「ただいま」
玄関から聞こえてきたその声に、私は蛇に睨まれたカエルのごとく動けなくなった。
……え。
なんで。どうして。
いないんじゃあなかったんですか、お姉さん。
「あらっ?もう帰ってきたのかしら」
玄関へ歩いていくお姉さんを尻目に、私は謎の汗を一筋、浮かべた。
あの聞き覚えありまくる声に、お姉さんの言葉。
そこから推測するに……いや推測するまでもないが、彼が帰ってきたのだろう。
……どうしよう。
まず思ったのは、その一言だった。
どうしよう、これはまずい、どうしよう、本気でどうしよう。
彼は部活で不在らしいから、彼がいないなら心拍数が上昇することもないだろうから、お姉さんからのお誘いを了承したというのに。
現に今、私の鼓動はハンパない波打ち方をしているではないか。
玄関で、お姉さんと彼が会話している。
今日は早いのね、今日は二時までだって言ったじゃない、というような会話。
会話と共に、足音が近づいてくる。
「ところで、見ない靴があるけど、お客さん来てるの?」
「ええ、そうよ。キャラメルマキアートの淹れ方を教えるって約束していてね、」
……まずい、このままじゃあ彼に見つかってしまう!
がちゃ。
「ごめんなさい詩織ちゃん、周助帰ってきちゃっ……あら?」
リビングの扉を開くお姉さん。
だが、そこに私の姿は無くて。
「さっきまでいたのに……お手洗いかしら?」
お姉さんが首を傾げている様が目に浮かぶ。私は一体、こんなところで何をやっているんだろうね。
「詩織……?姉さん、詩織ってもしかして、」
「ちょっと探してくるわ。周助は二階に荷物置いてきなさいな」
彼の言葉を無視して、お姉さんの足音が遠ざかっていった。
ふう、良かった、彼に見つからずに済むぞ……とホッと一息ついたのも束の間。
「佐藤さん」
「………………」
「何やってるの、そんなところで?」
「………………」
不二君が、私が潜んでいるカーテンの陰をひょっこり覗き込んでいた。
前から思っていたが、神出鬼没すぎやしないか、不二姉弟。
………………
不二君に「出ておいでよ」と引っ張られ(その時手を掴まれて不覚にもドキッとしてしまった)、再びソファーに座らされた。
どこまで探しにいったのか、お姉さんはまだ戻ってこない。
「キャラメルマキアートって聞いて、まさかと思ったけど。本当に佐藤さんだったとはね」
「………………」
「一体どこで知り合ったの?」
「……えと、あ、その……うんっと、か、カフェ的な何かで、その……」
彼の方をまともに向けずに、しどろもどろに答える私。
カフェ的なというか普通にカフェだろうが、とつっこみたい。
「学校の近くにあるあのカフェかな?あそこ、姉さんもボクもよく利用するんだよ」
「そ、そうなんだー……」
じゃあ今度から通おうかなー……とか考えたが、考えている場合ではない。
不二君は、私のキャラメルマキアートを手にとり、言った。
「これ、佐藤さんが作ったマキアート?」
「え、あ、うん、一応……」
お姉さんの真似をして、ほぼ目分量で淹れたやつだけど……まあ、うまく淹れられたのではないかと思う。
「一口貰っていい?」
「うん…………ん、え?」
今、スルーしようにも出来ない一言が聞こえた。
幻聴であって欲しいという私の願いは、無情にも彼がマグカップに口をつけようとしているところで泡となり消え去った。
「……わーっ!ま、待って待って、不二君ちょいストップっ!」
必死に言われ、不二君はピタッと動きを止めてこちらを見る。
そんな彼の手から、なるべく手に触れないようにカップを奪い返し、ゴトンと机に置いた。
なんだか、妙な羞恥心に駆られた。
「………………」
「クス、残念」
微妙にからかっている気がしないでもない口調と笑顔で言う不二君。
何が残念なのか訊く気にもなれず、先程の私の一連の行動に彼は何を思ったのか、そしてお姉さんはまだ戻ってこないのかと考えている内に、不二君はテーブルに置かれたお菓子を摘んでいた。
早く部屋に戻ってくれないものか。荷物置きっぱなしのうえ、着替えもまだなのに。
「佐藤さん」
お姉さん特製チェリータルトをパクつきながら、彼はこう尋ねた。
「クッキーは無いの?もう全部食べちゃった?」
「え?」
……クッキー?何の話をしているんだ、彼は?
ここにあるのは、お姉さんの手作りのチェリータルトにラズベリーパイ、ガトーフロマージュのみだが。
「あれ?おかしいな、バタークッキーみたいな匂いがする気がするんだけど……気のせいかな」
……言われて、ハッとした。
バタークッキーとは、もしや、私の鞄にしまいっぱなしの、アレのことでは……。
そんなことが頭をよぎりやや焦りながら一瞬だけ鞄に視線を移したのを、目ざとくも捉えられていたようで、
「あ、もしかして持って来てるの?」
彼は嬉々とした様子で私の鞄に手を伸ばし始めた。
あ、あ、ああぁ……。
止めようとしたが時既に遅し。彼の手には、私のクッキーが詰められた袋が握られていた。
「食べていい?」
「え、だ……」
「ちょうどクッキー食べたい気分だったんだよね」
駄目、と言おうとしたが、彼にキラキラした笑顔でそんなことを言われては、頷かない訳にはいかない。
「……ど、どうぞ」
言うが早いが、不二君はリボンをシュルリと解き、中のクッキーを一枚摘んで口に運んだ。
私の視線は、自然とそちらへ集中する。
パクリと口に頬張ってもぐもぐ顎を動かす不二君。それを無言で見つめる私。
感想を気にしているのがまるわかりだ。
ゴクンと飲み込み、僅かにふっと笑ってから、このコメント。
「美味しい」
その台詞に、はあ……と意味の掴みかねる溜め息を零す私。ホッとしたような、ちょっぴり残念のような。
何が残念なのだろうね。
「甘すぎないから、キャラメルマキアートにもあうかも」
そりゃあまあ、一応そのために甘さ控えめにしたからね……と思いながら、ひそかにほんのりと幸せ気分に浸っており、彼の手が再び私のマグカップに伸びているのに気がつかなかった。
正直、迂闊だった。
「ぷはー」という声が聞こえた時には、私のキャラメルマキアートは不二君のお腹の中に収まっていた。
「……あっ」
「クス……間接キス」
「!!…………ふ……」
クスクスというかニヤニヤというか、含みのありまくりな笑みでそう言われ、今までにないくらい顔を赤く染めながら、恥ずかしさのあまり、
私は、絶叫した。
「……不二君のイジワルーっ!!」
……しばらく後、キャラメルマキアートばりに甘い台詞でもって間接ではないちゅうをされたのは、ここだけの話。
end
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