疾うに酸素は足りません


頭を抱える、という動作を文字通りするのは久しぶりのことだ。テーブルに肘をつき両手で頭を包む。

というのも数日前、若干の不安に駆られながらもキッドさんのもとへ差し入れに伺ったとき、思いもよらぬ言葉を彼から掛けられたことがことの始まりだった。さらにもとを正すのなら初めて差し入れしたときまで遡らなければならない。が、なんにせよその時に差し入れたジャムにどうやら興味を持ってくれたらしく、それなりに仲良くさせていただいてるものの花に欠片も興味がない彼が珍しくそう言ってくれたことがとても嬉しかった。
そしてこう思ったのだ。興味があるのなら、ぜひもっと知ってほしい、と。そうして口をついて出た言葉が「一緒に作りましょう」だった。紙にレシピを書いても良かったけれど料理慣れしていないと文面だけでは伝わらないことも多く、どうせ知るなら自分の目や耳、手で感覚を掴んだほうが確実だろうと思ったのだ。私の家で、というのも誓ってそういう思いからである。

さて、問題なのが、嬉しさが過ぎ去りいざ冷静になってあれやこれやと準備し始めたときだ。
嬉しかったから、あのキッドさんがせっかく興味を持ってくれたからと興奮しながら材料を揃えたけれど、よくよく考えればこれまでの私たちはラーメンを食べに行った程度でなにか深い繋がりがあるわけでもない。にも関わらず彼を強引に家に呼び一緒にジャムを作ろうだなんて、距離感の測れないバカと思われて然るべきである。
きっと変に思ったに違いない。おかしなやつだと気持ち悪がられたかもしれない。
仲の良い友達ならまだしも会社の同僚ですらない私たちは名前をつけられるほどの何かがあるわけでもなく、ホーキンスさんと違ってお店のお客様というわけでもないのに家に呼びつけてしまうだなんて。あの日この提案を引きながらも受け入れてもらえたことは奇跡と言うしかない。

そんなことをここ数日間ずっと考えていた。考えると言ってもおそらく正解などあろうはずがないのだから、堂々巡りのただの物思いといったほうが正確だろうけど。


「で、でもあのあとわざわざお店に来てくれたし…」


そう、あのあと彼はわざわざお店を訪ねてくれたのだ。彼の都合のいい日で構わないと提言はしたけれど具体的な日時は彼の都合による。こちらとしてはそれこそいつ訪ねてくれても大丈夫なように準備は済ませてあったが、それをわざわざお店に来て次の休みはこの日だからその時にまた来ると教えてくれたあたり、律儀というかもはや義理堅い。

そうして今日、予定通りならば彼が来てくれる手はずとなっている。約束は10時頃だ。
それはそれは、朝から忙しないばかりだった。いつもよりも洗濯を回してみたり、床を二度拭きしたり。つまり、なんだか落ち着かないので気を紛らわせるがための無駄な足掻きというやつである。それでも時間を確認するために見た時計の針が少しずつでも時を刻んでいることを認めてしまえば、祭りの太鼓よりも心臓がうるさいことになってしまうのであった。

いまだ平静を取り戻さない鼓動に半ば諦めつつ、最後の確認にキッチンとリビングを往復する。砂糖は、花びらは足りているだろうか。彼に身につけてもらうためのエプロンはわかりやすい位置に置かれているだろうか。
指をさし、声に出し、頭の中に叩き込んだ定位置にそれらがあることを今一度頭の中に入れ、僅かに乱れているエプロンを畳み直そうと手に取った。
キッドさんにどれだけ料理の経験があるのかはわからない。けれど差し入れに持っていったお弁当やジャムを見て大変じゃないのかと声をかけてくれたことから、きっとそんなにお料理の経験はないんだと思う。そうなれば案外お料理やお菓子作りで洋服が汚れてしまうことだって知らないかもしれない。
もしものために買ったエプロン。しかし実はエプロンだけでなく上下で服も買ってある。決して大層なものではないけれど、もしもを想定するならないよりはあったほうがいい、はず。ちなみにサイズは全くわからないので完全に勘である。
事前に今回のことを軽く相談していた友人には「可能性の幅広げすぎ」と窘められてしまった。それはそのとおりかもしれないと納得してしまったことはさておき、使わないのなら使わないでいいのだ。必要なかったということはうまくいったということなのだから。


「まさかジャムを一緒に作ることになるなんて思わなかったなぁ…」


初めてあったあの日、びしょ濡れのままお店の軒下で雨宿りをしていた彼にひどく怯えて目の前を通り過ぎることさえ憚られたというのに。
体格がよく目つきもちょっと悪くて、近寄りがたい雰囲気があるのはきっと今も同じなのだろう。それでもあの頃と今とでは私自身の気持ちが何もかも違っている。あの日のような怯えは今はなく、強いて言うならこの想いの上に乗る彼に尻込みしてしまうだけ。馴染みのない緊張も妙に遅い長針もそういうことなのだ。

それにしても。キッドさんはどんな姿で訪ねてくるだろう。私の知っている彼はいつだって白いシャツと重そうなズボン、そして時々大きな上着を着ていた。今はもう暖かくなってきたので上着を羽織ることはないみたいだけれど、私が知っている大部分は仕事上での彼だけで。思えば彼の休日に会うことはなかったと思う。ジャムを作るということは既に伝えてあるのでもしかしたらラフな格好で来るかもしれない。それでも普段とは違う、そして知らなかった一面が見られると思うと、あの馴染みのない緊張がぶわりと全身を覆ってしまう。

パズルのピースのように歪で、小さくて、散り散りで。だけど散りばめられたピースひとつひとつを繋ぎ合わせていけばいつかそれはひとつの絵になるのではないか。完成されたそれにどんな名前をつけるのか、今はまだわからないけれど、唐突に訪れた出会いのあの日は数あるピースの中のひとつに違いない。日々のそれらがいつでも繋がるとは限らないとしても、最後にはすべてが繋がると信じて。
時計を見れば10時まであと5分。大きく吸い込んだ息で肺が満たされたとき、私を呼ぶ音が聴こえた。

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