アトラース地球を投げた






 無人の夕闇にふたりきり。甘美な響きだ。


 額を撫でる冷たいてのひら。そのやわらかな仕草に、まどろみの、どこか酔うような感覚に陥りながら閉じた瞼は落としたまま。きっと目を開けたら消えてしまう甘いそれは、手放すには酷く惜しい。
 今しばらくはこのまま、なんて。白く霞んだ霧のなか、手足を投げ出して眠っていたい。てのひらの甘い手付きに酔いたい。夢のような夢の世界の奥底で沈んでいたい。無垢に、こどもの祈りみたいに思いながらゆめうつつのなか霧散した意識をかき集めることもなく。
 ただ、ねむる。
 ただ、ねむり続ける。
 前髪を撫でる風は、掴めば溶けてしまいそうなてのひらは繰り返し額を往復しながら密やかに声を漏らす。笑っているのだと気付くのに幾許か掛かって、ほどけた聞き馴染んだ声の音にオレもつられて少し、口角をあげた。春の陽気は頬にまだらな影を落としているだろうか。
 春。春だろうか。夢か現実かさえ判断できていない今のオレが、認識できているのはてのひらのぬくみだけなのだ。前髪をなぞる軌道を思い描きながらだらり、きっと夢に近いどこか、はざまみたいなそこで四肢を投げ出して惰眠をむさぼっている。ん、だろう。頬にあたる春の陽気、それだって、目を上げればココアから立ち上る蒸気かもしれないのだから。もしかしたら夏のじりじりと突き刺さる灼熱が緩和されているだけ、何てのもおおいに有り得る。――幼馴染み曰く。オレは興味のある事柄意外には全く愚鈍であったので、春だと言い切る自身は正直無い。
 ただ、興味のある事柄であれば片っ端から、いっそ揚げ足でも取る勢いで違えはしない自信はある。
 例えば肌を、額を這うてのひらは柔らかく、白く細く華奢な女の、幼馴染みの手。これは間違いないと言い切れるし、それが発する熱は夢のものでは無い。絶対に。
 だから臆することなく目を開けた。呆気なくはざまは弾けて、焦点の定まらない視界の中それでも鮮やかなエバーグリーンの瞳。澄んだその色はとうの見慣れきったものなのに、未だこうやって胸が震えるのはどうしてだろうか。
 もう夕方よ。苦笑気味に撫子はそう言った。頬のまだらは春であり、夕焼けの斜めに差し込む橙だったのだ。
 重ねた腕の上に頭を転がしたままぼやけた声で生返事。鈍い思考を掻き集めるのは困難で億劫だった。だからなのかは解らないけれど、オレの頭を撫でていた撫子はやめるでもなくかと言って撫でるでもなく、額の上に脱力したてのひらをを投げ出している。おんなのこは甘いにおい――なんてそんなもの有り得ないのは充分承知の上だったし、長く撫子と一緒に居て石鹸以外のにおいが香ったこともなかったけれど、確かに。柔らかく白い手は、肌は、甘いにおいがしそうだな、とも思う。
「、何考えてるんだ」
 思考がそのまま口をついて橙の教室に飛び出す。思わず渋面を作れば、柔らかい癖に言葉尻を上げるような、決して不快ではない彼女特有の笑い声も橙に木霊した。それに、息を詰めるのは。ここ一、二年で根付いた癖のようなもの。
 静かだと久しぶりに実感する。いつも課題メンバーの誰かが居てうるさく騒いでいたからなんだろう。慣れてしまえばこちらのもの、とはよく言ったもので、本当に慣れてからは騒がしさを不快には思わなくなっていた。むしろ、無ければ寂しいと思う程度には、毒されているらしい。きっとこいつも同じように思っているんだろうなあと、内面の似寄った幼馴染の顔を眺めている。いい加減見飽きたそれ、の筈だった。
「理一郎って」
