『センセ、舐めてよ、痛いところ』
我ながら馬鹿なことを言ったものだ。
つい昨日の事だ。喧嘩して裂けた唇を見る目がいやらしく、物欲しそうに見えたから思わず口走った台詞。
明らかに戸惑ってドン引きしてるから冗談だと笑った。
何事も無かったように振舞って、保健室を後にした。名前を呼ばれた気がしたけれど、それも聞こえないふりをした。
恥ずかしさで死にそう。気まずさで顔面引きつる。
だから、一日経った今さえ、保健室の前から動けない。中に入ることも、通り過ぎる事も出来ない。
馬鹿みたいだ。こんなの本当、馬鹿みたい。
「……くそっ」
口癖になっている悪態を吐きながら、意を決して扉に触れる。
ガチッ。
「は?」
ガチッ、ガシャッ。
引き戸を引いても開かなかった。なんだこれ。一瞬理解出来なくてガシャガシャと動かしてから、鍵が閉まっていることに気付いた。
昼休みはいつだって開いてるのに。
やっぱり、昨日のが、俺があんなこと。
頭が真っ白になって、扉に手を伸ばしたまま動けなかった。
避けられてるのか。あんなこと言ったから。
「蒼山くん」
「は、」
呼ばれて顔を上げた。数メートル先に、皿を持った保健室の先生が立っていた。
驚いた顔をしたあと、にこにこと笑い、足早にこちらへ来る。
「ごめんね、午前中は出張でいなくて閉めてたんだ」
「あ……うん」
「蒼山くん、お昼は食べた?」
「あ、いや……」
「マフィンを貰ってね。今温めて来たんだけど、一緒に食べない?」
「あ……」
「あったかくて美味しいよ。僕と半分こだけど」
ガチャガチャ、ガチャン。
鍵が開いて、先生が中に入った。振り返って、どうぞと微笑む。
「……しかたねーな」
聞こえないくらい小さく呟いて、俺も保健室に入った。
いつもみたいに、ローテーブルの前に置かれた安っぽいソファーに座る。ローテーブルにマフィンの乗った皿を置き、当たり前のように隣に先生が座った。
「唇のキズ、まだ痛そうだね。テープ貼っとこうか」
「う……ん、」
不意打ちで唇に触れられて、変な声が出た。
先生はいつもみたいに微笑んで、俺の顎を撫でる。口開けて、ちょっとしみるよ、テープ貼るからね、うん、大丈夫だね。先生の言葉は聞こえているのに、その意味は脳を素通りしていく。確かめるために触れた指、またドキドキと心臓が鳴る。
耳が燃えるみたいに熱い。誤魔化す為に机の上に置かれたマフィンを凝視して、まるで食いしん坊みたいだ。
「食べようか。甘いの平気?」
「ん……」
半分に切り分けられたマフィンは甘すぎて、食べ終わるのに昼休みいっぱいかかる。
今日はどこそこにこんなことしに行ったんだよ、もうすぐ休みだね、どこか出かける予定はあるの。
先生の問いに曖昧に答える。すごく穏やかな時間で、いつのまにか鼓動も落ち着いて、眠たくなるほどの陽気だった。
「少し、寝させて」
先生の肩に寄りかかって目を瞑る。白衣越しの体温が心地良い。
ゴールデンウィーク目前の、昼下がりの出来事。
終わり
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