743 


「ごめんね。」

 お母さんの温くて薄い掌がゆっくりと剥がされた。

「まって、やだ、」

「なまえにはつらい思いさせちゃうね。弟のこと、しっかり見てあげれるよね。お姉ちゃんだもんね。」

「できない!まま、やだ、まま、ままっ!」

 わたしはまだ、幼かった。わたしは、自分の短い腕が母親に届かないことを知っていて必死に伸ばしていたし、小さなその手が掴めないことを知っていて空を引っ掻いていた。わたしはまだ幼かった。わたしを抱き抱える知らないおじさんを押しのけて、有らん限りの声を出して手摺りから身を乗り出すと、おじさんに危ないから、お願いだからと両手ごと抱え込まれた。わたしはそれでも諦めなかったし、小さな小さなわたしの弟は、知らないおばさんの顎を腕で押さえて前に飛び出そう としていた。

「いやだ、まま、おいてかないで、おねがいだから!…っ、ぱぱぁっ!」

 安心するような低い汽笛の音が鳴り響いて、それがどうしようもなく憎かった。どうしようもなく諦められなかった。ぐしゃぐしゃの顔で、いやだ、いやだと今度はパパに手を伸ばした。ママは背が小さかったから、もう、すっかり届かなくなっていて、パパならまだ間に合うと思ったのだ。ゆっくりゆらゆらと浮かぶこの方舟がだんだん陸から離れようとするのをなんとか繋ぎ止めたかった。

「まって、まって、おねがい…っ、いやだ、まってっ、ぱぱ、ぱぱ…。まま、なんでもするからっ、 まま、」

 ずっと泣き叫び続けていたから、まともな声は出なくなっていたけれど、わたしはありったけを叫び続けたし、しゃくりあげすぎて過呼吸になっても手を伸ばした。ママは、ごめんね、ごめんね、を言いながら涙を流していて、泣いたとこなんか見たことないパパだって顔を歪めて、言いようのない目でこちらを見ていた。わたしや弟だけじゃない。パパもママもいやなのだ。みんな一緒にあちらへ行きたかったのだ。そんなことはとうの昔にわかってたけれども、どうしても納得できなかった。でも、わたしはとうとう我儘を言うのをやめて、数回呼吸を元に戻そうと口をつぐんだ。 まだ、酸素をたくさん取り込んでしまっているままだった。とても、とても、くるしかった。のどがきゅう、と詰まって、息ができないんじゃないかと思うくらい、くるしかった。はりさけそうだった。

「なまえがまんするからっ!おねが い…っ、これから、もう、泣いたりしないか らっ、むかえにきてね、ちゃんとこっちきて ね…っ!つぎのおふねがあるんだよね!?やだからね!あえないのはやだから!ぜったいっ、ぜったいきてね!じゃなきゃっ、なまえ、いくから! ぜったいそっちにいくから!」

 船がもう一度低音を響かせた。ママは静かに、ダメだよぉ。とこちらに手を振る。

「あえなくてもいいから、死なないで。」

 パパとママはこれからまた悲しいことやくるしいこと、こわいことが再びやってくることがわかっているのに、口の端っこを上に向けていた。ぐちゃぐちゃに映る世界の中でも、それがひくひくと震えているのが見えた。ほんとは、わたしたちを打ち捨てて2人が船に乗ることもできただろう。我先にと他の人間を押しのけて、それこそ向こうの隅で2、3人はさらに入れそうな自分のスペースを我が物顔で取っている無頼漢を突き落としてしまえばいいのに、2人は少しもそんな素振り を見せなかった。でも、だとしても、おそろしいほどに高潔で、愛情深い二人を、わたしは素直に尊敬することはできなかった。

「……っ、いっしょ、に、いこうよぅ…。」

 地鳴り響く、五歳の話。



 846 



 必要最低限の肉を削ぐと鮮血が深緑の外套に飛び散った。

「汚ねぇな、くそったれ。」

 アンカーを射出した廃屋の壁に足を着き、そう呟くと同時に奴らの血が蒸発する。最低限の労力で済ますことを意識しすぎてしまって、既に硬質スチールの刃はもうダメになってしまった。刃を捨てて新しいものを付け直していると、背後で、あのさぁ!とハンジの声が響く。首だけで少し振り向くと、奴らの生首を持ち上げ、投げ飛ばしたところだったようで、うおっ!スッゲ!やっぱ軽っりぃ!スゲェェェェェッ!!!!と一人震駭していた。 なにやってんだ、お前。つか、なんでいるんだ、 別の班だったろ。

