どうやって帰ってきたのか、帰省を終え一人暮らしの家に戻るが、足取りはふわふわしたままだった。
 唇に残る感触は固くて苦かった。荒れがちな唇で、柔らかくも、甘酸っぱくもない。だけどそれがとても安曇くんぽくてなお良かった。
 一回り歳の違う従兄弟の安曇くんと、キスをした。それは間違いないのに、それしか覚えていないから、まるで白昼夢でも見たようだった。
 けれど携帯には安曇くんの連絡先がしっかりと入っている。
 朧げながら残っている記憶を辿ると、「向こうでも会おうか」と話して、連絡先を交換したらしい。

 でもそれだけだ。こちらに戻って会社も始まって、正月明けのぼんやりとした頭のまま緩やかに日ばかりが経っていく。
 連絡はない。挨拶だけのトークが、1週間前のまま止まっている。俺から連絡したらいいんだろうけど、なんと無く気恥ずかしかった。
 十年来の憧れの相手とキスをした。でも、好きとも嫌いともお互いがどう思っているのか話したわけでもない。
 じゃあなんでキスしたんだ?そもそも本当にキスしたのか?キスしたとして、また会ったら、キスは、それ以上の事はするのか……?
 同じことをぐるぐると考えて、いつまでも答えは出ない。
 会いたいと言う気持ちが募る一方で、会うのが怖いと言う気持ちも募る。
「はあ……」
 俺はため息を吐いて、思考がこれ以上ネガティブにならない内にメッセージを送った。
『次の休み、会える?』

「何しに来たの」
「会いに来たんだよ」
 玄関扉を少し開け、半身だけ出して安曇くんが言った。
 ありったけの勇気を出して送ったメッセージは既読無視された。それだけで心は折れそうだったが、今さらにダメージを負ってしまう。
 でも、最悪のパターンを想像していたがそれよりはマシだ。マシと言うか、思っていたのと違うというか。
 少なくとも、無精髭を生やし、よれよれのトレーナーとゴムの緩くなったトランクスを着た寝癖だらけの安曇くんは予想していなかったし、怒るでも喜ぶでもない無感情な安曇くんも予想していなかった。
「……中入る?」
「入れてくれるなら」
 俺が答えると、安曇くんは無言で扉を開けた。
 中に足を進めると、安曇くんは扉を押さえていた手を離し、そして一人でスタスタと部屋の中に行ってしまう。俺は急いで靴を脱いで鍵を閉め、慌てて追いかけた。
 狭い部屋で、入ってすぐ左にキッチンがあった。反対側は扉があって、おそらく水回りなんだろう。家具や物は少ないが、なんとなく薄暗い雰囲気だった。
 そこを抜けると洋間があって、部屋の右に置かれたベッドに安曇くんは倒れ込んだ。
「えっ」
 もしかして具合悪かったのか?ベッドの上、壁側を向いて丸まって、顔を抑える安曇くんは、また想像にもない姿だった。
「……た」
「え?」
「葛に嫌われた……」
「え……」
 安曇くんがボソボソと言った。最初聞き取れなくて、しゃがみ込んで耳を近づけて、ようやく聴こえた。
「オレがゴミだって葛にバレた……年一で会うくらいならいいんだよ、でもこっち戻って、会ったらどこ行くとか、何話すとか、何着てくかもわかんなくなって、だから会いたくなかったんだよ……!」
 俺に言い訳してると言うよりは、どこか独り言みたいだった。
 俺も色々考えたけど、安曇くんも色々考えていたんだろうか。
「それは、安曇くんが俺のこと本当は嫌いだから会いたくなかったってこと?」
「そんなわけない」
 そんなわけないと、言う否定の声ははっきりしていて、じゃあどんなわけ?と思うよりも、嫌われていなかったんだとホッとする。
「いつも憧れ……みたいに見てくる可愛い従兄弟の事嫌いになるわけないだろ。でもオレはそんな……そんな憧れられるような、好かれるような人間じゃない……良いとこないし、仕事も底辺で、バレたら……がっかりされて、嫌われるに決まってるから……わかってるのに」
「俺は既読無視されて傷付いたし、こんな安曇くん想像もしなかったけど、がっかりはしてないし、まだ嫌ってもやいよ」
 ベッドに腰掛け、顔を抑える安曇くんの手に触れる。俺の目を見て欲しかった。安曇くんの顔が見たかった。
「嫌わないの?」
「嫌われてると思ったのは俺の方だよ。安曇くんは? 俺の事嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
「嫌いじゃなくて?」
「……すき」
 手を避けて顔を覗き込む。迷子の子供みたいに、困った顔をしていた。逡巡して、溢れたみたいに言う。目はしっかり俺を見ていて、言ってから恥ずかしそうに逸らされた。
「俺も好き……キスして良い? こないだみたいに」
「……ま、待って、歯磨いてくる」
 安曇くんは頷きかけて、ハッとして言った。慌てて起き上がってバスルームへ行く。髭も剃る、シャワー浴びる、と続けて言うから、俺は笑ってしまった。

続く

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