とろける魔法は夢の底


ありがとうございましたの言葉が花びらに吸い込まれると、入り口に立つ女性は軽く振り返り丁寧に頭を下げ、暖かさが忍び寄る外へと歩いていった。

平日の15時、お店はゆったりとした静けさに包まれる。先程の女性は数日前に一輪挿しの花瓶を買ったとにこやかに話していた。忙しくなる日々の中に彩りを求め、部屋に花を飾りたくなったそうだ。長持ちするものよりも、週に一度、挿しかえるような花を、と。
花にはいろいろな意味があり、命の長さもそれぞれで人の心に応じて姿を変えてゆく。その女性のように不変よりも目新しさや刺激を望まれることだってあるだろう。それならばそれに寄り添う花を片隅にでも添えて、花の役割というものはそれでいいのかもしれない。
それでもお花はいつだって人々の暮らしの中にあった。祝い事や、誰かを送るときや、なんでもなくただそこにあるものとして、そういう時だってある。
花屋を営んでいると、そうした意味を垣間見ることがあるのだ。それは表情からだったり、選ばれた花の種類だったり。けれど暗い顔をして花を求める人はそうそういなかった。それはなぜなのか。考えてみたけれど、それは祈りであるからではないかと思うのだ。日々の疲れを癒やすため、失くした者への安寧のため、添える花に祈りと希望を込めたのではないだろうか。
こうして花屋を営み愛でる者として、そうした想いというのは非常に嬉しいことである。祈りだろうと希望だろうと、花を大切に思ってくれることがなによりも嬉しいのだ。

花は、人を笑顔にしてくれる。

先程のお客様にも笑顔を届けてくれますように、そんなことを思いながら店内と、ドア越しに見える外を確認すれば人の足は疎らであった。いいことなのか悪いことなのか、しばらく来店はなさそうな雰囲気から、束の間のんびりできそうだと肩を回す。お花は大好きだが花屋の仕事が大変であることは事実で、水換えなどの重労働に肩肘がパキパキと音を立てた。これも花好きによる幸せの音なのだろうかと腕を伸ばしたところで再びパキと乾いた音が響く。
ポケットの中のスマホが音を立てたのもその時だった。
マナーモードにしていたため音では判別できなかったものの、震える長さが数秒に及んだことからメッセージてはなく着信であることに気付く。表示され名は、以前花飾りを作って欲しいと依頼してくれた友人のもので、通話に出ずともなんとなく内容を察するところがある。彼女はブライダルの仕事に就いており、平日の今はまさに仕事のさなかであるはずなのだから。


「もしもし…うん、うん…えっ、本当に?」


まずは久しぶり、なんて無難な挨拶から始まり、次に件の花飾りのお礼を述べられ、ついでにあの花飾りが実は彼女の同僚にも好評であったということを告げられた。花飾りを彼女へ送った直後にもお礼を言ってくれたというのに今でもそれについて触れてくれるのは彼女の人柄なのだろう。ただ、まさかあの花飾りが同僚の目に触れていたとは思わず、しかも好評だったと知り今度はこちらが礼を言う番となった。
あれは仕事とは切り離した彼女の私用のために依頼されて作ったもので、本来なら友達間でひっそりと幕を下ろすものであったのに、ブライダルという華やかな場にいる人たちの目に触れ、かつ好評であった事実に多少の恥ずかしさはあれど嬉しくないはずがない。べつに名を広めたいだとかそういう思いはない。ただ学び培った技量を認めてもらえたみたいで、彼女に伝えたお礼にはそういった意味合いもあった。


