textbook | ナノ

 夕方、3年A組――1人、恋人を待ち続ける男。それは紛れもなく俺なのだが、委員会の話し合いだかなんだかで居残りになったらしい彼女を待っている。椅子に座って何をするでもなく、ただぼーっと。
 実は数十分前、先に帰っていて、と彼女に申し訳なさそうな顔で言われたのだが、まさか自分の恋人を1人で遅くに帰宅させるなど出来るはずが無く。俺は1人、彼女の荷物が置かれた席に座りながら、時間を潰していた。

 夕焼け色に染まる空を眺めながら、なんとなくその雰囲気が彼女の照れた時の顔に似ているなと、ふとそんなどうでも良いことを考えた。控えめに色づき始めたその様が「まさに」といった感じで、思わず口元がゆるんでしまう。
 控えめに俺を見上げてくる姿を思い浮かべる。すこし頬を染めて、目が合うのを恥ずかしそうにして顔を逸らそうとする彼女。それでも上目づかいにこちらを見やる姿は、とても愛らしい。想像だけで心臓がざわついた気がした。

「夕焼け、か」

 ぽつり、独り言のように言葉を零して、1人きりの室内を少しだけ彩ってみる。夕焼け空というのはなかなかにして趣のある情景だろうと、普段なら考えないようなことを脳内に浮かべた。
 まるで故郷が恋しいだとか、孤独に呑み込まれそうだとか、そんな気持ちにさせるこの夕焼け空を見て、なるほど古人がふるさとを描き、言の葉に乗せたその音色の意味に合点がいった気がした。

 なんて、何様のつもりだろう。今日授業でやった古典に影響でもされているのだろうか――嫌いなくせに。おかしな自分に苦笑をもらして、声を張り上げながら練習している野球部に目をやる。
 自分の友人達が必死になって練習している姿に、密かにエールを送っておく。友人思いだな、おれ。どの部も大会が間近で、全員死ぬ気で練習しているらしいと聞くが、ぜひとも最善を尽くしてほしいものだ。

 少しだけ手持無沙汰な状態だからか、至極どうでもいいことが気になるらしい。夕焼け空、野球部、そしてその次にはなんと――長針と短針が曖昧な関係を保ちながら活動しているその様に気を取られていた。
 もうほんと、今日の自分はおかしい。
 長針が進んだからと言って、短針がそれに合わせるわけでもなく。だからと言って、その逆もありえない。長針が短針を追いかけて追いかけて、ようやく辿り着いて重なり合ったその姿は、なかなか感動的。

 しかし、逆に短針が長針を追いかけて追いかけて、それでも長針の進む速度はとても速く、重なり合ったと思ったときには、長針は自分の何歩も先を歩いていたり。なかなかいっしょの場所にいられないもどかしさを、そこで表現しているようにおもった。
 ああ、まるで俺たちみたい。
 いつまでたっても名字の関係から抜け出せない、それでも恋人を名乗り合う曖昧な関係。 手をつなごうと思ってみても、曖昧な関係に恐怖を抱く自分がいて、先に進めない。気が付いた時にはチャンスは消え去り、完全にタイミングを見失う始末。

 俺たちの手も、重なり合えばいいのになぁ。ヘタれた考えに再度苦笑して、俺は廊下の地面を鳴らす小さな音に意識を持っていった。もしかして、と僅かな期待を胸に、きっと訪れるであろう姿を待つ。
 がらり、勢い良くドアを開けたその主――俺の彼女は、肩で息をしながら教室内に入り込んできた。そして、俺の姿を見て「えっ」と驚いたように声をあげる。まぁ、そりゃそうか。帰ったとおもうよな。

「、え、え、待っててくれたの!?」
「当たり前だろ」

 そう言えば彼女は、「うわ、こんなに待たせちゃってごめんね」と手を合わせてきた。「俺が勝手にしたことだから、気にしなくていいよ」その言葉に笑って、「ありがとう」と顔を綻ばせた彼女。
 あ、やべ、かわいい。――別に特別容姿が良いわけではない彼女だが、惚れた弱みというやつ、いや恋は盲目だろうか。彼女の一挙一動は、俺の心臓を破壊させる勢いを持っている。

