彼女は変わっている。


 5月に入ったばかりだというのに、今日はどうも蒸し暑い。バタバタと体操着を体から離したり着けたりして扇いでみるものの、風と言うべきかも疑う程度の空気の流れが生まれるだけだ。髪と髪の間の空気がもわっと熱くて、全部剃ってしまいたくなった。もちろん比喩なんだけども。本当に剃りたいわけじゃなくて、それくらい暑いってこと。地肌と髪の隙間に指を差し込み、バサバサとぬるい空気を逃がすとだいぶ涼しい。ちらりとサブアリーナから足を下ろしている栗田さんを見ると、ちょうど音階が終わったところらしく、バディの紙に鉛筆でチェックをつけていた。


「(オレも見学がよかったなー。あー、汗スゲー気持ちワリィ…。)」


 体操着の裾をひっつかんで顔の汗を雑に拭くとヒソヒソと女子が顔を付き合わせるのがわかった。腹出てんのがそんなにいいんかな。まあ、オレ、イケメンらしいからなあ。なんて考えながら体操着をおろしてチラリと視線をあげると何人かの首が違う方向へ向いた。本人は気づかれてないつもりなんだろうけど、ばれてますから。オレ、目敏いですから。最初は鬱陶しいと思っていたこの視線も、もう慣れっこだ。


「(評価Aの回数になった瞬間即やめたけど、汗ひかねー…。)」


 今日の体育は体力テスト、それも20mシャトルランで、A判確定にも拘らず未だに走り続けている佐伯くんを横目にサブアリーナの側に座り込む。よくもまぁあそこまで頑張るな…。なんてぼんやりと眺めているとオレの記録をつけていた志茂さんが、涼太125回だったよ!すごいね!10点!あともうちょっと頑張ったら1番だったんじゃないの?などと言ってオレに成績の紙を手渡した。マジで?結構がんばったんだよね。とヘラヘラ笑いながら紙を受け取ったものの、1番とか、割とどうでもいい。


「くっ、く、りた、何回だった…っ?」

「131回。サエちゃんおめー、トップだよ。次点が黄瀬くんだったかな。たぶん。」


 その人はオレの隣に突っ立って、ドッとサブアリーナにつっぷした。頭上から栗田さんの声が聞こえる。佐伯くんは、はいどうぞ。と言ってて紙を差し出す栗田さんからそれを受け取っているようだった。


「根性すごいね。わたしたぶん30回超えたらもういいやってなるわ。」

「だろだろー?かっこいいだろー?」

「うん、かっこいいと思う。すごい。」

「…え、お、おぉ…。」


 まさか素直に返されるとは思ってなかったんだろう。佐伯くんは戸惑ったように返事を返していて、なんとなく見上げると栗田さんから目をそらしたらしい彼と目があった。こいつ、見てたのか。みたいなギョッとした顔をする。まあ、そうだろうな。自分が照れてる顔とか見られたくないだろうし。そう思いながらニヤリと笑ってやった。
 しかし、まあ実は、佐伯くんがちょっとだけ、ホントにちょっとだけ羨ましかったり違ったり。だって、オレのことをチラリとも見ないのって栗田さんだけだ。なのに他の奴とは普通に話せるだなんて悔しいじゃないか。そりゃお前は隣で、栗田さんの新しい友達らしい沖さんだって隣で、オレは後ろだから話す機会が2人に比べたら少ないんだろうけど、ていうか圧倒的にしゃべってないんだけど、そうだったとしてもなんだか負けた気分だ。寄ってたかってくる女の子は鬱陶しくて、でもそうでない子がいるとそれはそれで鼻持ちならないだなんて、結局、イケメンな黄瀬涼太の外見を1番愛してるのはオレ自身なんだろう。
 冷静に自己分析をしていると明らかにナルシストな自分像が見えてきて、それこそ吐き気がした。


「(1番、取ってたら変わってたんかな。…いやでもそこまで頑張る意味がわからん。)」


 シャトランの最後の1人、つまるところ佐伯くんが終わったことで隊列に並び直させられる。先生が男女のトップ3の名前を挙げて拍手が一通り終わると栗田さんに紙の回収が任された。体育館の去り際にみんなは紙を雑に置くもんだから、紙は栗田さんの前ですっかり向きがぐちゃぐちゃになっている。それを左手だけで整える彼女を置いて、みんなはぺちゃくちゃ喋りながら体育館を出て行くのだ。佐伯くんと沖さんに、先行ってなよ、着替えるの遅れるっしょ。などと口にしていて、オレの視界の真ん中で、彼女だけがあくせく動いている。


