目次には載っていない愛とか恋とか


スマホを片手にカレーパンを口に運ぶ今の時刻は正午を2時間ほど超えたあたりである。
基本的に明確なお昼休憩の時間というものは作っておらず、それらしい時間帯で人の波が引いてきた頃を見計らい、レジの奥にある一室で休憩を取っている。
その際店内は無人になってしまうものの、昼食時や休憩時はカウンターに呼び出し用のベルを置いているのでなにかあればそのベルが鳴るはずだ。しっかり"御用の方はお気軽に押してください"と札を立ててあるし。
一応この部屋は壁とドアであちらのフロアと完全に仕切られており、休憩時はドアも閉め切っているけれど、あの単純なベルの音は思っているよりもずっと耳に届きやすい。テレビをつけていたってちゃんと耳に入って来るのだ。だから安心してテレビを見ることも集中してスマホを見ることもできる。

そうしてカレーパンを片手に薔薇ジャムの作り方なんかを調べているときだった。
金属と金属がぶつかる音がテレビから流れてくる音を掻き分けて耳に届く。つまり来客だ。
この時間にお客様が訪ねてくることは珍しいことではないけれど思ったよりも気を抜いてしまっていた、というかスマホに写っている薔薇ジャムの作り方に没頭しすぎていた。急いでテレビを消し、お茶やタブレットなんかでカレーパンの匂いを抹消し、少しだけ前髪をちょちょちょと整えて靴につま先を差し込む。
ぐるりとドアノブを捻り花の薫りが鼻孔を、色彩が網膜を撫でたら仕事の顔をしなければならない。


「ご来店ありが…」
「よォ」


ここで私が述べたかったのは「ご来店ありがとうございます。お待たせいたしました」だ。
しかし鮮やかな八重赤を見たら言葉に詰まってしまって先を紡げなかった。心臓を少しだけ急かして動かす脈動が、吐き出す息ごと体の中へ取り込んでしまったかのように。
けれども私はこの花屋の店主である。花屋は接客業であるが、信条として売るのは花だけではない、というものがある。心を配り、笑顔を届け、綺麗なお花を渡すのだ。それをまさかお客様を不快にさせるだなんてことあってはならない。まして彼にはいろいろとお世話になったのだ。にこやかな笑顔、耳に痛くない声を極力心がけなければ。


「よォ。用があったら押せって書いてあったから押したが…今いいか?」
「だ、大丈夫です!あ、いらっしゃいませ。なにかお探しで?」
「いや、違ェ。花はいらねェ」


またこの人は。花屋へ来たというのに堂々とお花はいらないだなんて。あまりにもストレートすぎる否定に堪えていなければ笑ってしまいそうだ。
ここへキッドさんが来たのは今日で二度めだけど、一度めの時もやっぱり花を買うことはなくて牛丼代を返しに来てくれただけだった。
これでも花好きが高じて花屋を営むに至ったのだから、やはりお花を見て欲しいなぁなんて思ったりもする。とはいえ、そんなことは人それぞれであるし、お花を買いに来たわけではないのならここまで訪ねてくれた理由はひとつしかなくて。その理由もまた彼の生真面目さというか律儀さ故なのだから、たとえお花に興味がなくとも嬉しく思ってしまうところがまた難儀なものだ。
つまり、花屋としては寂しい部分はあるけれど個人的には嫌な気は全くしないということである。

嫌な気はしないけれど、彼にとってこのお店はただの流れゆく風景でしかないのも事実だ。そんなものに嬉しいも寂しいも、あれこれの感情は湧かないもの。
社交辞令、というほどのことでもない。挨拶を済ませたあと、なんのご用でしょうかとわざわざ聞いたのは、彼はこのお店のお客様ではないしあの日私が押し付けたお節介も今日で終わりだと思ったから。お花に興味のない彼のことだから、この前のように偶然どこかでばったり、ということもなければもう会うことはないだろう。そう思ったらなんだか手短に済ませたほうがいいような気がしたのだ。
もしも彼がホーキンスさんのように、なにかしらお花に興味があったのなら、また会うこともできただろうけど。