「なんだ。」

「や、人間の質量の比と………じゃない、前方の巨人、周りに私達がいるのにあの子だけを追ってる!」

「奇行種か、面倒くせえな。大体何でこんな壁外でガキなんかがいるんだ。」

「付いて来ちゃったんじゃない?一般人がこちらの意図とは別に同行したまま遠征を続行したって前例あるらしいし。度胸あるなあ。」

 俺に言う前に自分でやれよとも思ったが、どうせ奴に何を言ったところで意味がないことはわかっていた。だから、不満は全て舌打ちを一つするだけに留めて、少し目を細めて焦点を合わせる。すると、ちょうど女が躓いたようで、7メートル級と思しき巨人に左足を掴まれ逆さ吊りになったところだった。スカート代わりとして巻いているらしい薄手の大きな布が捲れるのを片手で押さえ、食われる ことに恐怖しているのだろう、目を見開いては口をパクパクと、喋るわけでもなくただ開閉している。アンカーを壁から外し、奴の項に刺し直した。壁を蹴ってガスを吹かす。今度は刃に負荷をかけ過ぎず、出来るだけ深く抉ってやろうと身体を捻ったとき、自分の向かう方向から鈍い衝撃音が響いた。 アンカーを刺していた巨躯がぐらりぐらりと揺れ動き、ワイヤーが撓む。1度別の廃屋に射出して巨人から距離をとって様子を見ると捕らわれていた女の姿が消えていた。もっと言えば、あの女を掴んでいた巨人の手首からそっくりなくなって、 片足は力なくずるりと伸びている。見たところ関節が外されているようだった 。

「(…まさか、あのガキが?)」

 目を凝らして少し様子見すると、確かにあの小柄な女は7メートル級の腕から逃げ出している。服装からして一般人なのだと思う。ただ、羽織っている土埃色の革製の上着に盾の紋が縫われているのと何故壁外にいるのかが気になるが、まあ、いい。奴らをまず削いで、それから話を聞けばいい。他にも少々不審な点があるが、巨人を痛めつけているところを見るに奴らの敵ではあるらしい。折れ刃の柄を持つ手に少しだけ力を籠めた。

「待って、リヴァイ。」

「さっきから何なんだお前は。」

「うん、ごめんね。さっきから助けろと言ったり 助けるなと言ったりして。」

 謝っている割に、その声はどうも明るい。身を乗り出してあの女を観察するように見るハンジの瞳は爛々と輝いていた。すごいよ、リヴァイ。と奴は唾液を出さんばかりに口元を緩めて頬を赤らめている。こいつの、この状態は恐ろしく苦手だ。まず欲情する意味が理解に苦しむし、自分の脳内で話を飛躍させているからこちらには全く話の意図が伝わらない。元々伝える気もないのだろうが、大概碌なことを考えちゃいないことだけは経験則からわかってしまうのだから余計に嫌になる。

「彼女、奴等との戦い方を知ってるのに、殺し方を知らないみたいだ。」

 ハンジの言う通り、確かに女の動きは、うちの調査兵よりもかなり練度が高く、明らかに無駄がなかった。あの巨大な手首を粉砕する蹴りを考慮しなくてもだ。だからこそ、何故項を狙わないかという点に余計に目がいくのだろう。 一方女は、周囲を視線だけで見回しながら素早く巨人の足元を掻い潜り、相手のバランスを更に崩れさせているところだった。猫のようにしなやかに4メートルほど跳び上がって、ちょうど巨人の鳩尾辺りに膝を沈ませる。動きにまだまだ余裕があるのか、俊敏な動きをしているはずなのにどうも緩慢に見える。そうして女は、奴に中途半端に噛み砕かれ、体液に塗れた兵士達を吐き出させた。それを迷いなく受け止めると即座に地面を離れ、俺達のいる屋根へ移って兵士の亡骸を降ろす。

