるのを感じた。どうしてだかわからない。それでも、切なさにも似たこの胸のつんざくような叫びは、どうにもこうにも止まらなかった。
「生殖本能。わたしにはそれしか言葉が出ないわ」
「ほんと、可愛げのないオンナ」
「わたしに可愛さを求める? 良いわよ、可愛いオンナを演じてみせましょうか」
「や、いいよ。気持ち悪い」
「あら失礼」
すでに演技がかったような会話であることは百も承知。こういうことが出来るから、気楽で良いのだ。何も本音をぶつけあえるだけが「素敵な関係」ではないのだから、なんてね。臆病者の考えみたいだけど、それもまた一興か。
「あなたはどう考えているの」
「運命」
「、へ?」
「人が恋をするのは運命だ、と」
え、なに、どうしたのこの人。驚愕のあまり口をぽかんと開けて、彼を思いっきり見つめてしまった。そんなことを言う人ではないからだ。少なくともわたしの知っている範囲では、彼はそんなロマンチックな考えをする人間ではない。もちろん彼の全部を知っているわけではないけれど、それでも――。
そんなわたしの動揺を感じ取ったらしい。ふ、と息を零して笑う。それはいつもの余裕そうなもので、わたしの好きなものだった。こういって余裕げに笑っている姿がとても好きだ。何を言っても言葉遊びと共に切り返してくれる。何をしてもわたしの予想を超える。
マンネリ化の中に非日常を与えてくれるから、わたしはこうやって余裕げに微笑む彼の姿が好きだった。
「運命だと思わない? あんな狂気に取り憑かれるのなんて、何人もの人相手にしてたら死ぬんじゃないかって思う。あんな悲しい思いをして、あんな切ない思いをして、もう恋なんてしないと誓って――それでも叩きだされるんだよ。恋心ってやつ」
それは紛れもなく「カミサマ」からの果たし状であり挑戦状だよ――そう言って彼は小さく笑った。だから運命と称したのか。少し納得したように、自分の中にそれらの言の葉を落とす。ロマンチックな考えでありながら面白い。そう思って、「ふぅん」と声を漏らした。
お気に召さなかったか、なんて聞いてくる彼は何を考えているのやら。それが彼の本心からの思考なのか分からないから安易に言葉は発することが出来ない。それでも、仮にカミサマからの果たし状だとしたならば、唾でも吐いてやりたいと思う――こんな面倒くさいことさせやがってって。
「それでも、出会えるだろ。こいつだ、って思える奴に」
それなら、カミサマの仕組んだ運命とやらに感謝してやっても良いかなって思えるんだよね。
真っ直ぐと彼の視線がこっちを向いた。前髪の隙間から、彼の鋭い視線が射抜いてくる。ドキリ、まるで心を見透かしたようなその瞳に、心臓が跳ねたような気がした。自分の考えを読まれた――そう感じるほどに、彼の言葉はわたしの思考を刺激したのだ。
「、出会えたの」
問う。あなたは出会えたのかって。どくん、どくん。心臓が鳴る。身体全体が心臓になったみたいだってそう思った。もしそうだとしたら、今わたしは無防備なんだ。いや確かに、今のわたしは無防備かもしれない。
「うん」
そう言ってちょっと微笑んだその顔が、見たこともないくらい優しい顔をしていたから、泣きたくなって叫びたくなってたまらなくなったんだ。どうしようもなく切なくて、どうしようもなく愛おしい。
ああ、馬鹿だ、馬鹿みたいだ。知っていたよ。彼に恋をしていたことなんて。知っていた、彼に惹かれている自分がいたこと。それでも、割り切らなければ傷つく結果が目に見えていた。わたしは、怖かったのだ。
「そ、っか」
「ふっ、なに泣きそうな顔してるの」
「、してないよ」
「うそつき」
「うそつきだよ」
――おいで。彼がそう言う。別に腕を広げているわけでもないから、単純に隣に来いという意味だろう。けれど、その場で固まったように動けなくなっていた。身体が、まったくといっていいほど動こうとしなかったのだ。
そんなわたしにまた彼は笑う。どうしようもないやつだ、というように、それでもなんだか優しい色を込めて。その姿を見てやっぱりと確信した。彼とわたしは同じ気持ちだったのだ、って。
それでも、身体は動かない。動くことをやめたかのように、機能しないのだ。
そして彼は笑う。ちいさく笑みを浮かべて、甘い色をその目に映して、わたしを見つめて笑うのだ。「もう一度言う」彼がテノールを響かせる。煙草が灰皿の上でじゅ、と音をさせる。彼の吐息が空気に混ざる。
「ぬるま湯のような関係に飽きたんだよね」
カミサマに挑戦状を叩き返すか破り捨てるか、とにかく何でも良い。ただそれを持ったまま享受するのはもうやめにしよう。とどのつまり何が言いたいかと言えば――はっきりさせよう、と。
わたしは口を開く。これを伝えなければという使命感と共に、胸底から沸きあがる強い衝動のままに、震える唇で空気を震わせるために。こわい、こわくない。2つの感情のせめぎ合い、その中に混ざる確かな熱情。
ぽつん、落ちたのはきっと。
▼企画サイト「魚の耳」様に提出
▼一之瀬ゆん by 或る日、ぼくは彼女を喰った
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