そうしてにこにこと彼からの返事を待てば、その答えはカウンターへ。
どさりと置かれた紙袋の中身にはおおよその見当はついている。


「合羽とタオルですよね?わざわざ洗っていただいてすみません」
「……それなんだけどよ」
「え?」
「お前から借りたものはこっちで使うことにした。その中身は新しいもんだ」
「えっ……どうして?」
「どうしてって…おれが使ったやつなんかもう使いたくねェだろ。見ず知らずの男が使ったもんだぞ」
「そんなこと…」


それを言ったらそもそもあれは見ず知らずの女が唐突に渡したもの、ということになるんですけど。でも「あの日は悪かったな」という言葉に少しは役に立てていたのだろうかと、じわりと安心が胸に滲む。あの日勇気をだして良かった、かも。
いや、それよりも私が勝手にしたお節介だというのにキッドさんはこうして返しに足を運んでくれただけでなく合羽とタオルを新調してくれたというのだ。もはや律儀を通り越してお人好しなのではないだろうか。
もちろん私はこんなふうにお返しをしてほしかったわけではないし気を遣わせたかったわけでもない。あの日私がしたことが自己満足であるなら、彼のこれもまた一本筋の通った心根なのだろう。同じく見返りを求めるものではない生来の優しさ。
けれどそれに甘んじていいはずもない。ちょっと下世話なことを言うのなら特に深い意味も持たず貸したものに彼がこんなにお金をかけて返す義理はないのだ。合羽なんて思ったよりも値が張るし。

慌てて財布を取りに行こうとすると、何かを察したらしいキッドさんが私を呼び止める。


「あの、お…お金を…」
「あ?いらねェよ、んなもん。おれが勝手にしたことだろうが」
「でも…こんなにしていただけません。私、何もしてないのに…ちょっとタオルとかお貸ししただけなんです」
「その"貸す"ってことが大概はできねェもんだ。それができるだけ充分価値はあると思うが?」


なんて真っ直ぐな人なんだろう。この人は思ってるだけでなく、思ってることを行動に、そして言葉にすることができる。躊躇いも怖れもないのは自分自身のすべきことがしっかりわかっていて、心が歩む先を信じているからかもしれない。
キッドさんが私を褒めてくれたのは、あの日、心許なくともちゃんと行動に移せたから?思ってるだけで終わらなかったから?
全部私の推測でしかないけれど、そうだったらいいな、なんて。

包みを受け取り頭を下げれば、彼が少しだけ笑ってくれた気がした。たとえば今日でもう会えなくても、こんなにすっきりとした終わりならいい思い出になりそう。いつか、いい人だったなぁ。あの人いま元気なのかなぁって思い出すこともあるかもしれない。キッドさんとの出会いからさよならまでが私の中で綺麗な思い出として残ろうとしている。

そしてこちらも同じように彼の顔を見て笑顔を作ろうとしたとき、ぐぅぅ…なんて情けなくて恥ずかしい音がじんわり広がった。
その音が何であるか即座に理解した私の顔は笑顔どころではなく真っ赤に、キッドさんは可愛らしくぱちぱちと瞬きを繰り返している。


「ご、ごご、ごめんなさい…」


せっかく綺麗なさよならで終わりそうだったのに、まさか締めくくりが私の間抜けなお腹の音で終わるなんて。

そういえば少し前にもこんなことがあった気がする。あれはたしか初めてキッドさんが訪ねてきてくれた時、そのときは私ではなく彼のお腹の音だった。まだ彼のことをなんにも知らない頃だったからお花を掻き分けて向かってくる彼がちょっぴり怖かったんだっけ。
恥ずかしさのあまり始まった現実逃避にちょっとしたデジャヴを感じながら、思えばお昼がまだ途中であったことを思い出す。
薔薇ジャムについて調べながら食べていたせいでいつもよりもゆっくりとした昼食だったのだ。すべてを食べ終わる前にベルが鳴ったから当然満腹なはずがない。こんなことになるならジャムの作り方なんか後回しにしてさっさと食べておくんだったと後悔と恥ずかしさで泣きそうになる。


「…腹へってんのか」
「は、はい。カレーパン一個しか食べてないので…」
「そりゃあお前の腹じゃ足りねェだろ」
「うっ…!お、大食いで恥ずかしい…」
「…昼がパン一つなら夜はどうするんだ?」
「え、夜?」