「うん…えっ、私が?いいの?」


彼女、仕事中ではなかったの?そう思うくらいに世間話を挟んでくるのでついつい聞き流してしまいそうになったとても大切なこと。彼女は私しかいないと、私がいいのだと言ってくれた。お花が好きで、いつでもお花と触れ合っていられるこの仕事に就いたけれど、今いる場所以外でもそうした機会をもらえるなんて。
喜びの気持ちをもそのまま、より詳しい話を聞き出せば、それはどうやらしばらく先の話のようだった。しかしそれでも今から胸が弾んでしまい、電話の向こうから「はしゃぎすぎー!」との叱責を受けてしまう。その後に続いた「aaaは本当に花が好きだね」の言葉に過去の記憶が一瞬瞼の裏を横切った。まだほんの子供だった私。
ぼんやりと浮かんだ過去に囚われる意識を引き戻したのは「また詳しく決まったら連絡するね」という明るい響き。夜なら長く話せるからと伝え、やがて再びの静寂に包まれた。
嬉しい話や懐かしい思い出に、午後も頑張れそうだとスマホを置けば、カランと入り口から目の覚めるような音が聞こえる。来客だ。通話中でなくてよかったと思いつつ、いいタイミングだなぁとそちらへ顔を向けると、果たしてそこにいたのはよく知った人であった。


「ロビンさん!いらっしゃいませ!ご来店ありがとうございます」
「ふふふ、久しぶりねaaa。元気だった?」


彼女、ロビンさんとは少し変わった関係である。関係と何か名をつけるものがあるかと言うと、きっと同じくお花が好きというところだろうか。
際立ってお店にいらっしゃるということもなければ、学校の先輩後輩というわけでもない。そもそもロビンさんはどこかの大学で考古学の研究指導をしているらしく、人生のレールを思えば彼女とは本来接点のない人生となるはずだった。けれどいつかのイベントで偶然顔を合わせたことがあった。もちろんお花のイベントである。お花をモチーフにしたアクセサリーやハーバリウム、ドライフラワーなど花を扱った広義のイベントに彼女はいた。
私は出展を、ロビンさんは見学を。そんなとこから始まった私たちだが、佳麗な容姿に対して彼女は実にお茶目な人だった。加えて博識なものだから、いつの間にか私が彼女に、それはもう犬のごとく懐いていたのである。
その時に私は自分のお店があることを告白したのだが、それからというもの時折こうして足を運んでくれるのだ。ちなみに連絡先は一応知っている。けれど、なにかと忙しいようでプライベートの関わりはそんなにない。だからこそ、こうして店を訪ねてくれることが嬉しくて楽しみの一つだったりするのだけれど。


「えぇ、毎日大好きなお花に囲まれて、おいしいものたくさん食べて元気にやってます。ロビンさんは?」
「そうね、ちょっと研究が行き詰まってて…あなたの顔が思い浮かんだから寄らせてもらったの」
「わっ!ありがとうございます!なにか気になるものがありましたらお申し付けくださいね」


ロビンさんの目指すところはきっと私にはとても理解が追いつかないところで、けれど彼女の口から紡がれる物語はいつもわかりやすく噛み砕いてくれていたから、私は彼女の話を聞くことがとても好きだった。そしてそんな彼女が息抜きにここへ来てくれるのは、たとえ進む世界が違っていても花に何かしらを求めるという共通点があるから。花が好きだという気持ちは私もロビンさんも同じなのだ。

軽く膝を折り、店内の花々を見て回るロビンさんを眺めながら大きく息を吐き出す。決してため息なんかじゃない、充足の深呼吸である。
まったく、今日は本当にいい日だ。友達から嬉しい知らせは来るし、ロビンさんの顔も見ることができた。これでは今日の夕飯がいつも以上においしくなってしまう。焼肉食べ放題にしようか、それともカレー大盛りにしようか。あぁ、前にキッドさんと行ったあのラーメン屋さんでもいい。
楽しいことばかりが巡る今は、そう、真綿の雲の上にでも乗ったかのように足元が浮いている気がして、けれどそれも悪くないかも、なんて思うのだ。だってこんなにも幸せなんだから。

そうして目を細め、佳人を見つめていれば、どうやら選定が終わったらしく、数本の花を腕に抱えカウンターへと横たえた。
彼女が選んだ花はムスカリ。オーシャンマジックと呼ばれるもので、花言葉は色に関わらず「明るい未来」だったはず。何種類かあるムスカリの中でもこの色を選んだのはなんというか、ロビンさんらしいというか。どの色でも彼女には似合うかもしれないが、今の心情ならばオーシャンマジックだったのだろう。
ロビンさんの苦悩と、それでいて未来への期待が垣間見える。研究の大変さなど私には理解が及ばないが、どうにかロビンさんの望む未来があればと願わずにはいられない。
それならこれはお節介だろうか。余計なお世話と思われてしまうだろうか。
待っていてくださいと声をかけ、手にした花をロビンさんが選んだムスカリの隣へ、寄り添うように。