 ペンケースをカバンの中に仕舞い、「お待たせしました!」と敬礼してきた彼女に、「行きますか」と俺も敬礼を返して軽く笑う。そうすれば彼女も満面の笑みを浮かべて「はい、大佐ーっ」と言うのだ――どうしよう、たまらなくかわいい。

「それでね、その時チョコがイトコの所に走って行って――」

 他愛のない会話をしながら俺たちは校門を出て、そして見慣れた帰路を歩いた。俺と反対に、感情をわりと素直に表に出すタイプの彼女は、話をするたびに百面相をするため見ていて飽きない。
 忙しいやつだなぁ、と隣で話している彼女を見つめながら、ちょっとほんわかした気持ちに浸る。こうやって素直にぶつかってきてくれるのがどれだけ嬉しいか。きっと彼女は素だからわかってないだろうけど。

 夕焼け空は、まだ俺たちを包んでいる。

「男の子がきたら嬉しそうに吠えるの! さっすがメスだねって笑い合ったんだけど」
「はは、本当にさすがメスだなぁ」
「うん。でもお兄ちゃんには甘えないの。それが何だかおかしくて」
「それでお前の兄ちゃんはなんて?」
「『コイツ、俺のことナメてやがる……!』」
「あははははっ、やべ、腹いてぇ……っ」

 お兄さんの真似をして話す彼女に、俺は腹を抱えて笑う。
 眉を寄せて、がんばって声をいつもより低くして、なんかお兄さんになりきっちゃってるあたりが俺のツボをついてしかたがない――いや、もちろんお兄さんの反応にも笑えたのだが。
 そんな俺の大爆笑につられてしまったらしい。ふ、と息を吐き出して、彼女も同じように笑った。一緒なって笑う彼女が「うちのチョコかわいいんだもん」と言ったのを聞いて、俺はすこし口角を上げて口を開く。

「お前もかわいいけどな」
「へ?」

 ぽかーん。そんな表現がお似合いの彼女がとてもおもしろくて、また俺はふき出してしまった。そんな俺を、彼女は夕焼けに負けないほどに真っ赤な顔のまま睨んで、すぐにそれを隠すようにして俯く。
 彼女のいない場所だとヘタレちゃうのに、なんか目の前にしたらつい、いじめたくなるっていうか――世間では逆だろう性質を認識しながら、「ねぇ」と話しかける。すると彼女は「な、に」と緊張したような声色で返事をした。

「手、つないでいい?」

 俺の質問に、彼女は少し目を見開く。
 すこし恥ずかしそうに、そして困ったように視線を泳がせた彼女は、それでも手をつなぐことに嫌悪はないらしい(いや、あったらそれはそれで泣きますよ、俺)。
 こくりと頷いて、ちょっと躊躇いがちに、その小さな手を俺の方に近付けた。その手を、少し強引に掴んで、いつの間にか俺の斜め後ろにいた彼女を、隣に強制移動させる。

 なんとなく、俺も段々恥ずかしくなって少し耳を赤くしたが、そっと彼女を横目で見やれば、確かに彼女も顔を赤くしていた。それがやっぱり、夕焼け色の空とリンクする。
 彼女の存在はまるでそれこそ故郷のように、帰りたいと思わせる心地の良い居場所、だと思う。そして、故郷を連想させる夕焼けは、思ったよりずっと彼女に似ていた。

 ――君に触れた瞬間、夕焼け色の世界が俺たち2人を包みこむ。
 ――君に触れた瞬間。世界が動き始めた気がした。
 重なり合った体温に、曖昧な関係が確かな未来を作り上げていくような、そんな不確かな感覚を抱いて。



poco a poco

染まる色が愛おしい。触れた指先から伝わる体温が、少し恥ずかしくて照れ臭かった。踏み出した一歩はなかなか大きく、俺は君に近づけた気がする。ほら、俺たちは時計みたいに機械的に動いているわけではないから、だからさ。重ね合わさったまま、一緒の時を過ごしたい。――俺は茜色にそんな想いを抱いた



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