聞かれて考える。今の時刻は14時過ぎだ。たとえお腹が空いているとはいえ一応カレーパンを食べていたし、頭の中はまだお昼のまま。だいたいいつもなら夕方過ぎに来店するお客様のお話をこそこそっと聞いて決めている。お客様や道行く人が今からパスタ食べに行くんだぁ、なんて話をしているならパスタになるし、焼肉行かない?なんて話なら焼肉や牛丼になったりもする。
そんなふうに適当に決めているため今はまだ特に気になるものがない。時々はお昼に見たテレビでやっていたものにしようということもあるのだが、生憎今日は調べ物をしていたためにそういったこともなく。
要するに未定だ。
ただお昼ご飯は夜がっつり食べることを想定して案外少なめであることが多い。私にとってのお昼ご飯とは夕飯のための前哨戦という意識があったりするからで。今日はちょっと少なめだったけど、普段もパンふたつとかそれくらいで終わり。それというのもお仕事を終えて食べるご飯は空腹であればあるほど美味しく感じられる気がして、簡単に済ませがちなのである。


「えっと、まだ、決めてません」
「そうか…なら食いに行くか?」
「えっ!? 夕飯!?」
「あァ」


今キッドさんはなんて…?食べに行く?夕飯を?キッドさんと…私で?

あまりにも想像を超えた提案にあんぐりと口が開いただけでは飽き足らず、なんの意味があるのか周りをきょろきょろと見回す始末だ。そんな挙動不審すぎる私の行動を困惑か、それとも拒否と取ったのか、嫌なら別にいいと言い出してしまったキッドさんの言葉に慌てて嫌じゃないですと被せれば、さっさとそう言えと頭を小突かれてしまった。
だ、だって。だって!まさか夕食に誘われるなんて…!さっきまで私とキッドさんはもう顔を合わせることもない、このまま綺麗にさよならするんだって思っていたのに。さよならどころかお仕事が終わったあとに貸し借りの件は関係なくただ二人でご飯を食べに行くのだ。これが想定外と言わずしてなんと言うのだろう。彼のことはまだ知らないことばかりだけど、それでも嬉しいか嬉しくないかと問われれば間違いなく嬉しい。私から夕飯に誘うなんてきっとできないから、こんなことあるんだって胸がふわふわする。

けれどあまり浮き立って勘違いしても恥ずかしいから、私とキッドさんだけで行くんですかと尋ねてみた。すると他に誘いたいやつでもいんのかと逆に聞かれてしまったのでそちらも恥を忍んで否定しておく。どんな意図があるのか、キッドさんはなんだか可笑しそうに笑っていたけれど、私にはちょっとそんなふうに笑う余裕はない。この短い期間でいろいろなことが起こりすぎではないだろうか。
もしかしたらみんなで行くご飯に混ぜてもらうとか、そういう可能性もあるのかと思っていた。でも彼の口振りからして初めから二人でご飯に行くつもりかのようで…その先については考えることをやめた。これ以上彼の前で顔を赤くしたくはない。なにせ私はただ夕食に誘ってもらっただけなのだから。


「仕事は何時に終わる?」
「お、お店は18時までで、その後の片付けもあるから…19時くらい、ですかね…」
「ならその時間にまた来る。それと食いてェもんがあるなら考えとけ」
「え、いいんですか?キッドさんにも食べたいものがあるのでは?」
「お前は牛丼だったりピザだったり遠慮なく食うからな。変な心配はしてねェよ」
「うわわわわっ…!」


どうしてこの人は忘れてほしいことをいつも引き合いに出すの…!
良くも悪くもざわめいていた胸中に、それとは全く別の風を吹き込んでくる。私が大食いだってこと、この人はいつになったら忘れてくれるんだろう。いや、そんなこと別にいいと言えばいいのかもしれないけどそれは女の人っぽくないかなって。か、可愛く見られたい気もするし…!
しどろもどろで身振り手振りが大きくなりがちな私とは対称的に、落ち着いていてやっぱり可笑しそうに口端を軽く上げるだけの彼はまた来ると言って店をあとにした。

彼によって作られた裾風が下を向いていたお花たちの首を揺らす。落ち着けと言っているのかな。それとも良かったねと笑っているのかな。
そんな中、紫のトルコキキョウがひときわ大きく揺れた気がした。

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