「返し奉り侍られたき。」

 片膝を付いたままの奴は、非常に聞き取りづらく、尚且つ気分の悪くなる丁寧語を混ぜたような口調でオレ達を見据えた。首や四肢にそれぞれ黒い輪がピタリと付いており、彼女が息を整えるが如く、はあ、と呼吸をする度に首から下げた2連の首飾りが揺れる。2本の細い鎖にそれぞれ金属製の小さな半月型の板と丸いペンダントがぶら下がっており、金持ちの愛玩動物のように見えた。この御時世に珍しく食物の恩恵を十二分に受けているような体つきであるものの、この世の全てが詰まらないとでも言いたげな顔であるから、きっとそうなんだろう。少しばかりその子供を哀れに思って、とりあえず上に報告か、と溜め息を吐く。
 変態が手の甲で口を拭い、ゆらりと動き出した。

「どこ出身!?どこの区抜けてきたの!?誰に教わった!?触っていい?筋肉!触っていい?触るよ? 触っ、触っ、」

「なんならむとも。」

「いいの!?うおっ、うおおおあああああっ!!!!」

 食ってかかるかのようにハンジが自分の肩を突然掴んだにも拘わらず、女は驚きで身を引くどころかまゆひとつ眉1つ動かさなかった。先程までの鋭敏な反応は完全に消え失せており、言葉を交わした直後よりも大きく上下する肩にゆっくりと乗せられた汚らしい掌を一瞥して少しばかり首を傾げたものの、腕を差し出すその姿はまるで別人である。
 思ったよりも柔らけー。筋肉で覆われてると思ったんだけどなあ。と指先から掌、肘、二腕、脇へとまさぐっていく変態は相も変わらず通常運行だ。もう今更自重しろと言うのは諦めてる。
 ハンジだけを視界から締め出して、仲間の遺骸を返してくれて助かった。礼を言う。と会釈すれば、(なづ)まざり給へ。死してなほ辱めらるるは見るに忍ばず。と女は俺を見た。見るに耐えないと言う割に顔に動きがない。お前、名は。と問えば、キリシマ。と目を伏せた。どこかで犬の鳴き声が聞こえる。特になんの変哲もないことであったが、キリシマは何かが弾けたように顔ごとこちらに向き直り、オレ達の胸倉を掴んだ。俺の視界が反転する。

「ぐっ…!(すっとぼけた顔しやがって、何が見るに耐えねえ、だ!)」

 気付けば体は傾いており、引き倒されたのだと理解するのに随分かかった。俺達を欺いて食わせるつもりだろうか。巨人信奉なんざ、絶滅したと思ったんだが。と顔面から屋根に突っ込む前に右手で受け身をとり、そのまま回転して体勢を直す。視界の端でハンジはゴロゴロと転がってから立ち上がり、俺と同様に半刃刀身を構えていた。
 奴は、とハンジに声をかけたところで地鳴りが響く。すぐさま背後に向き直れば、先程うちの兵を吐き出した巨人が俺達の立っていた場所でキリシマとかいう子供の左肩をその歯の間に挟んで噛み千切ろうと躍起になっていた。どうもさっきの行動はオレ達に危害を加えるようなものではなかったらしく、むしろ、俺達を救済するものだったようである。苛立ちがすぐさま罪悪感と困惑に変わる。普通、会ったばかりの奴の為に命なんか張るかよ。 そんなことをする奴は相当自分に自信があるか、途方もなく馬鹿なのか、底抜けにお人好しか、だ。胸クソ悪ィ。
 キリシマは、肩から先を噛まれたままに右腕を引くと、2、3言口を開き、その拳で巨人の歯を砕いた。口内の血液が付いたのか蒸気をあげる左肩をずるりと引き抜くと屋根から脚を離し、宙で回転して巨人の頭蓋に踵を落とす。音もなく屋根に1度脚を着き、追撃とばかりにその頬を蹴り飛ばすと、とうとう奴も堪えられなくなったのかゆっくり地に落ちた。
 キリシマは、はぁ、と上がってきた息を再び整え、ぐるりと辺りを素早く見渡して駆け出す。そちらには一際背の高い鐘楼があるだけである。奴は楼の手前でぐっと身を沈めて発条(ばね)のように飛び上がると、蹴り砕いて折れたそいつの上部を宙で受け止め、着地と同時に透かさず走り出した。俺が言えることでもないが、一体、あの小柄な肉体のどこにあんな馬力を秘めているというのだろうか。
 奴は屋根の縁で飛び上がったと思えば、楼を手放した。地面に落ちたはずのそれは轟音を立てることはなく、むしろ肉を裂くような鈍い音を辺りにまき散らしていく。下の様子を見るに、楼の上部を楔に巨人の背後から打ち込んで動きを止めたのだろう。ハンジは茫然と両の手を周期的に打っている。巨人は緊張感のない間延びした唸り声を上げながら鐘楼に腕を伸ばすものの、見事に掠めていなかった。