「あら、ネモフィラ?」
「はい、少しでもロビンさんの癒やしになればと、思いまして…」
「ふふ、ありがとう。顔を上げて?あなたの気持ち、とても嬉しいわ」


頑張るわね。
励ますつもりが励まされてどうするのだろうか。けれどロビンさんが嬉しそうに笑ってくれたから、思いを言葉にしてくれたから。勝手に押し付けたお節介だけど私もまた彼女の笑顔に返すように目尻を下げるのだ。


「ところでずっと気になっていたのだけど」
「なんでしょう?」
「なんだかずっと嬉しそうにしているから…なにかいいことあった?」
「えっ!ばっ、バレて…」
「あなたわかりやすいわよ」


と、ということはだらしない顔してずっとロビンさんを眺め続けていたこともバレてしまっていたのだろうか。思うところがあってわざわざ来てくださったというのに、考えなしにも程があった。
しかしすみませんと謝ればロビンさんは元気をもらえるからと受け止めてくれて。
昔からそうだ。感情を隠すのが苦手だとかそういうことではなく、単に出てしまうというだけで、言ってしまえば自分の感情の発露について熟考しないだけということである。ロビンさんは笑って大丈夫と言ってくれたけれど、こういう気質が気に障る人だってもちろんいるはずで、些か浅慮であった。気をつけなければと自分自身を叱責すれば、目の前の彼女は優しい笑みを深くする。気にしなくていいのに、と。


「それだけ嬉しいことがあったんでしょう?」
「う…は、はい。実は、以前私用で花飾りを送った友人が彼女の同僚に見せたらしくて、随分好評だからと今度は正式に結婚式で使う花飾りを作ってくれないかって…言ってくれたんです」


自分の技術を認めてもらえたみたいで嬉しくて。
するとロビンさんは私の手を握り、よかったわねとあの優しい笑みをやはり深くして、そう言ってくれたのだった。
自分を卑下するわけではないけれど、小さな頃から夢はたったひとつしか見てこなかったから、私にはこれしかなくて。だからこそこの道に進むことができたのは何にも勝る幸福だった。それを、ただ関わるだけではなくこうして誰かに求めてもらえるのだ。
夢は誰だって見ることができる。思いを巡らせ、未来の自分へ期待する。しかしすべての人が手にできるとは限らない。できる限りを尽くしたって結果が伴うとは断言できないのだ、夢というものは。
それらを踏まえての今の幸福だと思っている。もちろん私も努力はしてきたつもりだ。店という形を持って、夢は叶ったと言っていいだろう。努力は実を結んだのだと、このカウンターに立って揺れる花びらを見るたびに思う。では本当に努力だけでここまで来たのか?
いや、そうではないはずだ。運が良かったのだと認めざるを得ない時だってあった。何があっても傍にいてくれた家族、励ましの言葉をくれた友人たち。そんな素晴らしい人たちに巡り会えたことこそ幸運だったと思うし、今へと繋がっていることは間違いない。そしてその繋がりがまた次へと繋がってゆく。
友達が信頼の上で托してくれたこの依頼を、幸せという思いだけで終わらせてはいけない。運が良かったのなら、それに報いらなければならないのだ。


「aaaならきっと大丈夫だわ。でも、何かあったらいつでも連絡して。力になるから」
「ありがとうございます…!私も、ロビンさんのこと…心から応援してます」
「ふふふ、ありがとう」


あなたが添えてくれたネモフィラがあるから、と包んだ花束を大切そうに抱え睫毛を伏せた彼女はなにを思っているんだろう。
夢を掴むかどうかは努力によるところもあるけれど、それだけではどうにもならないことだってある。それでも、それでも彼女の未来が明るいものであってほしいと心から願った。
そうしてカランと音を立て、ロビンさんは未来の中へ姿を消した。

嵐を前に咲く花は項垂れた姿ですら美しい。





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