「手伝おうか?」


 なんで気になるんだろうと考えたことがある。1度は友達になろうが、そうでなかろうがどうでもいいと思ったけれど、結局また気になってしまうのだ。言い方はよくないけど、パッと見たときの印象はそれほど強くないはずだ。なのに、なんで目に付くんだろう。前の席というのもあるんだろうけれど、答えは別にある気がした。立ち姿が凛としてるとか、喋るときの言葉選びが丁寧だとか、人と接するときはうんと考えて言動にしているとか、そういう少し周りとは違うことが積み重なって、彼女独特の空気を生み出しているんじゃないかって思う。
 周りの雰囲気に敏感なオレだから気付けて、そのオレにしか気づけない空気がオレは好きなんじゃないだろうか。しかも栗田さんは周りとはちょっと違うんだということを自覚しているんだろう。その周りとは違う振る舞いや思考をうっすら隠して、或いは隠しているかどうかすらわからないようにほんの少しだけ自分の中に沈めて、至って普通ですよという風な笑顔で覆うのだ。沖さん佐伯くん達のような親しい人と話すときの感じとそうじゃない人と話すときの感じはちょっとだけ違っていて、田中って人と話すときの感じはさらにもうちょっと違っていた。言ってることは変わらないのに、雰囲気だけがそっと変化する。隠されてるとわかったら暴きたくなるのが人間の性じゃなかろうか。

 栗田さんはすこし言葉を探してから、ありがとう。と言った。栗田さんは喋るのが少し遅い。けれど、彼女の言葉はいつだって人を傷つけないようにできていて、それでいて本音を捻じ曲げないよう捻じ曲げないようにできているから取り繕いがないように感じた。きっと、隠しているものを、そっと掘り起こしているのだ。オレはそう思った。


「次、英語渡辺先生だから着替えてきた方がいいよ。わたし、あの先生ちょっと苦手だから遅刻して行きたいし。」

「オレも、あの生徒を少しバカにした感じ、苦手。」


 たぶん、そういう風に彼女が変にいい子ぶったり、よく見せようとしたりしないからオレも楽なんだろう。マイナスな言葉でも彼女の手にかかれば、もっと丸みを帯びた印象になるから不思議と嫌な気分にもならない。

 オレ達中学生を幼稚園児かのように扱い授業を進める教員を思い浮かべ、ふざけて顰めっ面をして舌を出すと栗田さんは、中学生は多感なのにね。と肩を竦めた。


「まあ、だから、とりあえずオレも遅く行きたいしさ、大丈夫大丈夫。 」

「いやいやいや、大丈夫じゃな、あっ、」


 まだ断るのを諦めない栗田さんから紙を奪って、床に端を当てがいながら揃える。自分から仲良くしようとするなんて物心ついてからは初めてだから、とにかく親切にするしか方法がわからなかった。友達は作ろうと思ってる作ったことなんかなかったし、女の子と喋るのだってそうだ。いつもオレは受け身でよかった。慣れないことなんかするもんじゃないなあと苦笑すると栗田さんは不思議そうな顔をして、意味もなく遅刻したら悪目立ちするのに。とぼやく。そういうのは、オレにとって取るに足らないことなんだと思う。気にならないわけではない。でも、だって、そういうの気にしてたら、きっとオレがもたついてる間にもアンタはあの人たちともっと仲良くなるんだろ?それは、ちょっと、悔しいじゃないか。オレにだって少しくらい隙間をわけてくれたっていいじゃないか。オレだって、無条件でオレをわかってくれる人がほしい。何もないオレを引き出してくれる人がほしい。


「じゃあ、のんびり行こっか。」

「やったー。」


 引き下がらないままじっと栗田さんを見つめていると、オレの視線に気付いた栗田さんは一瞬だけ目を合わせて気まずそうに泳がせ、漸く折れた。どうやら、押したらある程度は負けてくれるらしい。


「そういえば、栗田さん足のギブス取ったんだ。」


 何を話そうかと何の気なしに、目についた彼女の足について述べる。すると、彼女はぱあっと笑って食い気味に、うん!と頷いた。先週だけどね、ほら、帰り一緒に帰った友達と病院行ったら取ってもらえたの!と顔を綻ばせる。突然、態度が変わるもんだから、驚いて目が丸くなった。確かに前に、体操をやってるって聞いたし、怪我のせいで練習できないとも聞いたけど、そんなに喜ぶことだったのか。さっきの困った顔から一変、ニコニコと溢れんばかりの笑顔だ。
 オレが目をパチパチとして、足取りの軽くなった栗田さんを見ていると、彼女はそれに気付いたらしい。あ、と小さく声をあげて申し訳なさそうに、ごめんね。と謝った。