「……検体名、参拾参番。」

 俺達の前に再び足を着き傅くと続けざまに奴は、 (つわもの)が名は霧島。と口を開く。

真名(まな)は覚え出でず、出自が(えにし)の覚えさへ多くを失せにけり。我が博士、返るべき。と仰せられにければ、我が身愛し、傍ら痛しと思へども、軍が狗に舞い戻り侍りたりき。」

「……。」

 違和感しか覚えない文法や単語が淡々と流れるこの状況に、ついに俺の言語野が機能しなくなったらしい。言いたいことはニュアンスでわかるが、 もっと簡潔に話せねえのかと眉間に皺が寄った。 まあそこそこの付き合いのハンジはそれを察したらしく、とても古い表現だよ。と助け船を出す。

「ホントの名前も生まれに関係することも殆ど覚えてないんだって。彼女は、まあ多分上司なんだろうけど、博士の立場にある人に軍に戻れと言われたんで来たらしい。軍ってのはきっと私達兵団のことだろうねえ。」

 頭を抱えている俺達を余所に、女は立ち上がってこちらに背を向けると笛のような音を響かせていた。ふっるい文献では見たことはあったけれど、 実際使ってる人に会ったのは初めてだよ。とハンジは珍しく顔を引き締めていた。

「ねえ、ええと…キリシマ?君は先程自らのことを検体と言ったけれど、今はもう軍部内で人体実験は為されていないんだ。あなたは一体いつ生まれたの?」

「西暦……いや、738年なり。」

「ひゃっく年!リヴァイ聞いた!?七百年代生まれだってよ!ぶったまげ!」

「うるせぇな、聞こえてる。100年前の技術力は知らんが、人体実験が横行してたっつーことは、まあ、その成果なんだろ。」

 その結果が、今日日(きょうび)俺達がやってる壁外調査なわけだが。と皮肉ったが、キリシマにはうまく伝わらなかったらしい。特に気にした風もなく、今は幾年ならむや。とこちらを真っ直ぐ捉える。 846年だよ。君が生まれて108年は経っている。と、そうハンジが告げれば、少し目を丸くした。

「さて、とりあえずまあ君には少し聞きたいことがあるから壁内にしてもらうとして、そろそろここを移動して陣形に戻らないと。巨人にまた襲われては堪らないしね。」

 そう言って口笛を吹き馬を呼ぶハンジに、テメェの後ろに乗せろよ。こんなクソ汚ぇガキとタンデムなんざ御免だ。と先に釘を打っておく。奴は面倒事を何でもかんでも俺に押し付ける節があるのだ。その様子を見ていたキリシマはスッと片手をあげ、仔細無(しさいな)し。と口を開く。

(おの)が相方、飛騨によるところ、半里先にて巨人二体が居りますれば、我等を見つけず、南へ下りたる。」

「相方って、え?君みたいな子って何人もいるの?なにそれすごい。」

 人差し指を咥え呆けるハンジを一瞥して、キリシマは、飛騨。と呟くように口にした。一拍置いて、真っ白な巨大が現れる。奴がブレーキをかけると屋根が抉れた。馬鹿デカい口には薄い布で包まれた、これまた大きな荷物が銜えられており、 キリシマはそれを受け取ると奴を労るように撫でる。

「人に非ず、丈四尺なる巨大な犬に候ふ。」

 埃の一掃できそうな大きな尾が宙で揺れた。巨人共に食い潰された旧世界ってのは、どうも俺達の思考の範疇を超えているらしい。



京都に戻りたくなくて4月に書いてたやつ。
進撃書きたかったけど、夢として誰かとくっつけるってなるとなんか終わりがわからないから消化不良になった。
物語の始まりっぽいけど、続き妄想してるけどたぶんしんどいからやらない気がする。
20140729
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