 さらり、オレの前髪を掻き混ぜながら撫子はそう、ぽつりと呟く。前の席に陣取っている撫子を軽く顎をあげ見上げてみるけれど、夕焼けに落ちた教室の、夕日を背にしている彼女の表情を読み取ることは難しい。
 理一郎って。続く言葉は何なのだろう。声ごと心地良いと感じてしまうのだから、オレはきっと何だって良いんだろうけど。
「理一郎って、最近変わったわよね」
 そうして漏らされた寂し気に見える――オレの願望かも、しれないけどそんな表情は。表情が吐き出したのは、まるで意外な言葉だった。思わず跳ね起きて至近距離で見詰め合うことになり自爆する位には意外だった。
 椅子を引き、中途半端な形で静止しているてのひらに目を細め、そこから斜めに持ち上げた視線で撫子を捉えてみる。変わった、のはオレで無く。
「お前じゃないか?」
「え」
「お前の方が、変わっただろ。良く笑うようになったし、御喋りになった。前なら子供っぽいって一蹴してたものも、素直に可愛い欲しいとか言うし」
「それは、・・・でも、理一郎だって」
「オレ?」
 変わった自覚は無い。興味が有ることにしか興味が無い、ある種淡白何だと思う性格。他人との接触を極力避けて、排他的。まとめると内輪根性。
 何も変わったことは無かった。自分のことはわからなかったりするものだ、何てものも良く聞くけれど、確かに子供は蛙が変態でもするみたいにくるくる変わるけれど、オレ自身が変わったかと聞かれれば否だ。変われば気付く。意識が内に向いているからこそ。
 だって今も、あいつ等が居ないふたりきりに心を躍らせているのだから。
「いえ、いえそう・・・ええ、変わってないわ。理一郎私、解っちゃった」
 ちいさく撫子は笑う。ふたりきりだった世界、ふたりきりで無くなった世界、どちらも素敵だったけれど、ふたりきりで無くなってもひとりじめ、は悪くない。
「私は、まあ、変わったんだと、思うわ。自分のことを客観的に見て、だけど。多分そう。でも理一郎はきっと、仲間に入れただけなんだと思う」
「は、あ?」
「いえ、だからね。課題メンバーのみんなを、よ。仲間に入れたから、私にするみたいな態度を彼らにしているだけ。・・・御免なさい、言う前に気付けば良かったわ」
「いや、ちょっと待て、仲間に入れた覚えなんか無い」
 撫子が首を傾げる。肩を滑り、さらりと流れた黒髪が胸に落ちる。
 軌道を辿る。先で、撫子は確信を顔に浮かべて笑っていた。
「私ね、理一郎自身よりも理一郎を知ってる自覚、あるわ」
 ふたりきり、誰も居ない夕焼けの中、いっそ壮絶な程うつくしい笑顔だと思って、そんな思考に恥じ入る隙も無いまま目を奪われる。知らず、唇から息にもならない欠片が洩れた。
 早鐘を打つ心臓をいっそ握りつぶしてやりたい。がんがんと耳の裏で鳴る音がわずらわしい。頬は赤くは無いだろうか。
 どうしようも出来なくなって、オレも笑ってみる。引いた椅子を元の位置に戻し、至近距離。目を細め、口角をつりあげて。好戦的に見えているだろうか。見えていたって、腹の底くらい知られていそうなものだけど。
「そっくりそのまま返してやる」
 ただねむって。ただねむり続けて。それよりも、目を覚まし、こうやって話していたい。
 成程奴らが仲間だったら。
「オレはお前の味方だからな。当然」
 きっとオレと撫子の関係の名前は、その二文字。未だ恋人なんてあまいものは望んでいない――多分。




アトラース地球を投げた
(今しばらくはこのまま。均衡は崩れなくて良い。)









企画に参加させていただき本当に有難う御座います。理撫だいすきです。 辺境ヘヴン/らく
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