「え?なんで謝んの?」

「えぇと、なんか、引いたかなと思って。」

「いや全く。全然。驚いただけだって。」

「ならいいんだけどさ。」

「足と腕、治ったら体操できるんしょ?そりゃそうなるんじゃね。」

「リハビリしなきゃいけないんだけどね。」

「リハビリってどんなことすんの?」

「うぅん、…とりあえず、家まで1人でなんもなしで帰れるようにするっていうのがリハビリってことにしてる。」


 ちょうど今日からみんな部活始まるしね。と栗田さんは明るい声で言ってのけるが、その眉は少し下がっていて寂しそうだ。今だ、と何故かオレの声が頭の中で響いた。


「オレもっ!」

「わっ、」

「あ、ごめん。」

「いーよ、別に。どうしたの?黄瀬くんも結局部活入ったの?」

「いや、違くて、オレも帰宅だから、…その、……一緒だなーって……はは。」

「そうなんだ。前に話してたときの感じでなんとなくわかってたけど、意外。」


 勿体ないなあ。という天井を眺める栗田さんの呟きを今のオレは気にしている余裕なんかなかった。さっきのしょうもない誤魔化しに、なんで感想で機を逃したんだと恐ろしい速さで反省会を済ませてから、えっと、だから、とたどたどしく言葉を紡ぐ。なんだってオレは、こういうことを今まで乗り越えてこなかったんだろう。自分がここまで緊張するなんて知らなかった。
 オレがもたもたしているうちに栗田さんは前に進んでいく。決して速いわけじゃないけれど、案外足は大丈夫らしい。彼女はオレのことなど気にもとめず、黄瀬くんって家どっちだっけ?と振り向きざまに呑気な声で言ってのけ、転けた。勢い余ったのか、まだやはり治っていないのか、よくわからないけれど、ベチン!と弾けるような音が響く。
 慌てて駆け寄ると栗田さんは、うおおおセーフセーフ…。と冷や汗をかきながらギブスに囲われた腕を摩った。オレが手を差し出すと、実に自然にするりと掴んで、ありがと。と立ち上がる。こういうのは、あの友達にいつもやってもらっているんだろう。何の戸惑いもない。
 空いている左手で膝とスカートを払う栗田さんに、大丈夫?と声を掛けた後、自宅の方面を告げる。すると、マジか!と顔を上げた。


「うちん家の近くだ!今日一緒に帰ろうよ!」

「ええっ!?」


 思ってもみなかった誘いに驚きの声を上げると、嫌ならいいや。と軽い誘いだったかのようにすぐさま取り下げる。オレからしたら、自分が言おうと思ったことを言われてしまったものだから驚いただけで、嫌だなんてまさかって感じ。ちょっとだけ吃って、い、嫌じゃない!帰ろ!と口を開いたら、思ったよりも大きな声が出てしまった。栗田さんはこれまた呑気に、よかったー。と破顔する。


「わたし、1人で帰るっていうと友達にめちゃくちゃ怒られんの!」

「それで誘ったの?」

「そう!」


 お前は注意力低過ぎんだよ!って言われたの。と釣りあがった眉を表現しているのか両人差し指を目の上に当てて厳しい表情を作っている。誰かの顔真似なんだろう。オレがきょとんとしていると、栗田さんはオレが手に持っていたプリントを攫っていって、置いてっちゃうよー。と階段に足を掛ける。そこで漸く自分が放心していたことに気付いたオレは、バネのように立ち上がって彼女の後ろを追いかけた。


「栗田さん!」

「んー?」


 授業はもう始まってしまっていたから、迷惑にならない程度に大きな声を張って栗田さんを呼び止める。特に大した訳でもないんだけど、と前置きをして手を差し出すオレに、栗田さんは首を傾げた。


「い、今更だけど、オレと、友達になってください!」

「……、…ぶはっ、」


 オレの言葉に2、3拍黙ったかと思ったら、栗田さんは突然吹き出した。沖さんや佐伯くんと一緒にいるときだって滅多に見ないような大笑いだ。オレ、そこまで変なこと言った?すげえ不安になるんだけど。
 栗田さんは一頻りゲラゲラ笑った後、ヒーヒー言いながら息を整える。


「な、なんで笑うの!」

「や、だって、いきなりだし!小学1年生の女の子みたいだし!意味わかんない!おもしろ!」

「ひでえ!」

「いやあ、まあ、でもわたし、昔からそういうこと言う子あんまり好きじゃないんだよね。」

「(何この人ストレート。)」


 あまりにオブラートに包まれてなさ過ぎな彼女の言葉に固まる。何気に率直だ。人を傷つけない言い方をしないというのは勘違いだったのかも、なんて思っていると、だってさ、と栗田さんが目を伏せる。だってその言葉って嫌だって言えない雰囲気あるでしょ?それが嫌。友達くらいこっちだって選ばせろって思うわけ。ってつまんなそうにつま先を見つめていた。まあ、確かにそうかも。


「でも、」

「でも?」

「そういう風に必死に言われちゃうと、割と嬉しいもんだね。」


 栗田さんの厚みのある唇が弧を描いた。じゃあ帰り道、わたしの見張りよろしく。って、スカートをひらりと翻して階段を登って行く。ゆっくりゆっくり階段を登る栗田さんに並んでプリントを受け取ると、彼女は手摺に手をかけた。彼女の足がぎこちなく1つ上の段に置かれる。


「階段だけなんだよ。」

「…まだ何も言ってないよ。」

「そうだね。」


 震える足を一段一段持ち上げる彼女がにっこり笑った。エレベーターで行けばいいのに、なんて、何をそんなに頑張る必要があるの、なんて、言えない。




title by 金星
20141002
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